人口が減少し日本というガラパゴスな市場が縮小する中、世界にマーケットを求めていくとは不可欠で、「グローバル化」は避けて通る事はできない。しかし、多くの日本人の中でこの言葉の持つ意味は非常に曖昧だ。
もちろん人によってグローバル化という言葉はそれぞれ受け止め方が違うので、私の考えと全く違う考え方の人もいるだろう。ただあえて今日は私の考える日本のあるべきグローバル化の話をしたいと思う。
グローバル化という言葉が、私が考えるように「世界で勝負できる力」を意味するならば、そうした能力を持つ日本人はごく限られた一部だ。しかも、そうした力を育てる教育も日本では実践されていない。しかし、こうした力こそ、飽和状態となっている日本を再び世界のマーケットプレースに押し上げ原動力になるのではないかと思う。
良くも悪くも、我々が言うグローバルスタンダードは欧米のスタンダードだ。欧米のみならず、世界という大舞台で「成功し続ける」事は並大抵ではない。学生からは大人気の「英語を使う仕事」としての外資系企業に勤務するというのは、今や「国際派」という物差しにも引っかからないだろう。
世界で勝負できる人材とは、ニューヨークヤンキースのイチロー選手や、iPS細胞の山中伸弥教授のように技術や知識に精通し、日本人である事が全くプラスに働かないような競争の激しい舞台においても、「彼らのルール」で「勝ち続ける能力」だと思う。企業で言うのならば、世界のどこに派遣されても、市場開拓をする能力なのかもしれない。
私の経歴を知る人は、私をグローバル人材の一例だという。確かに、私は高校時代をロサンゼルスで過ごし、日本の大学を卒業後、民放で働いていた時にはワシントンDCに派遣された。UC Berkeleyのジャーナリズム大学院卒業後は、ワシントンポストやジャパンタイムズなど日米の新聞社で記者として働いている。だが、私の経験や能力は私が憧れるグローバルではない。米国で生活し、米国企業で働く事は可能だろうが、米国のジャーナリズム業界で、ネイティブスピーカーを相手に「彼らの土俵」で勝ち続ける事は非常に難しいからだ。
建設的議論ができない日本人
日本人には英語コンプレックスがあり、高い英語能力=優秀と勘違いする節さえある。だが、それは全くの間違いだ。要は中身なのだ。私の職業で言えば、確かに英語を母国語とする外国人をうならせる英文を書く能力は必須条件だ。しかしもっと重要なのは、いかに日本のシステムを理解し、それを外国人のために噛み砕いて表現する知識と技術だ。英語がネイティブ級の帰国子女やインターナショナルスクール出身というだけでは、できる芸当ではない。
さらに、日本人の多くは欧米では最も基本的な作法である「建設的議論」を理解、実践できずに失敗する。以前、国際会議に出席した時、ある東大の教授がディスカッションにも関わらず、20分以上を自分のスピーチに費やしていたのを覚えている。司会者にも問題はあるが、こうした例からも、自分の意見と相手の意見を戦わせた上で新しい考えを導きだすという欧米の常識が、一部を除き多くの日本人は理解していないことが分かるだろう。自分の意見だけを押し通すのでは、議論する意味がないのだ。
昨今の若手アスリートの活躍さながら、日本人の平均的能力は非常に高い。しかし、そうした能力も「中身」のインプットを怠り、議論や会話の作法を身につけていなければ生かされる事は無く、世界という舞台で競争する事ことはできない。
私はこの事に初めて気づかされたのは、ロサンゼルスの高校に通い始めて間もない頃、同級生の誕生日パーティに招かれた時のことだ。授業では全く苦労しなかったのだが、テレビ番組やティーネージャーの文化など、その土地で生まれ育っていなければ理解できない会話は難しかった。招待された誕生日会でも友人同士の会話に加われず、ただニコニコしていると、突然その中の一人の男子から「お前はただニコニコしているだけだが、ただの馬鹿なのか、それとも俺たちを見下しているのか」というものすごいパンチを受けたのを覚えている。
「自分は留学生であなたたちの会話がよくわからない」と説明すると、理解はしてくれたものの、「へらへらすると勘違いするから、分からない事は質問しろ」と厳しい言葉を投げかけられた。欧米では自分の考えを表明し共有できなければ、存在価値さえ認められないという事を学んだ瞬間だった。
こうした経験は、後の高校、大学院生活や、国際会議に出席した時に非常に役立った。どんなに些細な事でも貢献する事が求められるのが欧米だ。多少厚顔無恥になってアピールしないと、存在さえ認めてもらえない。相手に興味を抱かせる事が重要なのだが、国際的な集まりにおいても、多くの日本人は同胞同士で群れ合うだけで他と交わろうともしない。
勘違い?
