【第一海堡】 |
【第二海堡】 |
【第三海堡】 |
そして第三海堡ですが、左は1988年(昭和63年)当時の画像です。(国土情報 ウェブマッピングシステムより引用) 暗礁のようになってしまった海堡は浦賀水道航路を日に700隻ほどと頻繁に行き来する 船舶にとってこの上なく危険な存在となり、多くの海難事故を発生させてしまいました。 |
第三海堡は、第一海堡の完成した2年後の1892年(明治25年)に当時の最 先端技術を結集して着工されました。走水と第二海堡の中間地点で、それぞれから約2.5km の位置ですがそこは水深39mもあって潮の流れも激しいところです。 |
とんでもない難工事で、せっかく築いた堤防も度重なる高波によってあっけなく破壊さ れてしまうということの連続で、ようやく竣工したのは着工から30年後の1921年(大正 10年)になってからでした。そしてなんと、そのわずか2年後の関東大震災によってあっけ なく崩壊し、水没してしまいました。 |
もともとの形はカブトガニ(私見です)のようであったとされ、そこに砲台や兵舎、 探照灯施設、観測所、弾薬庫などがありましたがこれら全てのものが海中に没してしまいました。 (東京湾口航路 事務所ではCGによって再現した第三海堡の画像を公開しています。) |
巨額の費用と長い年月をかけて作られた第三海堡は軍事施設としての目的を果たすことな く消えてしまい、それから80年、暗礁となった第三海堡は多くの海難事故を誘発することにな ります。そして2000年(平成12年)、撤去にむけての工事が着手されました。 |
撤去は大型のクレーン船によって行なわれ、引き上げられた構造物の一部は追浜の展示場 に保管されています(上の4枚)。またそのうちの一つ、大型兵舎は平成町のうみかぜ公園に展 示保管されています(下の2枚)。 このようにでかい物を引き上げたことにも驚きですが、長いこと海中にあったコンクリー ト構造物のしっかりさにも驚きです。 |
撤去工事は2007年(平成19年)に完了し、撤去した後の水深は23mとなって大型 船舶の航行にも十分とのことです。 |
ちなみに海からの攻撃を想定したこれらの海堡や沿岸にある砲台などは実際には 航空機が主戦力となったためあまり活躍することはありませんでした。しかし日露戦争 開戦直後(1904年)に房総沖を襲ったロシア艦隊が東京湾に入れなかったのは第一 海堡が抑止力となったためといわれています。 それと余談ですが、海堡埋め立てのための石材は各地から集められたのすが、そ の中には三浦半島の鷹取山や房総半島の鋸山から切り出されたものも一部あると思われ ます。 |
【参考文献】 (1) 東京湾海堡ファンクラブ (2) 東京湾口航路事務所のHP |
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