結局、捕鯨問題とは何なのだろうか。資源の枯渇が問題なのか。それとも国際的な政治的対立が問題なのか。
それも確かにそうだろう。しかしそれでは現在の日本の状況を説明するのには不十分である。私がもっとも深刻な問題として感じるのは、捕鯨再開を求める声が日本人の間でどれほど共有されているか不明確であるにも関わらず、捕鯨再開を求める政策が変更されない点である。いわば、捕鯨問題は資源とか国際とか言う以前に、日本人が日本政府の行く末をきちんとコントロールできていないという国内問題なのである。まず最初に、そのことを日本人がきちんと認識しなければならない。
捕鯨に対する態度を人々が表明しなくても、捕鯨問題は勝手に進んでいく。それによって日本人に対する世界のイメージが低下してしまう恐れがあるのは、私としては残念でならない。
国際社会でのイメージについて触れたので、結びに代えて国際捕鯨委員会(IWC)と、その存立基盤である国際鯨類取締条約(ICRW)に触れておきたい。
日本が現在南氷洋で行っている調査捕鯨は、ICRW第8条1項に定められた主権の正当な発動である、とするのが日本政府の主張である。この条文は非常に強力で、科学的研究のためであって、IWCが指定する団体へその科学的調査から得られた資料を提出しさえすれば、ICRWの一切の条文には制約されずに捕鯨ができてしまう。このような強い権限が加盟国の政府に残されているのは、ICRWが国家主権は絶対であった1940年代に締結されたことと無関係ではないだろう。
日本政府は、南氷洋でのクジラの生態系を調査するためとして、1987年以来毎年調査捕鯨を続けている。調査をするのは何のためか。クジラのことを知るためである。なぜクジラのことを知ろうとするのか。将来商業捕鯨を再開するときに、捕鯨枠を科学的に算出するためである。もちろんそれ以外にも、調査捕鯨を続けることで捕鯨技術の伝承を狙うなどといった理由はあるだろう。しかし、将来にわたって南氷洋捕鯨を諦めるとなった場合に、今のように日本でが南氷洋での調査捕鯨にこだわるだろうか。
調査捕鯨が非難を浴びる最大の理由は、副産物として出る鯨肉が日本で販売されることである。これもICRW第8条2項に、捕獲されたクジラを「実行可能な限り加工」するよう定められているからだ、とするのが日本側の主張である。もともとICRWは前文で「鯨族の適当な保存を図って捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする」ことを目標の一つに掲げており、その性格から言ってこのような規定が出てくるのは当然ではある。それに一旦成立してしまったクジラ市場が日本にある以上、実行可能な限り加工して利用するとなると、商業捕鯨となんら変わらない形で消費されてしまうことは避けられない。これも、ICRWが設立当初は想定していなかった問題点だろう*1。
ICRWの問題点はまだまだある。漁期などを定める附表を修正するのに必要な賛成票を委員会の4分の3以上という高い基準に設定しているため、ここ数年のIWCでの話し合いはずっと押し問答が続いていて新たな展開が見られない。第5条3項にある手続きで異議を申し立てれば如何なる附表の修正にも拘束されないため、捕鯨が行われていたころの捕獲枠の設定に事実上の全会一致が要求された結果、もっとも利益率の低い国家が異議申し立てをしないよう、かなり大きな捕獲枠が指定されていた。そしておそらく現在の反捕鯨国がもっとも歯がゆく感じているであろう点だが、条約の精神に基づかない行動に対して実効的制裁を下せる規定が無い*2。
商業捕鯨停止以降、日本ではICRWからの脱退がよく議論された。反捕鯨国が牛耳っているIWCになど所属している意味は無い、という論調が主であった。しかしこうして条文を見てみると、IWCの機能不全はICRWの不備にあるようにも見えてくる。
より建設的な案として、ICRWを軸として、より柔軟に運営していける新たな条約を作るという形でICRWと決別するというのはどうだろうか。現代は1940年代とは異なり、世界全体のためならば国家主権も制約されるという時代である。調査捕鯨の実行前にその必要性を審議したり、あるいは実行後に他国の申し立てによってそれを差し止めることを可能にすることも考えられる。異議申し立てによる留保に期限を設けることも必要かも知れない。また円滑な運営のためには、附表の改正に必要な賛成票を5分の3や3分の2まで下げる必要もあるだろう。
誰がこのような面倒な作業に進んで取り掛かるものか、という批判は素直に認めるほか無いが、環境行政で世界をリードすることを日本が本気で考えるならば、より機動的な新ICRWを作ることも決してマイナスではないように思う。
先ほど「結びに代えて」と書いたが、最後にここにだけは触れておきたい。未来の日本人が捕鯨問題をどう捉えるかが、この問題への対処によっては大きく変わりうるからだ。
前述したとおり、鯨肉を学校給食のメニューに加えている学校が増えてきている。鯨肉を学校給食に出すということは、本論文のイメージでいけばクジラのイメージとして(d)食料というものを子供たちに与えることを意味する。一方で、第2章でも見たとおり、歴史的にはこの(d)というイメージしか持たない人々が増加した後に、捕鯨の大暴走があった。クジラに対するイメージが単一であるというのは、これまでさまざまなイメージを投影されてきたクジラを理解するうえで大きなマイナスであるし、捕鯨問題の真の姿を見えにくくしてしまう恐れすら感じる。
ただ食べるだけでなく、クジラと接する機会を与えたり、絶滅の危機に陥った歴史を教えたりといったことを怠っていては、捕鯨再開を願う勢力の多数派工作にしかならないし、それが子供たちのためになるかどうか大いに疑問である。
理想主義的ではあるが、将来世代の子供たちがより多角的で思慮に富んだイメージをクジラに対して抱くことで、いつか捕鯨問題を正常な方向へ解決することができるのではないだろうか。