番外編U 戦艦”陸奥”を潜る

(瀬戸内海・柱島沖に眠る陸奥
          英霊への慰霊シリーズ)

(瀬戸内海の周りに点在する旧軍の遺構や資料館など)






随分と昔の若い頃にバイクでツーリングをして回った
関西や中国地方、山陰山陽方面ですが…中々、その
後は行く機会も無く30年近くが経過しました。江田島
の海軍兵学校や大津島の回天記念館、周防大島の
陸奥記念館、四国に渡って宇和郡御荘町の紫電改
展示館…長い歳月を経て見るものが同じ物として写る
のか違う物として写るのか…その見る者の過ごした歳
月が大きな違いを与え左右するのでしょうが、私にと
ってもう一つ気がかりでならなかった戦艦”陸奥”を潜
る事を棚上げにしていた事でした。まだ身体の自由が
きくうちに日本のど真ん中に一隻残る沈船の陸奥を慰
霊し…序に若い18〜19歳で旅した想い出の地を再訪
してまいりました。短い日程でたった一日でワンチャン
スで潜りましたが…念願が叶い海底に眠る陸奥の40
cm主砲の砲口をこの手で触れる事ができました。一
部引揚がなされた船体ですが…未だに残る船体には
…四十数柱の御遺体が眠っておられると聞き及びます
。改めて犠牲になられし多くの御霊の御冥福をお祈り
致します。 合掌




  <戦艦陸奥:最終改装後の基本性能データ>

基準排水量:39.130t

主要寸法:全長224.94m×幅34.60m×喫水9.46m

エンジン:蒸気タービン4基4軸 出力:82000PS

速力:約25.3kt

航続力:10090浬(16k航行時)

乗員:約1500名

主要兵装:45口径41センチ砲×8門 14センチ副砲×18門
       12.7センチ高角砲×8門 25ミリ機銃×20挺

水上偵察機3機搭載

戦艦”陸奥”は、所謂、八八艦隊計画の戦艦”長門”型の二番艦として”長門”建造
の約一年後、横須賀海軍工廠で建造されました。ワシントン軍縮会議直前の大正
10年10月24日に竣工。しかし工事未了の箇所が多く、米・英は完成艦とは認めず
廃艦処分にすることを要求。日本はこれに反発し、度重なる交渉の後、米・英に其
々、40センチ砲搭載艦二隻の保有を認めるという妥協案によってようやく”陸奥”の
存続が決まりましたその後、ワシントン軍縮条約により昭和12年まで新たな戦艦の
建造は認められなかったので、アメリカの”メリーランド”、”コロラド”、”ウエストバ
ージニア”、イギリスの”ネルソン”、”ロドネー”そして日本の”長門”と”陸奥”は、当
時、七大戦艦と呼ばれました。昭和9年から11年にかけて”長門”とともに近代化大
改装が行われ、41センチ主砲は最大仰角30度、射程30,200m、砲の推進機も水圧
式であったのを、最大仰角43度、射程37,900m、砲の推進機は空気式の新方式に
転換しました。この時取り外した四番砲塔が海軍兵学校の教材として、今も江田島
に設置され残っています。主砲弾の総重量は1トン、有効射程距離は30キロメート
ルです。戦艦”陸奥”は、昭和18年6月8日正午過ぎ、山口県柱島泊地にて三番砲
塔付近で 突如謎の爆発事故を起こし沈没。艦長 三好輝彦 海軍大佐(海兵43期)
以下乗員 1,121名の方が戦死されております。
長門と共に栄光の連合艦隊旗艦として大日本帝國の海軍力の及ぶ範囲の
海に君臨した戦艦”陸奥”は、大和級戦艦の”大和”と”武蔵”が出現するま
で世界最強の戦艦といって過言でありませんでした。そして謎の爆沈を遂げ
た海底に眠り66年の歳月が流れましたが…今も尚、その威容と栄光は消え
る事無く我々日本人の心に残っています。爆沈で乗員1.474名のうち1.121
名の方が犠牲になられました。








柱島泊地(広島湾)に沈む 戦艦 ”陸奥”


海軍 戦艦 ”陸奥”



上の其々の青と赤の大きな星印が陸奥が沈んだ柱島泊地のポイントとなります。

陸奥の沈む海上のボートより360度をぐるり見渡して撮影してみました。
上の左右が有名な柱島です。この静かなのどかな海域がつい半世紀以上前
まではアジアに世界に覇を唱えた帝國海軍の一大拠点だったとは…とても窺
い知れない感じでした。
まさしくこの海に陸奥は沈み…約64年前は帝國海軍最大の泊地として一大拠点
あった海域です。今は時々連絡船や漁船が通るのみの静かな海です。
鳴く
許されたワンチャンスの当日は生憎の氷雨でした。海面は凪いでいましたが
その空と風景は…陸奥の犠牲者達が哭いているような印象を持ち、エントリー
前より敬虔な気持ちになりました。
下の左右の島は大きな周防大島(屋代島)です。ここには陸奥記念館があります。
東京から出発する前の1〜2ヶ月は吉村氏の名著”陸奥爆沈”や陸奥引揚の
実現を適えた遺族の17年を描いた”海市のかなた”を再読しイメージを高めて
この日を迎えました。


現在の海底にある陸奥の状況図です。艦体の約70%が浮揚され
艦橋部と艦首部等を除く艦の前方部分などが海底に残ています。
平成19年4月9日に第六管区海上保安本部所属の測量船”くるしま”が
マルチビーム探索機を使用して海底調査を行う戦艦”陸奥”の艦影を
三次元画像処理し一般公開した画像です。

アンカーブイを打って集合場所になっている艦底部の一番浅い部分です。
ここで約水深12〜3mです。上の左右の画像は集合部でビデオ撮影をし
ている私(憂国烈士)です。この辺りまでは撮影はきれいにうつるのです
がここから海底に向かうと透明度がガタ落ちして暗い為、写した映像も?
?と言う具合になりました。
   オレンジの花が咲き乱れたような艦底部です。非常に透明度が悪く濁っています。

