いやー、これすばらしいですね。星海社新書で一番面白い。編集は平林緑萌さん、いい仕事をなさいますね!
「江戸しぐさ」はUFOよりもあり得ない
「江戸しぐさ」。なんか一時期はやってましたよね。あれから普及し、何と今は、文科省が制作する教育資料にも採用しているそうな。
でも、あれ、なんと嘘っぱちだそうで。冒頭、著者が「江戸しぐさ」のでたらめさについてズバズバズバーッと切り込んで、なんとも痛快な一冊となっております。著者は「江戸しぐさ」はUFOよりもあり得ない、とすら語っています。
「傘かしげ」の嘘
有名な「江戸しぐさ」のひとつ「傘かしげ」。すれ違うときに傘を斜めに傾ける仕草ですね。で、これは「誤解に基づく創作」とのこと。著者によれば、
- 江戸時代の末期でも、差して使う和傘は贅沢品であり、江戸っ子たちは頭にかぶる笠や蓑を使っていた。
- そもそも、立ち止まって道を譲る、または傘をすぼめる方が賢明。和傘は洋傘よりもすぼめやすい構造になっている。
- 路地で「傘かしげ」をやると、すれ違う相手の代わりに人の家の土間に水をぶちまけるおそれがあった。
なんて理由から、「実際の江戸の生活では実用性がない上、はた迷惑になりかねないしぐさだった」と語っています。
「こぶし腰浮かせ」の嘘
誰かが来たら場所を詰める「こぶし腰浮かせ」も、嘘であると。
- 江戸時代の渡し船には座席にあたる構造がない。が、「江戸しぐさ」では座席が描かれている。
- 渡し船には人間だけが乗るのではなく、馬も一緒に乗る。移動するなら腰を上げた方が合理的。
- そもそも渡し船は川の両岸を往復するものであるから、途中で誰かが乗ってくることは通常ありえない。
- 茶店の縁台のような場所を詰めるイラストが見られるが、そこには湯のみも茶菓子の盆もない。くつろぐための空間であるはずなのに、なぜか人が詰めている。
- 「こぶし腰浮かせ」は電車やバスのような長い座席からしか生まれない発想である。
このイラストでしょうかね。たしかに、冷静に考えるとどういうシチュエーションなのかわかりません。こういうマナーが求められるシーンって、どのくらいあったんでしょうね。
でたらめな食文化の記述
まだまだツッコミが入っているんですが、かなりわかりやすいところだと、特に食文化に関して、明らかな誤りがあるそうで。
- 江戸しぐさを推進する越川氏の著書「商人道」では「バナナは江戸っ子の大好物だった」という記述があるが、食用のバナナが流通するのは日清戦争以後。
- 「トマトを食べていた」という記述もあるが、江戸時代には食べられていなかった。
- 江戸にはチョコレート入りのパンがあったという記述があるが、チョコレートの普及は明治以降。
- 江戸には「江戸ソップ」というしいたけなどを細かく切ってことこと煮込んだ野菜スープがあったという記述があるが、当時しいたけは高級品であり、疑わしい。1990年代に流行った「野菜スープ健康法」からの創作だと思われる。
これらの点について、著者は厳しく、
「江戸しぐさ」の作者は、どうも江戸期の風俗をまともに調べて創作することをしていないのではないか、と思えてくる。
そして、むしろそれらは、昭和初期の食生活の反映と考えたほうが理解しやすいのである(中には「江戸ソップ」のように平成初期のものまである)。
と語っています。まぁ、調べれば明らかな間違いだとわかることを、堂々と本を書いてしまうのはちょっと驚きますね…。
「江戸しぐさが残っていないのは、江戸っ子(女・子ども)虐殺されたから」
教科書に載らない江戸しぐさ pic.twitter.com/ELa8bvo6y0
— いけだたかし (@ikdtk4) 2014, 1月 5
何よりびっくりするのは、越川氏のこの話。
江戸っ子を一部の官軍は目の色を変えて追い回した。"江戸っ子狩り"は嵐のように吹きあれた。摘発の目安は"江戸しぐさ"。ことに女、子どもが狙われた。
私たちの目はふれないが、ベトナムのソンミ村、アメリカネイティブのウーンデッドニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたという話もあながち嘘ではないかもしれない。
それらは、史実の記録はおろか、小説にも書かれていないが
えー!知らなかった!江戸時代に虐殺があったなんて!
一部の江戸っ子たちは、勝海舟の手引きで江戸を逃れ、各地で江戸しぐさを伝える組織を維持したそうな…。勝先生熱い!
「江戸しぐさ」は書き残すことを禁じられていた仕草であり、薩長勢力を嫌った江戸っ子たちが記録を焼き払ったため、現代には残っていないんです。すごいな江戸しぐさ。
ちなみに「ウーンデッドニーの殺戮」「ソンミ村の虐殺」は、規模的には小さく、前者は多く見積もっても300人、後者は504人とされています。江戸の人口は54万人。
「そのうちの数百人、それも伝承の担い手ではない女子供を主に殺害することで、広く共有された伝承が絶えるということがありうるのだろうか」
虐殺によって伝承が失われた、という説は合理性に乏しいですよね。
教育から追放するために
こういった虚偽が教科書に採用されて、既成事実化してしまうのは恐ろしいことです。マナーを教えたければ、著者がいうとおり「原型になったと思われる英米風のマナーを教えればいい」だけです。
嘘を付いて道徳を仕込むというのは、それこそ道徳的とは言えない態度です。個人的な目的の達成のためなら、堂々と嘘を付いてもいい、ということを教えることになってしまいますよね。この点に関して、著者は以下のように語っています。
虚偽によって人々を自分の主張に誘導するというのは、ファシストがよく行う手口である。「江戸しぐさ」の実在は虚偽だと知りつつ、自分の考える道徳に教え子を誘導するのに便利だから使うというのは、ファシズムに抗するどころか教師がファシストに近づく第一歩になりかねない。
そもそも、教育の場で教師が堂々と嘘を付くということ自体、深刻なモラルハザードなのである。虚偽を根拠に道徳が説けるわけがない。
同感でございます。
虚偽が含まれる「江戸しぐさ」を教育から追放し、検証を深めていくためにも、まずはこの本がよく売れることが必要だと思います。というわけで、みなさんぜひポチッと。社会に一石を投じる良著です。