空虚な人生を晒すブログ

空虚な人生を脱却したいと思ってたけど、空虚なままに晒すことにした。

『アナと雪の女王』はひき裂かれた自己をどう救ったのか

アナと雪の女王』をGEOで借りて見ました。

最近読んでいたR.D.レインの『ひき裂かれた自己』と重なる部分が多かったと思いました。詳しいことはこちら↓

R.D.レイン『ひき裂かれた自己』から空虚な自分について考える。 - 空虚な人生を晒すブログ

 

というわけで、『ひき裂かれた自己』に惹きつけて『アナと雪の女王』を考えていこうと思います。

ラストシーンまでネタバレをするので、お気を付け下さい。

 

幼少期、エルサは魔法の力により、アナを傷つけてしまった。アナはトロールの治療でケガが治ると同時に、エルサの魔法の記憶を消されてしまう。エルサはトロールに「魔法は美しいが大きな破壊も伴う」と指摘され、アナとの思い出が自分の攻撃性の発露として記憶される。

アナの怪我以降、エルサは魔法の力を両親以外誰にも知られないよう封じ込めるように命令される。部屋に一人で監禁されたような生活となり、アナとも関係が断たれてしまう。

両親=社会の抑圧により内発性を封じ込め、そんな姿が称賛されるという構図は、R.D.レインが分裂病質を促進させる家族や社会の振る舞いとしていたものに通じる。他者に盲従しがちな分裂病質患者が“いい子”として称賛されていたように、エルサは“王女”として称賛される位置にいる。こうしてエルサは自分の内発性=魔法の力を抑圧し奥に潜め、両親に盲従するように生きることを余儀なくされる。R.D.レインの用語を使うならば、内発性=魔法の力=非身体化された内的自己であり、両親や社会に盲従するエルサ=身体化されたにせ自己と表すことができる。

非身体化された内的自己と身体化されたにせ自己に分裂してしまった人間は、自律的なアイデンティティが確立されていないため、「呑みこみ」の危機にさらされる。外界の事物が自分を侵害し呑みこんでくるように感じられる。それに対する抵抗は、ひきこもって一人になるか、身体化されたにせ自己を操作することによって成し遂げられる。

そんなエルサの心情が、情緒性豊かなアナとの対比によって戴冠式に流れる『生まれて初めて』で残酷なまでに表現されている。

 


『アナと雪の女王』生まれてはじめて / アナ(神田沙也加)&エルサ(松たか子) - YouTube

 

エルサの『もしも この手で触れたら みんな気付いてしまうわ。』という歌詞は『ひき裂かれた自己』で出てきた、自分が他人を電気で殺すから、誰とも身体を接触させることを許さなかった女子分裂病患者を想起させる。

 

身体化されたにせ自己の操作で自己を守らなければならないエルサとは対照的に、戴冠式で城が開かれることで自由を謳歌するアナはハンス王子と出会い、婚約を結ぶ。

しかしエルサに婚約のことを伝えると、『愛のことなんてわかってないでしょう。』と拒否されてしまう。自己が分裂したエルサにとって、愛とは呑みこみを伴う危険なものだと思われたのだろう。

そんな冷たいエルサに対し、『どうしていつも一人でいるの?何をそんなに怖がってるのよ。』と詰め寄るアナ。エルサは耐えきれず、『やめてって言ったの!』と衝動的に魔法の力を繰り出してしまう。その魔法の力は圧倒的な破壊性を含むものであった。散々抑圧してきた魔法の力(非身体化された内的自己)は現実とは相容れないほどに破壊性を肥大化させていたのである。魔法の力(非身体化された内的自己)が露呈してしまったエルサは、自己防衛として誰もいない山に逃げ込むのである。

 


一緒に歌おう「アナと雪の女王」 Let It Go<歌詞付Ver.>松たか子 - YouTube

 

このシーンはR.D.レインのこんな言葉を想起させる。

このような分裂病質者はある意味で全能的であろうとしているのである。ただし、他者との創造的関係にたよらずに、他者や外界が彼の前に実際に現れることを必要とするような関係諸様式を自己存在の内部にすっかり封入することによって、全能的であろうとしているのである。彼は非現実的な不可能な仕方で、自分にとって自分がすべての人間でありすべての物であろうとしているように思われる。想像される利益は、真の自己の安全、他者からの孤立とそれによる自由、自己満足と統御である。

エルサが『ありの~ままで~』と歌えるのは、現実の人間関係から逃避し、独りの空想の世界だけで全能感に浸っているからと言える。これは明らかにエルサが自暴自棄となり精神がかなり病んでいるシーンである。空想の世界の全能感は現実の偶然性や必然性に縛られないため、現実の倫理的・道徳的なことが抜け落ちている。この全能感と倫理・道徳の無さは英語の歌詞によく表れている。

『どこまでやれるか自分を試したいの そうよ変わるのよ 私』

という部分が英語だと

It’s time to see what I can do To test the limits and break through
No right, no wrong, no rules for me,I’m free!