ガイドさんです!水深12〜18mでは、まだ透明度が5〜6mありますが
光が差さない20m以下、海底の40m付近は透明度が2〜3mでしょうか
あまり条件の良いポイントで無い事は確かなようです。
シルト及び海中の浮遊物が多くフラッシュをたいて撮影しても暗い海底では
この浮遊物を写してしまいデジカメやビデオのオートフォーカスが効きません
でした。透明度の良い南方の海でレックをしていると中々気が付かない状況
と言えます。道理で深い領域での画像が少ないのが納得します。YouTubeな
などの動画が時々、UPされていいますが大体が浅い艦底付近が中心です。
船体に開いた亀裂…爆発の規模の大きさが想像されます。
舷窓は殆どが開いておりました。
80回以上陸奥を潜っているガイドさんは、この日…艦内に
入り新しい通路とトイレなどの残存を確認できた仰っていま
した。
船腹から海底に向けて潜行中の私(憂国烈士)です。
EAN33のナイトロックスのダブルタンクで潜りました。


海底に散乱する食器類です。この他にも履物など多くの物が
落ちています。この後に船尾に向かい第一砲塔の主砲を見に
向かいます。上記の図と少し違うのは主砲は砂地に埋もれる
ように下を向き砲口は三分の二以上が砂に埋まっています。
砲口部の砂を手で掻き出して撮影しましたが…暗くて透明度
悪くよく映っていませんでした。それが残念でしたが念願の主
砲の砲口を手で触れて還る事が出来…感激しました。


旧海軍兵学校の教育参考館に展示されている陸奥の
艦首に取り付けられていた菊の御紋です(右の大きい
方)。水中から引揚られた為、歪な変形を見ます。
旧海軍兵学校にある陸奥の第四砲塔と主砲
陸上にあるこの美しいシルエットの砲と海底で触れた砲が
同じものとは何となくピンと来ず実感が湧きませんでした。
下は陸奥の41cm主砲に使われた
同型艦”長門”の主砲砲弾です。

呉の大和ミュージアムに展示されている陸奥の主砲と主錨、主舵、スクリュー

東京の船の科学館に展示されている陸奥の主砲です。



以下はYouTubeにあった戦艦”陸奥”の引揚の記録映像です。


戦艦”陸奥”の引揚の動画 1



戦艦”陸奥”の引揚の動画 2



戦艦”陸奥”の引揚の動画 3



戦艦”陸奥”の引揚の動画 4



戦艦”陸奥”の引揚の動画 5






戦艦”陸奥”の沈没海域を望む
           周防大島にある 陸奥記念館

(山口県周防大島町大字伊保田)



爆沈した陸奥の眠る海域を望む場所にある陸奥記念会館です。







以下は記念館の外の展示品です。
菊のご紋が外された陸奥の艦首部分です。今、外された
菊のご紋は江田島の旧海軍兵学校 教育参考館に展示
されています。





























記念館内部の展示の風景です。







水中慰霊祭も行われていたようです。





























出身県別の乗組員の写真が掲示されています。
引揚作業を担当した深田サルベージの
潜水夫が使用した実物の潜水服です。





〜 軍艦 陸奥 引揚を記念して作成された記念品 〜
    (引揚の実物廃材を利用して作成)


引揚材料使用した軍艦 陸奥 引揚記念の副錨(1/30 模型)です。
高さが約13cm、横約9.5cm、幅約2.8cm、重さ約197gあり
ます。




こちらは少し大きな軍艦 陸奥 引揚記念の主錨です。
深田サルベージ株式会社によって引揚げが行われ、
三井金属工芸株式会社によって加工制作されました。
本品は「陸奥」の引揚材の中の真鍮部分を使用して作
られています。表面処理は純金メッキ仕上げです。
この記念錨は30〜40年くらい前に一般に領布されま
した。その利益は、靖國神社の顕彰碑建立基金の一助
となりました。

「陸奥」の小錨は靖國神社遊就館に展示してあります。

この品は前のオーナーが飾らずに保管してあったので、
状態は美品です。但し残念な事に元箱がありません。

 (大きさ)

 高さ:約21cm 幅:約13cm 奥行:約5cm
 重さ:約2.5kg



同じくサルベージ記念のメダルです。


上の画像は靖國神社の遊就館に展示されている引揚げられた
戦艦”陸奥”の副砲と小錨等です。






大津島の回天記念館と回天基地の遺構

       (山口県周南市)



  ”天を回らし戦局を逆転させる”

          (めぐらし)

            ↓

こうして命名されたのが必殺の特攻兵器人間魚雷”回天”でした。

 人間魚雷”回天”(○六金物一型)

回天の訓練基地として山口県周南市(旧・徳山市)の徳山湾に浮かぶ大津島がよく
知られています。大津島の一番南、元は別の島だったものの、400年くらい前につな
がってひとつの島になった馬島に戦時中は、回天の組立工場とそれを海に下ろすた
めのエプロン2ヵ所と島の裏側に発射練習基地がありました。島の反対側までトンネ
ルがあり、その先に発射練習基地があります。発射練習のコースは大津島の徳山湾
の東にあたる内海側から黒髪島方面に発射して戻ってくる第1コースと…やはり内海
側から発射して、馬島を周回して外海側の発射練習基地に戻る第2コースと…内海
側から発射して大津島を北上し、島の西を回って、外海側の発射練習基地に戻る第3
コースがありました。この大津島の基地は、まもなく手狭になり、同じ山口県内の周防
灘側の光と平生にも基地が設けられました。更に大分県速見郡日出町大神にも基地
が設けられた。大津島を含めて、4ヵ所に基地があったことになります。回天の出撃は
、大半が大津島基地からで14回、他に光から12回、平生から2回の出撃が行われまし
た。発射練習基地はそのほとんどが破壊され、大方の輪郭のみ残っているものの一部
老朽化が進み立ち入り禁止になっています。通称「ケイソン」と呼ばれています。

敗戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、
予備学生など合わせて1,375人に及びました。このうち実際に出撃戦死した者
は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、敗戦により自決した
る者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり
…その方々を全員含めると 145名に及びます。