日本人は留学に対して楽しいイメージを持ちがちだ。学部で1年留学しただけで「米国人」になったつもりで帰国してしまう人も少なくない。そういう人たちの多くは、就職活動に置いて日本企業の閉鎖性を批判する場合も少なくない。何を隠そう高校3年生で日本に帰国したときには、私も日本の全ての制度を否定してしまった経験がある。以前ニューヨークタイムズ紙では、日本企業がグローバル人材を重視しながら、採用は非常に日本的だという記事を掲載したが、そうした主張は物事の一面しか見ていない。こうした留学組を以前取材する機会があった。なぜ日本での就職を選んだのかと聞くと、「米国では就職できないからだ」という。米国で生き残る力が無いのにも関わらず、自分をグローバル人材として売り込む姿に私は疑問を感じた。
外国で学んだ経験をなぜ評価してくれないのかという彼らの気持ちを理解できない訳ではないし、中には、グローバル化を標榜しながら、全く中身がついてきていない日本企業も多数ある。しかし残念ながら、就職できなかった留学組は、「海外での貴重な体験と多少の語学力」しか売りにできなかった。海外経験や語学能力のみが強みとなる時代は、もうとっくの昔に終わっているのだが、それを理解できていない事が問題だ。
また、日本に帰ってくる事を決めたのならば、日本のシステムをある程度受け入れる姿勢を「演出する事」が重要だ。個人の小さな力では、これまで何十年と続いてきた日本企業の慣習は変えられない。就職の面接の時は相手を見ながら日本方式で対応し、入社後に自分のカラーを出しながら、社内文化をグローバルススタンダードに変えればいいのではないか。
つまり、中途半端なグローバル人材に限って、自らのグローバル性と日本人としての特性の使い分け方を理解できていない事が多い。
重要なのは「自分のアイデンティティと向き合う能力」
海外生活をすると必ず突き当たるのが、「自分は何者か」というアイデンティティの問題だ。自分の生まれ育った文化風習や歴史を理解し、それを他者と共有できるのかということだ。そういう私も、20代前半までは、日本人というアイデンティティを過小評価し、米国に染まろうとした。しかし、私は逆立ちしても日本人だし、それを生かす方法を見いだす事が重要だということを、ジャーナリズムスクールの競争の激しさの中で痛感した。多くの文化を背景に持つという事は、ディスアバンテッジではなく、アドバンテッジだ。様々な文化を使い分ける能力を持つ人間は、単一文化や社会しかし知らない人間より競争力や適応性が高い。それを異なった場面で使い分ける能力を身につける事こそ、世界で活躍する術であると思う。
さらに、自分の得意の分野で相手を圧倒させる技術と知識を持たなければ、世界で活躍する事など不可能だ。他者に負けない自分の強みを知り、それを伸ばし続ける事こそ、グローバルマーケットで自分の能力を高く売っていく事につながる。
こう考えると、日本人が世界で活躍できる条件は決して英語では無いと事がわかるだろう。英語は「必要最低条件」ではあるものの、アドバンテージになる条件ではないのだ。
建設的議論をする技術や、自らの社会文化的背景を反映したアイデンティティ、さらに他者に負けない確固たる知識と技術を持つ事がグローバル能力のはずなのだが、日本のグローバル議論はいつまでたっても、英語力の向上に終始する。語学力という点でしかこの問題を捉えられていない事こそ、日本がいつまでたっても「日本版グローバル化」の域から抜け出す事ができない大きな理由だろう。
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