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2014/08/27new

教育系・人文社会系不要論の問題点について

Tweet ThisSend to Facebook | by:oksyk

「研究ブログ」の最初の記事が、大学改革関連となってしまうのは遺憾なのだが、平成26年国立大学法人評価委員会総会の「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」について(案)が、国公立大の人文社会科学系について気になる文言を含んでおり、私の周りでも話題になっているので取り扱うこととした。

「ミッションの再定義」を踏まえた速やかな組織改革が必要ではないか。特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むべきではないか。

日比嘉高氏もブログで述べておられるように、文科省は国立大に人文系はいらないと基本的に考えている、という噂は私も聞いていた。ただし私が聞いたのは「地方国立大に」というニュアンスであったが。

で、私は基本的には上記の提案に反対であるため、この記事を書く。
何故ならその提案は(1)格差と分断を前提とした提案であり理念的に美しくない、(2)実効性がなく、気分重視の提案でしかない、と感じるからだ。(特に(2)は地方国立大の現状という面もあわせて、声を大にして訴えたい。)
以下、FBにも載せた文章を転載、編集して掲載する。

(1)格差と分断を前提とした提案であるということについて

私自身の推測では、同提案は人文社会科学系の「追い出し」ではなく「分断」と大学間格差の固定をはかるものである。人文社会科学系、特に恐らくは文学的なものが、東大や京大のように資金をつぎ込んで「貴族的」な使命を担わせることの出来る一部の国立大と、やはり資金をつぎ込んで美しい図書館を用意できる一部私大の占有事項となるような力学が働いている(少なくとも後者はアメリカで既に起きたことで、その結果、学費高騰、教育ローンを組んで私大に行き人文系を学ばせることの是非論争が起き、私立カレッジなどの人文系は苦しい立場に追い込まれたわけだが)。

自分としては分断には抗していかねばならないと感じている。
帝国列強の時代、欧州列強の植民地の大学には農学と工学ばかりで、本国には自然科学の理論研究と人文社会科学があったわけだが、よほど強い住民運動でもあったならまだしも、その構図をわざわざ上からの演出により、二一世紀の日本国内で
再現することもなかろうと感じるからだ。

ただ、格差による分断は既に起きているのかもしれない。そして交渉の余地があるとすれば、「分断がどこまでひどくならずにすむか」という部分においてなのかもしれない。
特に苦しいと感じるのは、ターゲットにされた人文社会科学系研究者の一部に、既にかなりの萎縮効果が現れているように見えることだ。それも今日昨日に起きたことではない。立て続けの改革、それも人文社会科学系のリズムとは違う数量的な思考の持ち主達に、競争力はないのか、社会に貢献できるのかと問われ続けて自信を失ってしまった。自暴自棄になってしまった。そしてもう定年も間近で、新しいことをこれからやる気が起きないから、学生を引きつけるような指導もなされない。悪い場合は魂を売って、時事問題や就活セミナー的な短期的にもりあがる取り組みを「社会貢献だ」と自分に言い聞かせてやり過ごす。そんな風景が、苦しい場所に行けば行くほど広がっているように見える。

言い方は悪いが、一連の改革は、こうして人文系の現場を壊死させるためにあったのではないか、と悪意の解釈をしてしまいたくなるくらいの状況が起きてしまっている。

違う考えの人たちと話し合うのは簡単なことではない。人文系の置かれてきた状況については、たとえば、育児を工場生産の基準で評価しようとする人たちに、養育者達が必死になって抗弁するような場面を想像するといいかもしれない。それは、将来学費を1000万くらい使い潰すリスクのある子どもを1時間公園に連れて行く間に、となりの工場では製品が100個作れてプラスの売り上げが○○円になるから、その子を頑張って育てるより工場に投資したら?的なことを言われているような気分だ。

(なお、私は工場労働そのものは見学レベルの経験しかなく、育児に関しては年の離れた弟の世話と院生時代のベビーシッターくらいなので、ある意味双方とも平等に経験がないことは断っていく。)

わかってもらうためにはとにかく、子どもと一緒に過ごしてもらうようなことをやらねばならないだろう。それも忙しい人が相手だと自明ではないわけだが…。
ここ数年、色々数字にすることも考えてみたが、それこそ育児の魅力を数字で伝えるような苦しさを感じる。


私たちの仕事は、属人的で、一人の頭脳がどこまで産めるかを試すようなところがあるから、分業がなかなかできない。論文の本数が飛躍的に増えることはない。
そもそも論文より本が大事であることも多く、一つの本の魅力は人間の魅力にも似た所があるので、定量的な基準で計りづらい。100年くらい効力を持つものも少なくない。

(2)実効性がなく、気分重視の提案でしかないものから起こりうる弊害

「社会のため」という表現は大変漠然としている。実際、原理的にいって、精確な数量化は不可能である。それでも、恐らく、これについて話し合った大都市の人たちは、ある程度「社会のため」についてのビジョンを概念化できているのだろう。たとえば、アメリカ西海岸や欧州のどこぞの大学の先進的な取り組みについてのデータを持っていたりするのかもしれない。その人達はそれでやればよい。

しかし、瀬戸内や九州や東北、山陰などの諸大学がそうとは限らない。もともと人間が少ないのだから、現地の地域「社会」を把握するだけのデータ蓄積だって少ないかもしれない。人材も多いわけではない。そんな状態で、「社会貢献」をいわれたらどうなるか。わけがわからないまま、とにかく元々価値のわからなかったものを別の価値のわからないものにすげ替える、ということに陥らないだろうか。

定量的に計りがたいものを、決してそれ自体定量的に計れるわけでもない「社会のため」という指標で置き換えるようなことはかなり暴力的なことである。しかもその暴力は、悪いことに、辺境でこそ強く作用してしまう。
既に、私の見た範囲では新興宗教まがいの取り組みに走る者もいないわけではない。耳あたりのよい言葉と身体によい修行などがあれば、喜ぶ人々はそれなりにいる。それ自体は悪いことではない。しかしそれが「大学ならではの社会貢献」ではないだろう。

とりあえず、末端の人間としては「社会のため」という気分だけのキーワードに負けては行けないと思う。それこそ何の数字も指標も示されておらず、それは現状では「気分はパッションフルーツ」(たとえがバブルっぽくてごめんなさい)レベルの比喩でしかないのだから。



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