徳山港(現山口県周南市)からフェリーにて大津島へ渡ります。
戦前は海軍燃料廠(旧海軍煉炭製造所)があり大企業も進出して
大正時代には徳山港として開港、特別輸出入港に指定され繁栄
した港です。
戦後、昭和23年に下松港を編入し徳山下松港となる。海軍燃料廠の跡地に
昭和32年、出光興産が進出。徳山精油所を整備し、石油化学コンビナート
の礎を築く。これと相前後して、戦後復興による好景気も手伝って徳山下松
港の利用も増加し、昭和26年に重要港湾への指定されました。昭和40年に
特定重要港湾に指定され、以後、徳山地区(旧徳山市域)、新南陽地区(
旧新南陽市域)を中心に整備事業が行われています。
昭和20年5月10日に徳山港がB−29による空襲を受けている写真
です。上下とも、爆撃中のB-29から撮影された写真になります。


大津島への玄関口となる徳山港にも回天のレプリカが設置
されています。…レプリカと思えない迫力がありました。
いきなりの回天が無造作に道路脇に置かれていて
出発前にボルテージは最高潮に上がり始めました。
このレプリカは、映画”出口のない海”で使用されたものです。
全  長   14.75m
全重量     8.3t
爆  薬    1.55t
軸馬力    550馬力
最大速度 (T型)30ノット
       (W型)40ノット
潜航深度   80m  





徳山港を出港する小さなフェリーです。


別名 回天の島です。


大津島の馬島港に到着するとすぐに目に入るのが回天供養の像と碑です。


魚雷調整場から発射試験場へ抜けるトンネル。当時のままに
残っています。通路の下には回天を運んだレールの後がコン
クリで埋められた跡が残っています。当時のままの頑強で静
寂なこの空間…誰も居ないトンネルを歩くと当時と同じ空気、
雰囲気がそのまま流れているのを感じて厳粛な気分にさせら
れます。
長いトンネルの途中にある出口の一つから見る魚雷発射試験場
トンネルが広く拡がる辺りでは、このように写真パネルが展示
され人が通過するとセンサーが反応し説明が開始されるように
なっています。





















回天坂を上り養浩館を過ぎて上がると回天記念館へ至る石畳の
回天烈士の名前と出身地が刻まれた銘碑の道が粛然と続きます。
回天碑の横にある平和祈念の鐘・・・ここは静かで厳粛な空気が漂います。


回天碑です。


森繁久彌氏の”浮きつ島 鼓海を訪ふ”の碑


記念館の前に展示されている実寸大の複製模型です。





実際の回天の推進器の残存したものです。





以下は館内となります。





私達日本国民は貴方達を決して忘れません。時が過ぎても皆さんが示した勇気を伝え続けます。
若く純粋な皆さんが愛し守ってくれた日本に生まれ育った事を私達は誇りに想います。

回天烈士の英霊の皆様、本当にありがとうございました。



















映画”出口のない海”で主演の市川海老蔵氏が乗った操縦席です。



回天を題材にした映画で2006年に公開された”出口のない海”です。
戦闘シーンの無い戦争映画として話題になりました。











































感動のフラッシュ”嗚呼、回天特別攻撃隊”です。

再生の際しては先にこのページTOPのMIDI音楽を止めて
からお楽しみください。







靖國神社の遊就館に展示されている回天1型です。
…右奥は戦艦”陸奥”の副砲、奥に艦爆”彗星”。







嗚呼、江田島の海軍兵学校
      (現 海上自衛隊第一術科学校)

(広島県江田島市江田島町中郷)



海軍兵学校のシンボルである古鷹山(標高376m)です。
明治21年の旧海軍兵学校江田島開校以後は、心身鍛錬のために兵学校
生徒が登りはじめ、小説「坂の上の雲」の登場人物で有名な広瀬中佐も兵
学校在学中に100回以上登ったという逸話もあります。現在でも、多くの
海上自衛隊員が登っています。昭和17年10月12日にサボ島沖海戦にて
戦没した重巡”古鷹”は、この山が由来と成り命名されています。


広島を訪れてこの江田島に足を向けないわけには行きませ
ん。こちらも若い10代の時以来の再訪となりました。最近の
若い人は、呉の大和ミュージアムを見て江田島を訪れずに
帰る人もいると聞き驚きました。大和ミュージアムも悪くは無
いでしょうが…流行廃りの人気アトラクションより帝國海軍百
年の歴史を感じ…そして今、活躍する海自を良く知ってもらい
たいものと強く感じます。
大講堂です。鉄骨煉瓦石造の大講堂は大正6年に兵学校生徒の入校式、
卒業式また精神教育の場として建築されました。外壁には瀬戸内海産の
花崗岩を使い、内部はほぼ吹抜けとなっており、約2000名の収容能力が
あります。90年以上経った今日も、変わらぬ姿で、建っております。 現在
は幹部自衛隊員候補生、自衛隊生徒等の入校式、卒業式等儀式に使用さ
れています。




こちらは一般の人が出入りする入り口です。この裏に貴賓用の専用エントランス
がありますので…この一般の出入り口は裏口に当たるようです。

こちらが普段使われない貴賓者
用のエントランスです。
こちらを利用される方は、戦前は皇室の御関係者で
現在は防衛大臣や地方自治体の長で江田島市長や
広島県知事などもこちらの入口を使用するようです。





海軍兵学校生徒館で通称:赤レンガと呼ばれた建物です。
現在は幹部候補生学校庁舎として使われています。


かつて燦然と輝いた菊の御紋章は今は無い。

約百年前に建てられた施設群ですが…美しく存在するように見えますが
よくよく見ていると気が付きますが電柱が一つもありません。今も首都・
東京は電柱の地下埋設工事を急いでおりますが…多くの電線が邪魔で
景観を台無しにしている事は…この景観を見れば明らかです。電線を百
年前に埋設した明治の先人達の知恵には脱帽させられます。





有名な回廊です。右の姿見の鏡を見て
海軍兵学校の生徒が軍帽や短剣など
その威儀を正しました。黙ってみている
と如何にも短剣を吊った凛々しい士官生
徒が涼しげに敬礼をして通り過ぎる気が
します。


