キリスト教は一神教と言いながら不思議な存在を持っている。先に紹介した聖母マリヤの他に天使もそうだ。不思議をほぅっておけないのがケノの性質であるから、今回は天使の誘惑に落ちてしまおう。
天使の名前をいくつか思い出してみる。ミカエル、ウリエル、ラファエル、ガブリエルと語尾に「エル」がつく。エルとはヘブライ語で神である。ミカエルとは「神に似たもの」で、それが天使の代表であるから、天使とは神のご一族(眷属)であるらしい。しかし一神教の建前があるため不思議現象をいろんな神に割り振る多神教方式が取れない。そこで「天使」という中間的存在を発明したわけだ。こう考えてみると、多神教が当たり前だと思っているケノから見ても、一神教も内実はいたって健全に思える。その天使がユダヤ教経由でキリスト教に入ってきた。そして天使の世界は後に精緻なものに組み上がっていった。イスラム教もユダヤ教の天使を一部受け継いだ。[絵は、10月の守護天使 Barbiel ]
聖書には創世記から天使が現れている。神は、エデンの園からアダムを追放した後、エデンの東に「きらめく剣の炎」と共にケルビムを配置して結界したのだ。本格的に働くのはアブラハムの信仰を確かめる時である。彼が、我が子イサクを神への生け贄に捧げようと刃物を取り上げた途端、神の御使いが降りてきて止めるのだ。その後もコレゾという時に天使は何度も現れては救いの手を差し伸べている。聖書のほかに外典(偽典)の福音書であるエノク書には多くの天使が現れていて、天使研究の重要な対象になっているようだ。新約聖書でも多くの天使談がある。ルカ伝のマリアへの受胎告知が有名だが、使徒言行録でもペテロやパウロは天使に助けられている。もちろんヨハネの黙示禄でも重要な役を天使は果たしているのだ。このように聖書では天使は神の伝令役や守護者として大活躍しているのである。
キリスト教の天使と言えば、アレオパギタのディオニュシオス(いわゆる偽ディオニュシオス、6世紀)の『天上位階論』による天使たちの9層のヒエラルキーを紹介するのが常識となっている。神と人間とは月とスッポン程の差がある(喩になってないなぁ)。で、その間を埋めてゆくために天使には9段階も必要なわけだが、大まかには3段階になっていると言う。この 3x3=9 の構成にしたのは、ディオニュシオスが新プラトン学派の影響下にあることを示しているのだが、その話はここではよそう。
先ず、常に神の傍にいる天使たち(セラフィム=熾天使、ケルビム=智天使、トローニ=座天使)。次ぎに宇宙を動かす意志と法則と監視の役を果たす天使たち(ドミナティオーネス=主天使、ウィルトゥーテス=力天使、ポテスターテス=能天使)。最後に人間の管理の役目をする天使で、守備範囲の大きい順に3種(プリンキパートゥース=権天使、アルカンジェリ=大天使、アンジェリ=天使)がある。アンジェリは殆ど個人専任の伝達係といったところで、宗教的な重要な天啓はアルカンジェリの役目である。因みに、このクラスに大天使ガブリエルがおり、マリアへの受胎告知やムハンマドへの啓示も夫れの役目だった(アラビア語ではジブリール)。
この天使はその後の歴史でも多く現れ、宗教上の節目を飾っている。戦争の勝敗を分けこともある。キリスト教の聖人や神秘主義者の手記など天使談は大変な数になるだろうから、粘液質の方はその手の成書を見ていただくとして、ケノの不思議の旅は先へ進む。
天使に似た役割を果たすものにキリスト教には聖霊がある。これも神の意思の伝達者である。天使より聖霊の方が格が上のようである。なにせ三位一体論からすれば、神と同じ性質(ウーシア)を持つのであるから。しかし調べたところでは、聖霊と天使を比較検討した頁に当たったことはない。まぁ、神の伝達者として同じ類のものであろう。ただ、十分に比較したわけではないが、この聖霊は天使とは出現の状況が異なるようにも思える。危機が迫ったり瞑想している時に現れるのが天使で、説教集会の時に現れるのが聖霊であるらしい。また、天使は人型の姿をもって現れ、聖霊は形が明瞭ではないようだ。
以前にも出した例を再び取りあげよう。使徒行傳第10章に、ユダヤ教徒以外の異邦人(コルネリオ)に始めて布教した時のペテロの話がある。神がイエスに聖霊と能力を注いだのでイエス・キリストは遍く善きことができたんだ、と説教してると、ユダヤ人にも異邦人にも「聖霊の賜物」が注がれてきたという。今風に言うと、集団的にヴィジョンを見たわけで、それを媒介する光や風のような実体的な<物>があると考えて「聖霊」と呼んだと考えられる。それがメッセージをしたためて信者の内部に入ってくるのである。この集団幻覚を招来させる集会は密儀(神秘集会)そのものであり、メソポタミアや小アジア起源のギリシャ密議、さらにエジプト密儀などの影響を感ざるをえない(同じ流れにミトラ密儀があり、中国まで伝わったことは別に書いた)。
