[PR]

 歌人柳原白蓮(びゃくれん、1885~1967)が福岡県飯塚市の高校に通う女子生徒に宛てた直筆の手紙が見つかった。飯塚は白蓮が駆け落ちするまでの10年間、「炭鉱王」の夫と暮らした地。「いゝ事(こと)したので(は)ありません」としながら、長い歳月が「恩も恨らみも憎しみも清めるものか」と、心境を記している。

 女子生徒は福岡市東区の山下(旧姓村上)由紀子さん(71)。県立嘉穂東高校の文芸部長だった1959年、部誌「緑苑(りょくえん)」の学校創立50周年記念号に寄稿してもらおうと、東京に住む白蓮に原稿料1千円を添えて手紙を送ったところ、快諾する返事が届いた。

 原稿用紙3枚に、飯塚への思いが記されていた。

 「御承知でしょうが 私は決して 御地でいゝ事したのでありません 年月のはるかなる 流れが すべての喜怒哀楽 恩も 恨らみも 憎しみも 清めるものかと つくづく感じました」

 「私こと 覚えていて下さるだけでも 勿体(もったい)ない」などと依頼への謝意を伝え、本名の「燁子(あきこ)」という署名もある。

 白蓮は1911年、「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた伊藤伝右衛門(1860~1947)と結婚。現在も飯塚市に残る豪邸で暮らしたが、10年後に社会運動家と駆け落ちした。人気ドラマ「花子とアン」でも白蓮をモデルとした葉山蓮子が登場する。

 嘉穂東高校は、伝右衛門が創設した嘉穂郡立技芸女学校が前身で、白蓮は女学校の教育に携わりたかったとされる。山下さんは当時、白蓮のことは知らず、顧問の先生の勧めで寄稿を頼んだ。北九州市の東筑紫短大を訪れた白蓮に、先生に連れられて直接会っても頼んだ。山下さんは「もの静かな影の薄い女性」と感じた。「駆け落ちする情熱があった人とは思えない」