教育参考館の前には戦艦大和主砲砲弾
や特殊潜航艇(甲標的)、蚊竜、日清戦争
で活躍した三景艦(松島、橋立、厳島)の
主砲砲弾
などが置かれています。















不沈艦と謂われた歴戦の雪風の主錨です。



教育参考館です。ギリシャ神殿風の鉄筋コンクリート造の2階建てのこの教育参考館は
先輩の偉業を偲び、「温故知新」によって自己修養と学術研鑽の資とするため、兵学校
卒業生の積立金及び一般企業等の寄付をもって、昭和11年(1936)に建築されました
。教育参考館には、戦前約40,000点の歴史的資料が保存されておりましたが、敗戦
時に一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納した他は、進駐軍による没収
を恐れ焼却処分とされました。現在は、返却された資料等約16,000点を保存しており
そのうち約1,000点が展示されております。

(主な展示資料)

・勝海舟の書
・広瀬武夫中佐の資料
・佐久間勉大尉(第6潜水艇長)の遺書
・海軍将校の書
・特攻隊員の遺書
・横山大観画伯の富士を描いた作品「正気放光」

等があります。年間約7万人の見学者が同館を訪れると謂いますが広島県に訪れた方
は原爆ドームや平和記念館は勿論ですが、こちらも必見だと思います。呉の大和ミュー
ジアムも流行り物で見るには良いかもしれませんが…帝國海軍百年の歴史を感じて見て
は如何でしょうか。


ここより中は撮影禁止です。この赤絨毯の上を上り正面
のドアの奥に軍神であり大英雄である東郷平八郎元帥
の遺髪が安置されています。


海軍兵学校西生徒館(現在は、第1術科学校学生館)です。
兵学校西生徒館として昭和13年に建てられましたが、昭和
31年、横須賀にあった術科学校がここ江田島に移転し、現
在、第1術科学校学生館として使用されております。もともとは
クリーム色の3階立ての建物でしたが老朽化に伴い、平成10
年から全館改築し、真新しい現在の建物となっています。



桟橋に並ぶ海沿いに設置され有名な戦艦陸奥の主砲
(主砲第4砲塔)と同型艦長門の主砲砲弾があります。
この二連装砲は、戦艦”陸奥”の四番主砲々塔として搭載され
ていた40cm砲(実際には41cm)です。昭和10年に海軍兵学
校生徒の教材としてこの地に移設されました。









左上の画像の先は下の画像の桟橋です。今も昔も卒業生は
この桟橋より見送られ練習艦隊に乗り込み世界中の海への
遠洋航海に旅立ちます。また右上の画像の小高い丘の中腹
に見える石垣の置くには、右下の画像の水交館があります。
江田島湾に面して突き出ている浮き桟橋を「表桟橋」と呼び、兵学校卒業生はここから
軍楽隊の演奏の中を盛大な見送りを受けて、沖に待機する練習艦隊に乗り組み、巣立
っていきました。現在では、幹部候補生学校卒業生及び海上自衛隊生徒卒業生が同様
にここから音楽隊の演奏の中を、練習艦隊へあるいは部隊へと旅立っていきます。また

水交館は、明治憲法公布の前年、明治21年に「集会所」として建築されましたた。江田
島地区で現存する最も古い建築物です。以後、「文庫館」、「図書館」、「会議所」、「将校
集会所」と名称、使用目的を変更しながら、敗戦まで使用されました。進駐軍接収時には
牧師等の宿泊所としても使用されましたが、海上自衛隊に返還後は「水交館」と名付け、
国内外の来賓の接遇等に使用しております。
見学に来た人が記念に押すスタンプです。最早、旧帝國海軍の江田島
ではなく海上自衛隊の江田島である事が、此処に訪れる度に思い知ら
されます。

尚、見学は無料ですが、時間帯があり良く調べたほう
が良いでしょう。見れる物と見れない物があります。
陸奥砲塔や表桟橋については、土、日祝祭日及び状
況に応じて見学することができるようです。

(一般的見学コース)

見学者控室(START)
⇒大講堂(儀式等がなければ内部も見学できます。)
⇒幹部候補生学校(通称赤レンガ)
⇒教育参考館


上のばーなーをクリックすると海自の第一術科学校の
サイトが開きます。下は簡単なMAPです。




〜敗戦前、絵葉書に見る
        ありし日の海軍兵学校〜

























四国・久良湾から引き揚げた国内に
        現存する唯一の紫電改の実機

     
〜南レクの紫電改展示館〜

  (愛媛県南宇和郡愛南町 南レク城辺公園)







この小さな展示館に紫電改は丸ごと1機が納められいます。
この紫電改が眠っていた久良湾を望む小高い山の中腹にある展示館
があり小さな展望台から撃墜地点が見られるようになっています。
この湾の沖合い僅かに100mの処で紫電改は没しました。





遠いです。ひたすら遠い…高速(と謂っても片側一車線の対面通行)を降りてから
ひたすら田舎道を延々と走ります。同じ県内の松山市よりも目の前の対岸にある
大分県の方が近いです。紫電改を見るだけの為に愛車をひたすら走らせました。
青の★印がこの紫電改展示館のある場所です。
昭和53年11月半ばに久良湾の通称:長崎鼻沖合い約100mの
海底(深度40m)に眠る紫電改をたまたま潜水中のダイバーが
発見。翌年の昭和54年7月14日、愛媛県の手によって海底から
引き揚げられました。この紫電改は昭和20年7月24日に大村基
地を飛び立った未帰還六機のうちの一機と見られます。34年ぶ
りに海底より引き揚げられた機体は修復を進めて御荘町馬瀬山
の南レク山頂公園内に展示館を作り永久保存を図りました。上
下の写真は引揚当時の生々しい記録です。
紫電改は生産数が少ない事もあり米国に一機現存する
のみで我国では唯一現存する機体となっています。

4枚のプロペラが後方へ曲がっています。これは海面に
着水時に発動機が動いていてペラが回っていた事を意
味します。回るペラが海面を叩きぺラ自体を曲げた事を
教えてくれます。


引揚前の海底での水中画像です。
発端は漁船の錨を海中に紛失し、これを回収しようと
地元漁師が潜水し紫電改を発見しました。



以下、館内です。…えらい遠い所なので四国に住む人間なら
いざ知らず…紫電改だけ見るのに来るには厳しい場所です。
そうした人の為にたくさん画像を写して来ましたので、色々と
普通より多く掲載しますので…行った気になり見て下さい。