ヘレニズム世界では聖霊は常識であった。ペルシャでは神の分霊のことをナルジャミーグと呼び、それがギリシャ語でパラクレートスと訳されている。パラクレートスは日本語訳聖書では「弁護者」となっているが、聖書中では聖霊のことを意味する。いずれも父なる神の分霊である。いわば神の意思を伝える思考の塊のようなものを想定していて、これが生命力とごったになった概念として聖書中にルアーハとかプネウマと書かれている。世界の創造主が人に生命力やヴィジョンを吹き込んでいるのだ。マリアを身ごもらせたのも聖霊であったことを付け加えておく。
聖霊に似たものにソクラテスのダエモーンがある。他でも書いたが、ソクラテスには場所や時を構わず立ち尽くして動かなくなってします奇行があった。ある時、戦争のために国外に出て野営している所でこの癖が現れた。人々はいつまで立ち尽くすのかを見届けようと寝椅子を持ち出して見張っていたところ、周囲の揶揄の声も何一つ耳に入らないかのごとくカッと目を見開いたまま立ち尽くして、やがて夕刻となった。更に夜更けても同じで、やがて夜が明け太陽が顔を出した時、やおらソクラテスは我を取り戻し、いつもの表情になると、昇る太陽に向かって祈りを捧げて、その場を立ち去ったのだ。ソクラテスはダエモーンの声を聞いていたと答えるのが常だったとプラトンは記している。ダエモーンは、霊界からの伝達者であったのだ。
これらの天使・聖霊・ダエモーンなどを古代人や宗教家のタワゴトだと片付けては行けない。この現象は認めなければならない。天使という現象はあるのだ。しかし天使の実在とは意味が異なる。神の存在は論議を置くとして、神のようなものからの伝言は確かに存在するのだ。その伝言者が、天使であったり、聖霊であったり、ソクラテスのダエモーンであったり、とヴァリエーションするだけの違いだ。
ここでジュリアン・ジェインズの仮説(1975年)を紹介する。ジェインズは、古代の神話を例にあげ、危険な行動を抑制するのは自分の理性ではなく「神の声」によることが多いと言う。古代人は理性や自己意識など持ち合わせていないかのようである。古代では人は神と共にいたのだ。その神の声の実体は右脳からの直感的メッセージである。やがて理性が高まるにつれて右脳と左脳の分離が始まる。同時に神の声から疎遠になったのだという仮説である。人は、意識を獲得する代償に、神の声を聞く能力を失った。意識の進化とは神との別離の過程に他ならないのだ。
角田忠信は、1981年に「脳の発見」という本を書いた。そこで右脳と左脳の働きを上手に区別する方法を書いている。片方の耳から雑音を聞かせ、もう一方から言葉なり特定の音を聞かせ、雑音にも負けす聞こえたのであれば、その音に対する処理をその耳(脳は逆側)が行っていることになる。こうやって、言語は左脳で、音楽は右脳で処理していることを証明した。そして日本人の脳の処理が、他の言語族の人のそれとは異なるという結果を示している。その後、満月前後にこの両脳の働きが逆転する現象も見出し、続編の本としたがこちらはあまり受け入れられなかった。また、右脳と左脳の連絡がなされていることの証明も十分でなかったようだ。その後、多くの研究者により脳梁を通じて両脳の間で情報交換が行われていることが分かってきた。しかしその過程は無意識下であり、特別の働きであるとは考えられていない。また、脳梁が大きな女性のほうがその情報交換も多く、幅広い頭の働き方をしていることが分かっている。
しかし単純な右脳左脳論では、天使を説明できないと考える。なぜなら神からのメッセージは、突然やってくる。しかも面会時間はたっぷりと持続する。これは通常の脳梁を介した両脳間の情報交換とは違ったパターンであると考えられるからだ。で、ケノはこれを後頭部にある視覚野(V1)を介しての情報交換ではないかと私は想像している。目を閉じても神の御使いは姿が見えるからだ。実は、このV1に結ばれる映像は、実際の視覚像と想像した時の像との区別がつかない。何かの拍子に右脳が創作した像がここに結び、これを左脳が解釈しようとした時、人は天使を見ることになるのだ。
再び天使に遭いたいものだ。今は古代人のようには、この右脳からの映像によるメッセージ受けなくなった。右脳が弱くなったのか左脳の判定がきびしくなったのだろうが、ある種の能力を失ったことは間違いない。くしくも12年前、何も知らずにデカルトの天使について書いたことがある。そこで「天使は自分の中にいる」と言った。求めるべきは自らの天使との対話法の確立である。歳星が一巡りしてケノの話も天使に戻ってきた。ひょっとするとこの12年間というもの天使の誘惑に囚われていたのかもしれない。今あらためて天使との対話の練習を始めようと思う。人はそれをオカルトと呼ぶ。しかし隠れることも誘惑の一つには違いないのだから。
[2001.10.28]