直訳すると

『私ができることを試す時が来たのよ。限界を知り、打ち破ってみせるわ。

 正解も間違いも、ルールもない。私は自由よ。』

となる。まさにエルサの自暴自棄の中の全能性が表現されている。

エルサが山の上に築いた氷の城は、非身体化された内的自己と身体化されたにせ自己の可視化されたものと見ることができる。外観がクールで美しい氷の城は、情緒を隠しながら他人に盲従し称賛される分裂病質性の人間の身体化されたにせ自己である。『少しも寒くないわ』と城のドアをバタンッと閉めるエルサは身体化されたにせ自己の内側に籠もっていく非身体化された内的自己そのものということになる。

そしてこの氷の城が山の頂上にあるという構図が、非身体化された内的自己が現実と接触を持たずに、全能感に浸っているということを象徴しているようである。

 

エルサが山に逃げてから、国全体が雪に覆われ、人々は寒さに悩まされる。この作品では氷や雪や寒さは非情緒的なものとして描かれている。雪に覆われ、寒さに悩まされる人々というのは、エルサが世界や人々を半ば石化された疎遠なものとして感じていることを表している。雪の覆われた(非情緒化された)国や人々というのは、エルサの感じている世界そのものなのである。物語はこれから先、エルサの主観的世界観のもとで描かれていく。

例えば、エルサを探しに雪山を歩いているアナが『あんな力秘密にしてたのも悪いと思うけどね、本当やんなっちゃう。』と言うと木の上に積もっていた雪が降りかかってきて、アナは埋もれてしまう。ちょっとした非難の言葉の中にも多大な攻撃性を感じてしまう自意識過剰になったエルサの、アナへの攻撃願望が環境そのものとなって表れたようなシーンである。

 

冬を終わらせるためにも、籠もったエルサを探しているアナは、クリストフに出会う。

このクリストフも若干、自己が分裂してる存在にみえる。トナカイのスベンと自分という一人二役で会話しているし、童貞臭い発言ばかりしているのに恋愛のスペシャリストの友達がいるとか言ってるし(無能性の上に築かれる全能性)、「氷が俺の全てさ」とか後で発言もする。

でも一人二役をすることでスベンと仲良くできているし、自分が恋愛のスペシャリストと豪語しているわけではなく、友達が…とずらせているし、クリストフはうまく自分と付き合っている存在として描かれているように思える。クリストフが氷売りをしているというのも、氷(非情緒性)とうまく共存していることの暗喩なのかもしれない。

 

そんなクリストフと雪山を歩いていると、オラフに出会う。オラフは、幼少期にエルサがアナを魔法の力で傷つけてしまった時に作っていた雪だるまである。

オラフはまさにエルサとアナの過去の記憶を媒介するものなのである。

このオラフは自分を紹介する歌のところで、過剰なまでに夏への憧れを主張する。

オラフ(二人の思い出を媒介するもの)が冬にしか生きられないということは、二人の思い出が非情緒的な世界の中でしか存在できないということであり、これはエルサがアナとの思い出を攻撃性の発露としてしか認識できないことを表している。

オラフが夏への憧れを主張するということは、二人の思い出を情緒的な繋がりの思い出として復活させたいという、エルサの中にかろうじて残っている微かな希望の表現なのである。

このオラフ(エルサの中の思い出の中の微かな希望)に案内されながら、アナとクリストフはエルサの籠もっている城を目指し、到着する。

アナが城のドアをノックするとドアは開き、『開けてくれた、初めて。』と歓喜するアナ。そして中にいるエルサと出会い、帰るように促すが、エルサは『一人で自分でいられるし誰も傷付けないですむ。』と拒否する。

そしてオラフが後ろから登場してくることで、エルサは幼少時のトラウマを思い出してしまい、城の奥へ逃げようとする。

アナはエルサを追いかけ、国の人たちが雪で困っているために季節を戻してと懇願する。自分も協力するからと。自分のせいで多くの人が困っているという現実を知らされたエルサは、頭を抱え『やめてー!』と叫びながら魔法を発動してしまい、アナの心に氷を突き刺してしまう。そして魔法の力で大きな雪男を作りだし、アナとクリストフとオラフを強制的に城から追い出す。

