特集 戦争の代償と歴史認識
1923年9月1日に発生した関東大震災にともない、6000人以上の朝鮮人が軍隊や市民によって虐殺された。政府が虐殺を煽動した証拠があり、当時の帝国議会でも議員による責任追及がなされたが、山本権兵衛総理が「目下調査中」と答えたまま現在に至るまで、政府による謝罪や調査、原因究明は行われていない。
こうした状況を変えるために発足した「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」は日本政府に対し、「政府が関わった虐殺の真相を明らかにし、犠牲者の実態調査を行い、これらの関係資料を開示し、恒久的に保存すること」を求め、5000筆以上集めた請願署名を提出するとし、5月21日、参議院議員で集会を開いた。
- 記事目次
- 政府が流したデマ「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火」
- 証言「朝鮮人、シナ人を殺せば手柄になると思って」
- 「不逞鮮人の虚構」の穴埋め
- 「朝鮮人の遺体の数がわからないようにしろ」
- 「目下取り調べ進行中」との政府答弁から90年経過
- 「負の歴史」に過去に向き合うことは、「自虐」ではない
- 「植民地支配の象徴例」朝鮮人虐殺の歴史的背景
- 講師 田中正敬氏(専修大学教授)
- 内容 請願に至る経緯/請願の内容と朝鮮人虐殺事件の概要/署名した方々の声・意見交換
- 主催 関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会
政府が流したデマ「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火」
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり 既に東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」
これは、警察を所管していた当時の内務省が、震災発生の2日後の9月3日午前中に、全国の道府県宛に送信していた電報である。「関東大震災の朝鮮人虐殺と国家責任」というテーマでこの日講演した専修大学文学部教授・田中正敬氏はこうした資料を引用し、いまだに果たされていない政府の責任について言及した。
田中氏は、この電報が虐殺に繫がったと位置づけ、「そして大事なのは、朝鮮人への警戒や取り締まりを呼びかけた流言問題と、『戒厳令の施行』が結び付いているということ。戒厳令は、朝鮮人や社会主義者への治安出動として出されたと考えられる」と話を展開する。
証言「朝鮮人、シナ人を殺せば手柄になると思って」
9月2日に東京市、豊多摩郡、北豊島郡などの一部で公布された戒厳令は、翌3日には東京府、神奈川県、4日には埼玉県、千葉県に拡大された。そしてその中で軍は、実際に虐殺を起こしている。
田中氏は、韓国出身の歴史学者・姜徳相氏が、書籍『震災・戒厳令・虐殺(三一書房)』の中で、「(軍は)9月2日早朝、戒厳軍となり、岩波隊は朝鮮人200名を虐殺、松山隊は300名、岡野隊は170名を捕虜にするなどの『戦果』をあげた」と指摘していることに触れ、こうした軍関係者が、次のように証言していると紹介。
「3日の朝連隊に行くと、みな流言を本当だと思っていた。私が戻る前に、岩波少尉が部下20数名をつれて小松川に派遣され、すでにだいぶ殺していた。戦にいって敵を殺すのと同じように、朝鮮人、支那人を殺せば手柄になると思って」
田中氏は、「こうした証言からも、軍は最初から殺すつもりだったことがわかる」と分析する。
当時の司法省の資料『震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書』には、「東京 4日 夜 亀戸警察署構内 犠牲者・社会主義者9名 加害者・軍隊 手段・兵器」、「千葉 4日 午後5時30分頃 難行徳村下江戸川橋北詰 被害者・朝鮮人5名 加害者・騎兵第15連隊 手段・射殺」などと記述されており、軍隊による虐殺を認めている。
しかし、当然、これはすべての虐殺を網羅したものではなく、後になって、地域住民などの証言によって、その他の様々な虐殺の実態が浮かび上がってきているという。
「不逞鮮人の虚構」の穴埋め
内務省が通達したような「不逞鮮人」は発見されなかった。内外からの責任追及を恐れた政府は、2つの対応をとった。
一つは流言の打ち消しだ。9月3日、警視庁は「一部不逞鮮人の盲動ありたるも、今や厳密なる警戒に依り、その跡を絶ち、鮮人の大部分は、順良にして、何等凶行を演ずる者之無き」と宣言。朝鮮人への暴力を抑えようとした。「しかし、一度政府がお墨付きを与えた流言は簡単にはおさまらず、軍隊によるものをふくめて虐殺は続いた」と田中氏は説明する。
もう一つの対応は、流言を「事実」として押し切ろうとしたことである。政府の治安担当者は5日に集まり、「朝鮮人の暴行を極力捜査し、肯定に努めること」「風説を事実として出来る限り肯定することに努めること」などの方針を決定した。しかし、その後の捜査でもそうした事実は発見できなかったという。
「朝鮮人の遺体の数がわからないようにしろ」
虐殺された朝鮮人の遺体の隠蔽も、政府主導で行われていたようだ。
『かくされていた歴史――関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件 増強保存版(1987年。関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会編・発行)』によると、埼玉県で、「死体は、県からの命令で、朝鮮から調査にくるから至急に片づけろと言ってきた。(略)死体を並べて上から石油をかけて火をつけた。(略)何しろ『数がわからないようにしろ』というお上の命令なので、残ったのはまたやりなおした」という証言がある。
1923年11月14日付の「報知新聞」では、「骨も掘れずに遺族引還す」という見出しで、憲兵や警官らの遺体隠蔽によって遺体を引き取れなかった遺族のことが記事にされている。
田中氏によると、こうした隠蔽工作があったため、虐殺された被害者の身元や正確な人数が、現在に至るまで把握できずにいるという。
「目下取り調べ進行中」との政府答弁から90年経過
「朝鮮人虐殺事件に関する裁判の被告はすべて民間人で、警察や軍人は責任に問われなかったが、政府の責任は国会で追及されてことがある」と田中氏は説明する。
1923年12月14日、関東大震災から約3ヶ月後、田淵豊吉議員は帝国議会で「1000人以上の人が殺された大事件を不問に付して宜いのであるか。朝鮮人であるから宜いという考えを持っているのであるか、吾々は悪いことをした場合には、謝罪すると云うことは、人間の礼儀でなければならぬと思う」と発言している。
翌日、永井柳太郎議員も同様の追及をしたが、当時の山本権兵衛総理が、「目下取り調べ進行中」であると答弁したまま90年が経ち、現在に至っている。
「負の歴史」に過去に向き合うことは、「自虐」ではない
田中氏は、ここまでの事実からも、日本政府には朝鮮人虐殺に関する責任があることは明らかであり、遺族へ謝罪し、必要な措置をとるとともに、山本権兵衛総理が答弁した「調査中」のその後がどうなったかを明かし、調査した資料の公開と保存が必要だ、と訴えた。
最後に田中氏は、「教科書をはじめとして朝鮮人虐殺に関して明確な記述をしなかったり、朝鮮人に関する『流言』が『事実』であったと公言する傾向が見られるが、この問題は対岸の火事ではない」とし、「排外主義的な言動が公にされるような現状をみても、政府が、虐殺事件に関与し、事件を隠蔽、放置してきた責任を認め、真の解決のために真相究明にとりくむことが大事だ」と主張。
「『負の歴史』を含めて、真摯に過去に向き合うことは、決して『自虐』ではない。逆に日本が外国から信頼される契機になる」と締めくくった。(IWJ 原佑介)
「植民地支配の象徴例」朝鮮人虐殺の歴史的背景
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