見事にレストアされており感心しました。



この紫電改の機体の搭乗員と思われる。昭和20年7月24日に大村基
地を飛び立った未帰還六機の搭乗員六名の遺影です。この中の一名
の方が搭乗員であると思われております。
大村基地に進出していた343空は、昭和20年7月24日に
呉軍港に来襲した敵米艦載機約5百機を迎撃するべく飛
び立った鴛淵大尉以下の紫電改21機のうち未帰還機と
なった6機の中の1機です。戦闘701飛行隊長の鴛淵 孝
大尉(戦死後、少佐)も中に含まれますが…”空の宮本武
蔵”の異名をとり撃墜記録30機のベテラン撃墜王の武藤
金義 海軍少尉(戦死後、中尉)も含まれております。支那
事変の中国空軍との戦いから、故・坂井 三郎 海軍中尉
等と共に日米戦が始まるとラバウル・ソロモン航空撃滅戦
を戦い抜いた英雄でもありました。日米戦の開戦の日は、
第三航空隊にあって比島のクラークフィールド飛行場を攻
撃しています。昭和20年6月末に坂井 三郎 少尉と交換に
343空に引き抜かれ、戦死した撃墜王・杉田 庄一 上飛曹
(戦死後、少尉)の代わりとして新選組(戦闘301飛行隊)
隊長・菅野 直 大尉(戦死後、中佐)の護衛役を務めるべく
着任して間もなくの初陣でした。
三四三空隊誌を中心に他の記述と合わせると…当日の
戦闘では佐多岬上空で敵大編隊と遭遇、総隊長である
鴛淵 孝 大尉の突撃命令で増槽を捨て百機以上の米軍
機の群れに突入していきました。時間は午前10時30分、
まず鴛淵大尉機がF6Fを1機屠りましたが、その上空約千
mよりF6Fの別の大編隊が大挙して襲かかり乱戦となりま
した。そしてこの襲撃で鴛淵機は被弾し白煙を噴き降下を
はじめます。二番機の山田 良一 大尉(戦後は空自で航
空幕僚長を務められました)が見た時は、最期まで守るよ
うに付き添った三番機の初島飛曹長機も遂に帰還するこ
とはありませんでした。その間僅か10分余りの死闘でした
が21機の紫電改は、敵米軍機を16機撃墜しましたが…以
下の尊い六名の若き20代の若鷲達を失いました。
 鴛淵 孝 海軍少佐(25歳)   武藤 金義 海軍中尉(29歳)  初島 二郎 海軍飛曹長(22歳)
 米田 伸也 海軍飛曹長(21歳)  溝口 憲心 海軍上飛曹(21歳)   今井 進 海軍上飛曹(20歳)


この紫電改が上の六名の若鷲の何れであるかは今も謎のまま
です。遺体が無い事と長年海底にあった事で機体番号等の塗
装が確認できない事が特定できない理由です。しかし何れであ
っても祖国の空を圧倒的な戦力を誇る敵に無謀といえる戦いを
挑む勇気のある闘志であり愛国の英雄です。我々、後世に生き
る日本人は・・・この若き英霊達に足を向けて眠ることは出来ま
せん。常に感謝の気持ちと崇敬の念を持って今ある平和を感謝
し生きる事が大切と考えます。後世に同胞たる日本人に広く伝
えて行きましょう!!

















































天山のぺラとぺラスピナーです。
このぺラも近隣の沖合いで発見され引き揚げられたものです。






以下、内部の展示品の一部です。
















343空(剣部隊)が使用した松山空港の現在画像(上の左右)です。
松山空港は、広島湾要塞の防空を担う為、海軍が設営した吉田浜飛
行場が前身です。戦時中は勇名を馳せた零戦、紫電改や高速偵察機
彩雲が展開し、敗戦の年の豊後水道、伊予灘上空で米軍艦載機との
死闘は今も語り草になっています。第343海軍航空隊の活躍はよく知ら
れており、広島市への原爆投下後は、全搭乗員がB-29に特攻しても
次の原爆投下を阻止する覚悟を決めていたと謂われています。戦後は
旧飛行場を拡張して民間空港として利用され活躍しています。松山空港
周辺には、今も戦闘機用の掩体壕が見られますが、その数は年々少な
くなっているようです。(下の画像は松山空港の掩体壕です。)



〜第三四三海軍航空隊(剣部隊)〜



第343海軍航空隊は、敗戦の約半年前である昭和20年2月1日に開隊。
紫電・紫電改の戦闘機と偵察機の彩雲から編成された強力な航空部隊
でありました。司令は 源田 実 海軍大佐。海軍軍令部で航空主任参謀
を務めていた源田大佐が自身が指揮し敵航空部隊より制空権の奪回を
図る目的で設立した部隊です。主体となる部隊は比島で戦力を磨り減ら
し消耗した戦闘301・407・701の各飛行隊で、これを昭和19年年末に四
国・松山に集結させ、翌年、偵察第四航空隊の編入を待って2月1日に
解隊した源田大佐の肝煎りの精鋭部隊を目指しました。この為、幹部搭
乗員には歴戦の兵のエースパイロットが引き抜き去れラバウルやソロモ
ンで緒戦を活躍した撃墜王達が一同に顔を合わせる豪華な部隊である
と同時に機内無線電話を実用レベルまで完全に高め、高度な編隊空戦
を実施する近代的な航空部隊運用の実現を目指し成功しました。343空
の名称は、”呉鎮守府所属基地航空隊で、常設された戦闘機部隊”を意
味しています。通称は”剣部隊”。士気を高める為、各飛行隊に新選組(
戦闘301)、維新隊(戦闘701)、天誅組(戦闘407)、奇兵隊(偵4)、
極天隊(戦闘401)の通称を付し、隊舎の前に幟を立てるなど闘志を燃や
した事も影響し敗戦期には見るも無残な哀しい姿を晒した日本空軍にあ
って圧倒的な物量を誇る米空軍に一矢報いた数少ない航空部隊と謂え
ます。

司令  源田 実 海軍大佐(海兵52期)


副長 中島 正 海軍中佐
                (海兵58期)

飛行長 志賀 淑雄 海軍少佐
            (海兵62期)