この城での一連の出来事は分裂病質の特徴を可視化したものとして表している。

氷の城(身体化されたにせ自己)を超えて中に入り込んできたアナ(現実)が、エルサ(非身体化された内的自己)を追い詰めていく。アナ(現実)の脅威に耐えられないエルサ(非身体化された内的自己)は、氷の力でアナ(現実)を凍らせ(石化させ)、雪男を作りだし、アナたち(現実)の脅威を排除する。

 

その後アナはトロールのところへ行き、このままでは心が永遠に凍り付いてしまうこと、凍った心を解かせるのは真実の愛だけだということを知らされる。

 

一方エルサは更に現実の脅威に苦しめられる。ハンス王子やウェーゼルトン公爵の部下が雪男を倒し、城の中へと入りこんでくる。現実の呑みこみの力はとてつもない。結果エルサはハンス王子に捕まり監禁されてしまう。

監禁され否応なく現実に縛られることで、拒否反応によりエルサの魔法の力(非身体化された内的自己)は膨張し、鎖と壁を魔法の力で破壊し、エルサは猛吹雪を起こしながら逃げる。もはや現実世界は猛吹雪により見えなくなっている。魔法の力(非身体化された内的自己)は現実を完全に覆い尽くしてしまったのである。この時のエルサは現実との繋がりを一切持たない妄想の住人に限りなく近づいている。

 

一方アナは、ハンス王子に騙されたり監禁されたりと、様々な挫折を味わい生命の危機に瀕しながらも、オラフに導かれながら、真実の愛の相手であろうクリストフを探し求めている。

 

猛吹雪の世界(妄想の世界)をひた歩くエルサだったが、ハンス王子の『君の妹は死んだ。君のせいだ。』という言葉により一気に現実に引き戻される(猛吹雪が止む)。取り返しのつかないことをしてしまったと、エルサはうなだれ、ハンス王子は後ろからエルサを剣で殺そうとする。それを目撃したアナは、真実の愛の相手であろうクリストフが自分の方に向かってくるのを振り切り、自分の命を懸けてエルサを守りに走る。エルサを守ることに成功したが、アナは完全に凍りついてしまった。これこそオラフが言っていた『自分より人のことを大切に思う』真実の愛の姿なのである。

エルサは凍りついたアナに泣きつくことで、アナは元の姿に戻り、世界を覆っていた雪も解けてハッピーエンドになるのであった。

 

この真実の愛とは一体何だったのだろうか。

それは両親や社会の抑圧によりもはや感じることができなくなってはいたが、エルサの記憶の中にはかろうじて残っていた、幼少期のアナとの情緒的な繋がりだったと思われる。

それを作品の中で一貫して象徴しているのがオラフ(エルサとアナの記憶を媒介する思い出)である。冬でしか生きることのできないオラフは、アナとの思い出を魔法の力(攻撃性)の発露としてしか認識できなくなったエルサの記憶であり、オラフの夏への憧憬は、魔法の力と情緒性を共存させることへの憧憬(エルサが抑圧したアナとの情緒的な繋がりの記憶の復活への希望)であった。その抑圧した記憶は、非身体化された内的自己と、身体化されたにせ自己に分裂する以前の状態である。エルサの抑圧された記憶の復活を担っているオラフは、危機に陥ったアナを常に真実の愛へと導いていた。アナを真実の愛に常に導いていたのは<オラフ>=<エルサが抑圧したアナとの情緒的な繋がりの記憶の復活への希望>だったのである。アナが命を懸けて凍りきながらもエルサを助けた時、エルサの抑圧された記憶が回帰し、復活した幼少期の情緒的な繋がりによりアナは元の姿に戻ることができたのだろう。それこそが真実の愛の姿だったのである。感情豊かに泣きながら、凍りついたアナに抱き着くエルサの姿は、非身体化された内的自己と身体化されたにせ自己が和解した瞬間だろう。最後にエルサが魔法の力でオラフ専用の雨雲を作り、オラフが夏の街と共存できたことは、<エルサの抑圧された記憶の復活>=<真実の愛>=<非身体化された内的自己と身体化されたにせ自己の和解>の象徴なのである。

 

 

強引なところもたくさんあるかもしれないけど、『ひき裂かれた自己』に引きつけながら鑑賞できて、とても楽しかった。

自分に引きつけて考えると、自分にとってのアナがこの世に存在しているのかは、甚だ疑問なのであった(-o-)チーン

 

まぁディズニーだしね…(小声)

 

 

 

 

 

アナと雪の女王 オリジナル・サウンドトラック -デラックス・エディション- (2枚組ALBUM)

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