志賀飛行長は、一時、343空に対し連合艦隊司令部から特攻攻撃の要請が
あり、志賀飛行長が拒否し続けた為、最後まで行われる事はなかった。戦後
、志賀少佐が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田司
令が隊舎を訪れ、志賀少佐に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。
志賀少佐が『喜んで行きましょう。ただし条件があります。帝国海軍の伝統は
指揮官先頭です。私は勿論行きますが、先頭には是非司令が立っていただ
きたい』と言うと司令は黙っておられましたが、その後松山空には特攻作戦
参加命令は来なかったそうです。



総隊長

戦闘701飛行隊(維新隊)

 隊長 鴛淵 孝 海軍大尉(海兵68期)

              (飛行学生36期)
  (戦死後、二階級特進し海軍中佐)

戦闘407飛行隊(天誅隊)
 
 隊長 林 喜重 海軍大尉(海兵69期)

  (戦死後、一階級特進し海軍少佐)

戦闘301飛行隊(新選組)

 隊長 菅野 直 海軍大尉(海兵70期)

              (飛行学生38期)
  (戦死後、二階級特進し海軍中佐)




 彩雲偵察隊(旧 偵察第四航空隊)
  (奇兵隊)            :定数 24機

   隊長 橋本 俊男 海軍大尉(海兵66期)

 通信隊

  通信長 松永 市郎 海軍大尉(海兵68期)



新選組(戦闘301飛行隊)
天誅組(戦闘407飛行隊)
維新隊(戦闘701飛行隊)
極天隊(戦闘401飛行隊):錬成部隊
343空は、一般にベテランばかりを結集した精鋭航空隊と強調されていますが
確かに撃墜王の坂井三郎少尉を教官配置としたり、武藤金義少尉を横須賀航
空隊から強引に引き抜いたり、他の部隊が戦闘行動中に訓練に専念したりす
るなどの事から、そうした印象を強くもたれ戦後にその戦果が誇大に強調され
た事も一役買ったのではと思われます。実際の搭乗員の錬度と言えば他の
203空や302空等の戦闘機隊と大差は無かったと謂われています。紫電の運
用指導のため松山基地を訪れた坂井三郎少尉の「実働機を遙かにしのぐ廃棄
された紫電が山と積まれていた」という証言や、各パイロットの飛行時間及び練
習飛行隊卒業日時から類推されるように、343空のパイロットは一握りのベテラ
ンを除くと未熟な新人がかなり含まれており、一般に伝えられる「手練ればかり
を集めた」との風評は事実と隔たりもあるのだが、司令である源田実大佐がベテ
ラン搭乗員を指名転属させたり、他の航空隊が新人搭乗員を十分な練成期間も
無しに実戦投入している中、それなりの期間訓練を行った後に実戦参加させた
事や343空が特に重視した高速偵察機”彩雲”による適格な事前情報の確立の
元に出撃した戦闘機隊は確実に機能する機内電話通信で高度な編隊攻撃を可
能とした事が他の隊よりも高い効果と戦果も出し謂われたものと想像されます。。



〜343空(剣部隊)を彩った歴戦の古強者…エース達!!〜
教官として昭和19年12月から翌20年7月の横須賀海軍航空隊へ移動となるまで
紫電改の指導を行った”大空のサムライ”で有名な坂井 三郎 海軍中尉(当時は
少尉)です(公認の撃墜機数64機)。彼とトレードで武藤 金義 海軍少尉が横須
賀空より着任後、すぐの初陣で戦死しました。坂井中尉は自分の身代わりで戦死
させたのではと…終生、気に病んでいたと伝えられました。
謂わずと知れた”闘魂の塊”と称された撃墜王・杉田 庄一 海軍上飛曹
(戦死後、二階級特進し海軍少尉)です。海軍甲事件の有名な六機の
護衛機の一人でもありました。連日の出撃でも生き残り大火傷の負傷
で一時帰国するが、復帰後はマリアナ・グアムと転戦し比島方面にある
時に源田司令の命で昭和20年1月に剣部隊に合流、新選組隊長の菅
野大尉機の列機を務めました。同年4月15日の敵襲で司令の命で迎撃
の為、愛機に乗り込むも同じく飛び立った僚機1機と共に上空背後から
離陸時を襲われ、離陸中止の旗が振られるも間に合わず紫電改が数
十m浮き上がった所で銃撃を受けて炎上し墜落、壮烈な戦死を遂げまし
た。個人撃墜70機、共同撃墜40機が公認されています。海軍歴代第三
位(日本歴代)の撃墜王です。

磯崎 千里 海軍大尉

四等水兵から大尉に昇進した老雄です。
飛行時間は戦闘機だけでも13年間で
4千時間以上を記録。昭和8年に操練19
期を卒業し、空母”龍驤”を皮切りに霞空
を経て支那事変では空母”加賀”から陸
上に転じて12空で桂林攻撃などに参加
するが、戦運に恵まれず大きな空戦に参
加する機会を得なかった。飛曹長で台南
空に転じて開戦で南方へ進出するも、半
年で大村空教官に、18年4月に少尉。
251空にてラバウル進出。6月16日に初
撃墜を記録(時に30歳)!その後、ブイン
やラバウルを中心に激戦を生き残り、19
年3月に厚木302空、そして210空に転じ
昭和20年5月より戦闘301飛行隊に分隊
長として転任。防空戦闘を343空で戦い
敗戦を迎えました。撃墜記録は12機の
遅咲きのエースで撃墜王です。

松葉 秋夫 海軍中尉

昭和10年3月に操練26期を卒業して
敗戦まで飛行生活10年以上…心技
共に円熟した老練な戦闘機搭乗員で
す。空母”加賀”乗組の時に支那事変
が勃発し、昭和11年8月6日に上海上
空の初陣でダグラスO-38偵察爆撃
機を1機を共同撃墜。同年末、霞空へ
その後、空母”龍驤”、岩国空、元山
空、大分空等を経て昭和18年11月に
301空の戦闘601飛行隊に転じます。
19年6月末に硫黄島に進出。7月3,4
日の迎撃戦でF6Fを6機撃墜、同年7
月に紫電編成の戦闘701飛行隊に転
じて臺灣沖航空決戦、レイテ沖決戦に
参加。343空に転じて敗戦まで2度の
負傷を負いながら敢闘する。撃墜数が
18機のエースで撃墜王です。

本田 稔 海軍少尉

昭和17年1月に甲飛5期卒業。第22
航空戦隊司令部附戦闘機隊に配属
されたが南方作戦は既に終了し空戦
の機会に恵まれなかった。同年4月
鹿屋空(253空)に転じて南西方面を
転戦。9月にラバウル〜後カビエンに
進出…18年5月までニューギニア・ソ
ロモン航空戦に参加。19年4月に戦
闘407飛行隊に転じて比島へ進出。
帰国後、343空戦闘407飛行隊付に
移り本土防空戦闘に従事する。撃墜
記録は17機。






〜引揚られた謎の紫電改の六名の搭乗員達です。〜
今井 進 海軍上飛曹(享年20歳、群馬県出身、丙飛15期))
初島 二郎 飛曹長(享年22歳、和歌山県出身、甲飛9期)
左上は、米田 伸也 飛曹長(熊本県出身、甲飛10期)。右上は、
溝口 憲心 上飛曹(広島県出身、丙飛15期)。共に享年21歳。
公認の総撃墜数28機の日本海軍を代表する撃墜王の一人
武藤 金義 海軍中尉です。”空の宮本武蔵”の異名を持つ
エースでした。享年29歳、愛知県出身、操練32期。
343空(剣部隊)の三個戦闘飛行隊の最専任士官搭乗員だった
鴛淵 孝 海軍中佐です。享年25歳、長崎県出身。この維新隊長
で総隊長の早すぎる戦死から続くように新撰組の隊長・菅野大
尉も櫻のように散り…若い兵学校出の青年士官三名の隊長全
員が戦死されすぐに隊も敗戦でその短い歴史にピリオドを打ち
ました。
















米国に残る紫電改の実機





戦闘407飛行隊(天誅隊)隊長 林 喜重 海軍大尉は、昭和20年
4月18日にB-29邀撃の初陣を飾る。普段は温厚な隊長と知られ
た林大尉は静かに闘志を燃やし、菅野大尉と共に激論を戦わせる
事もあったと謂われています。4月20日、B-29が約20機来襲し約
30機の紫電改で迎撃に向かいました。この時の林隊長機の攻撃
は執拗さを極めた伝えられます。たまたま新選組の菅野隊長機の
三番機の清水 俊信 一飛曹がタイとはなれて別行動中に熊本県
の上空で19機のB-29を相手に戦う林大尉機を発見し、すぐに助
勢に入り協同で攻撃して遂に一機のB-29を仕留めました。しかし
この時に既に林大尉の機体はエンジンを打ち抜かれており海への
不時着を目指し阿久根の海岸アプローチするも操縦不能となり、
海面に激突した際の衝撃で計器盤に頭部を強打し戦死されました
。途中からともに戦った清水機もまた被弾し林大尉の後を追うよう
に墜落し戦死しました。…こうして三人の青年飛行隊長のうち最も
早く神奈川県鎌倉市出身の林 喜重 大尉が戦死、残りの二方も
短い間に後を追うように戦死されました。


公認撃墜機数25機の若き撃墜王・菅野 直 大尉(戦死後、海軍中佐)
です。漫画”紫電改のタカ”の中でも描かれています。新選組(戦闘
301飛行隊)隊長の前は、零戦に乗って戦っていました。彼が第201
海軍航空隊の分隊長時代。この頃すでに菅野は豪快を地で行ってお
りました。ヤップ島での防空戦闘では零戦を駆り、米陸軍爆撃機B-24
の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばして撃墜したり、1度
に2機のB-24を撃墜するといった離れ業を演じた事もありました。また
乗機の胴体に指揮官認識マークとして黄色の帯を描いていたことから
、その戦闘ぶりを見た米軍パイロット達の間では「イエローファイター」
と異名を取り怖れられていたと謂われます。そんな菅野大尉の最期は
昭和20年8月1日、敗戦の2週間前でした。この日、隊長・菅野以下の
紫電改20数機は九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊発見の報を
受け、これを邀撃すべく大村基地を出撃。屋久島近くに達すると島の
西方にB-24の一団を発見。敵上方より急降下に入ったとき、何機か
の紫電改の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電
。これを聞いた堀飛曹長機が菅野機を探したがどこにも見当たらず、
自機の翼を傾けて下方を覗いたところ、はるか下方を水平に飛ぶ菅
野機を発見、即座に近づいたところ左翼日の丸の右脇に大きな破孔
を発見した。菅野の二番機である堀は責務を果たすべく、すぐさま戦
闘を中止し菅野機の護衛に回ったが、菅野は堀に対し戦闘空域に戻
るよう指示。堀はその指示を無視してなおも護衛を続けたが、ついに
菅野は拳骨を振りまわして怒り出し、堀に戦闘空域に戻るように再度
指示した。堀は泣く泣くその指示に従ったが、その瞬間にそれまで怒
りで鬼の形相であった菅野の表情が和らいだのを見たという。そして
堀機が菅野機を離れ戦闘に戻るとやがて再び菅野からの無線が入
電した。「空戦ヤメ、全機アツマレ」菅野がいると思われる空域へ向か
う途中再び入電、「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ
、菅野一番」そして菅野機は空のどこにも見当たらなかった。燃料の
続く限り捜索したがついに見つけることはできず、海軍基地はもとより
、陸軍飛行場にも菅野が着陸していないか問い合わせたもののどの
基地にも着陸していないとの報告であった。結局この日の戦闘で菅
野機を含む3機が未帰還となりました。
                    享年24歳、宮城県角田市出身
この343-A15の胴に二本の帯がある15号機が菅野大尉の愛機
でした。最後の日の戦闘では愛機でなく343-A01に搭乗しました。
マルシン製の紫電改の模型。塗装は菅野大尉機仕様です。


宮崎 勇 海軍少尉(当時、飛曹長)は、343空(剣部隊)設立・開隊
以来、敗戦まで生き残った歴戦のエースです(撃墜機数13機)。こ
の方の著書『還って来た紫電改』に記載されているが、対戦した米
軍パイロットの証が記載されているが、日本海軍にしては珍しく二
機一組の編隊空戦を行う手練の搭乗員達と認識されていたようで
す。B-29の搭乗員であった爆撃手のウイルバー・モリス氏の証言
によると「彼らの攻撃は猛烈だった。12機編隊のB-29の場合、
1機あたり6門、あわせて72門の機銃が火を噴く。たちまち「弾の壁
」ができるんだが彼らはそこを突き抜けて攻撃してくる。あまりに接
近してくるので、搭乗員の顔が見えた。素直に言うが、あんな勇敢
なパイロットはほかにはいない。」と・・・。尚、右上の画像は宮崎少
尉が所持していた戦後に進駐した米軍により松山の343空基地で
焼却炎上処分を受ける紫電改の画像です。米軍は比較的、調子の
良い3機の紫電改を選び本国へ送り残りの全てを破壊処分したとい
います。

宮崎少尉の『還って来た紫電改』の最後にこう記載されています。

”…プロペラは、沈没したときのまま四枚の羽根が折れまがり、弾痕
らしき跡も見える。だが、機体は堂々と胸をはって、今にもエンジン
がかかって飛びたちそうな気さえする。
 戦後三十四年目の夏の海に姿を現したの紫電改が語りかけるも
のは何か?
―その無言の言葉に、みなさん、とくに若い世代の人たちは耳を傾
けていただきたいと私は思う。”

松山空でかき集められた残存日本軍機が米兵に燃やされる画像です。
日本航空軍の壊滅と死の瞬間です。
昭和20年8月15日の敗戦で343空は誕生以来約八ヶ月の短い部隊
の歴史を閉じました。紫電改とともに西日本の空を所狭しと駆け巡り
壮烈な防空戦を繰り広げ、隊の発足時に三個戦闘隊(新選組、天誅
組、維新隊)で合わせて120名を超える戦闘機パイロットが集結しま
したが…僅か八ヶ月の激戦で78名の若き搭乗員が大空に散りました。
また三四三空隊誌によると偵察隊、整備科科、また戦傷を負った者
でその後に亡くなった者を合わせると97名の戦死者を出しています。

”わが飛行隊は、敵の心胆を寒からしめる事しばしばにして敵撃墜約
百七十機におよび武勲顕著なるも、各戦闘飛行隊長、善戦連闘、つ
いに戦死し、計七十八名の搭乗員を失えり…”(三四三空隊誌より)


日本本土の主要都市と重要拠点、港湾、工場地帯の殆どが
度重なる大空襲で焦土と化す中、敗戦の日まで機体の補充
整備に必要な資材、航空燃料…無い無い尽くしの中で稼働
率の低い紫電改を見事に稼働させ果敢に圧倒的な戦力さを
物量でこれでもかと見せ付ける米軍に対して怯む事なき見
事というしか謂いようの無い敢闘精神で挑み続けた343空
の搭乗員達…そして彼等をバックアップしサポートした整備
科要員の並々ならぬ努力と奮戦があったればこそ空に舞い
上がれ暴れられたパイロット達でした。また彼等の目となり
高速を利して敵を見つけて情報をもたらした偵察隊の彩雲の
搭乗員達。そして数少ない紫電改の機体と資材の確保に
燃料の確保を他隊よりも重点的に取り付けたのは司令と管
理する幕僚の手腕であったものと思います。いずれにしろい
ずれかが欠けた時に末期のこの紫電改部隊は、大海に落ち
た木の葉のように圧倒的な米軍の前に戦力を消耗し消え去
ったに違いありません。敗戦前の8ヶ月から敗戦の日まで稼
働し戦い、尚も戦力を維持した日本人達の力に國を愛する精
神、民族同胞を思いやり守り抜かんとする精神の素晴らしさ
を深く感じ入り感銘を受けました。
愛媛県愛南町の豊後水道を望む小さく静かな漁村の高台
に沖合いから引き揚げられ飾られた一機の紫電改。一見、
何でもない日本で現存する唯一の紫電改の実機…しかし
この機には、これだけの長い長い物語が秘められています
。そしてそのほんの一端を私は、かいつまみ紹介しただけ
に過ぎません。…更に引揚時に6機の撃墜された搭乗員達
の遺族が紫電改に泣きながら捧げた花束…悲鳴にも似た
嗚咽…終わらない戦争が遺族にあります。また悲しい戦後
の物語…が様々にあります。そしてまた生き残った将兵達
の戦後も…また長い秘話が数多あります。


我々、戦後の平和を享受する戦後生まれの日本人は平和
を噛み締め喜びを知るだけでなく…この平和を作り出す為
に多くの血を流した先人同胞の戦いを知り学び、またそれを
後世の日本人へ伝える責務があると思います。昨今、公共
放送でありながら反日報道を繰り返すNHK…偏向報道や
意図的な反日違法編集を行い…様々な手段を用いて日本
の戦争関与は間違いであると言いくるめたいようですが、そ
して大東亜共栄圏という美名と美しき精神が口先ばかりで
政府も軍部も実はこれを主体としていなかった口実であっ
たと一生懸命に喧伝ています。私には非常に愚かしい行為
にしか見えません。何故なら、時の政府や軍部が国益を最
重視するのは我国だけでなく世界中のどの國も同じ事です。
夢やプロパガンダだけで国家運営は出来ないのは、一般家
庭の家計と同じです。しかし政府が謂い続けなくとも思うより
プロパガンダでも良いのです。この戦争に巻き込まれ戦った
多くの日本人の将兵、銃後の市民が大東亜共栄圏を信じて
欧米列強の強欲で意地悪な白人達から亜細亜の同胞を開
放し助ける事がしいては我国の生きる道に繋がると信じて対
米戦に突入したのは…明らかな事実で多くの市民・将兵の
当時の日記や書簡などを垣間見ても良く判る事です。我々は
正義の戦争を戦った!…対米戦は我慢しうる最後の最後ま
で和平交渉に期待ををつなぎ我国は出来うる最大限の譲歩
を行ったが対日参戦を画策した米国の日本虐めに遂に堪忍
袋の緒が切れて戦争に突入した歴史を変え事は出来ません
。正しい歴史認識を一貫として我々は日本人に教え伝えなけ
ればなりません!…多くの若者や日本人の皆さんがこの紫電
改に限らず…多くの派生するロング・ストーリーを秘める資料
館や旧軍の遺構を目にし手に触れ…その歴史に想い馳せて
正しい歴史を再考してもらえれば幸いに想います。

                     皇紀2669年 秋

                           憂国烈士