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【ミッドウエー海戦】 大敗の引鉄(ひきがね)を引いた男 源田実 【特攻悲しき記録】 誰が航空特攻を主導したか 【犬の遠吠え思想】 戦艦大和の主砲 【天1号作戦】 出撃駆逐艦 【資源還送】 に見る完敗の海軍 【戦艦大和】 袋のネズミ作戦 【予科練】 その失敗の実態 |
源田 実のバカは三四三空編成時、
『航空がだらしないから敗けているのだ』と的はずれどころか脳みそが腐っているような驚(狂)言を発している。すぐ発火する一式陸攻、ガソリンドラム缶にプロペラを取り付けたような戦闘機。 * 1945年3月19日、呉空襲時、松山に陣取る源田 実指揮三四三空(343航空隊)は紫電改で米軍機を迎え撃ち、多大な戦果を挙げたと報告したが大嘘であった。 日米双方の記録を渉猟し真実に迫った力作「源田の剣( ヘンリー境田/共著 ネコ・パブリック 2003/8発行)」に詳しい。同書で松山上空の迎撃戦では、 中央へ報告した戦果は撃墜57機(うち地上砲火により5機)とウソ八百を報告したが、 米側損失 34機(燃料欠乏亡失3機を含む)。 内訳 三四三空との戦闘14機損失。 対空砲火で20機損失。日本側損失 陸・海 50機。 |
デタラメ撃墜機数57機と申告した。 実際戦後米軍記録と照合したら8機程度。 源田の大罪はこちら |
筆者当時四歳。母と隣村に魚を買いに行った帰り、艦載機の機銃掃射を目撃。この空母艦載機だったのだろう。 機銃掃射は、1945年3月17〜18日である。 |
*3航艦司令長官 寺岡謹平(1944/11月11日〜),参謀長 山澄忠三郎(1945/1月1日〜),先任参謀 佐々木 彰(1944/7月〜)。
1944年10月20日、大西滝治郎が第一航空艦隊司令長官着任する前の司令長官だった。 第343空司令 源田 実(1945/1〜) 正式名称:松山航空基地(愛媛県温泉郡) |
1945年3月19日 呉方面攻撃米軍の搭乗員・航空機損失 内訳 | |||||||
艦上戦闘機 | |||||||
空母 | 飛行隊 | 機種 | 被墜落/自爆 | 不時着水 | 着艦後廃棄 | 損失 計 | 搭乗員消息 |
ホーネット | VBF-17 | F6F | 6 | 1 | 1 | 8 | 行方不明/6/救助/1帰還1 |
ベニントン | VMF-123 | F4U | 2 | 1 | 3 | 6 | 行方不明/2/救助/1帰還3 |
イントレピッド | VBF-10 | F4U | 1(対砲) | 1 | 救助/1 | ||
エセックス | VF-83 | F6F | 1(燃欠) | 1 | 救助/1(戦闘以外) | ||
〃 | VBF-83 | F6U | 2(燃欠) | 1(対砲) | 3 | 救助/2(戦闘以外)/帰還/1 | |
ベニントン | VF-82 | F6F | 1 | 1 | 戦死/1(高知墜落後) | ||
ヨークタウン | VF-9 | F6F | 1 | 1 | 戦死/1(西条墜落後) | ||
喪失 計 | 10 | 6 | 5 | 21 | |||
艦爆・艦攻撃機 | |||||||
空母 | 飛行隊 | 機種 | 被墜落/自爆 | 不時着水 | 着艦後廃棄 | 損失 計 | 搭乗員消息 |
ホーネット | VB-17 | SB2C | 2 | 2 | 行方不明/4 | ||
〃 | VT-17 | TBM | 1 | 1 | 行方不明/3 | ||
ベニントン | VB-82 | SB2C | 1 | 1 | 行方不明/2 | ||
ワスプ | VB-86 | SB2C | 1 | 1 | 行方不明/2 | ||
エセックス | VB-83 | SB2C | 3 | 3 | 戦死/6 | ||
〃 | VB-83 | TBM | 1 | 1 | 救助/3 | ||
バンカーヒル | VB-84 | SB2C | 1 | 1 | 2 | 溺死/1行方不明/2/救助/1 | |
イントレピッド | VB-10 | SB2C | 1 | 1 | 2 | 行方不明/2/救助/2 | |
喪失 計 | 9 | 4 | 13 | ||||
喪失合計 | 19 | 10 | 5 | 34 |
1945年3月19日 呉方面攻撃米軍墜落原因別 航空機損失 内訳 | ||||||
戦闘機喪失 | 343空機との戦闘 | 被墜落/ 8 | 不時着水/ 2 | 着艦後廃棄/4 | 計/14 | |
〃 | 対空砲火ほか | 被墜落/ 2 | 不時着水/ 4 | 着艦後廃棄/1 | 計/ 7 | |
艦攻・艦爆機喪失 | 対空砲火ほか | 被墜落/ 9 | 不時着水/ 4 | (非戦闘原因/3) | 計/13 | |
喪失合計 | 被墜落/19 | 不時着水/10 | 着艦後廃棄/5 | 計/34 |
* 343空,空戦参加機が撃墜を目撃できたであろう機数は8機。対空砲火撃墜機数5機を除くと
残りの44機もの撃墜は誤認にしても数が多すぎる。 すなわち、司令源田が大ホラを吹きまくったのである。 米軍が記録している総損失機数は34機で、源田の57機は何を根拠に中央に報告した数字なのだろうか。? 源田は343空の戦果として撃墜57機(うち地上砲火により5機)と報告した。中央では「源田君」はやるナァー。と感服。 その結果感状を授与されている。 ところが、米軍の記録と突き合わせたら、撃墜はたったの14機。 戦場で錯誤は付きものだが これは過大報告である。 目撃者がいなかったら、大ホラ吹きまくった者が勝った海軍だったような気がする。 上表から、帰還途中の不時着水が2機。着艦後廃棄が4機なのだ。 計算 誤認機数44=343空申告57機−対空砲火撃墜5機−目撃できたであろう撃墜8機 山口県下関市小月から飛び立った第12飛行師団陸軍機,四式戦闘機(疾風)は1機を除き、全て撃墜された。空戦は主として広島県地御前沖である。 ちなみに、「源田の剣 ヘンリー境田/高木晃治共著 ネコ・パブリック」は、空戦を誰と誰が戦ったのか。どの空域で 空中戦が繰りひろげられたのか詳細を究めている。源田ファンはぜひご一読を。 あなたが描いている源田の虚像をはぎ取ってくれること請けあい。 航空特攻を実質的に取り仕切った卑劣漢は、口をぬぐい航空自衛隊の三代目幕僚長となった。 |
-- 余話1 -- 当然この艦載機群の主目標は呉軍港だったが、17日〜18日、九州東岸、瀬戸内南岸の偵察を 行っている。この駄賃?(失礼だが)で、大分県姫島沖で山本汽船大寿丸(1,279トン)が空爆を受け 撃沈された。 翌、19日、動く汽船は全て空爆対象にしたのか三井船舶三河山丸(866トン)が愛媛県菊間沖で沈められた。 |
-- 余話2 -- 源田は日本国民を愚弄している。日本に対して無差別爆撃(国際法違反・大量虐殺者)を指揮したカーチス・E・ルメイに対して 日本国家最高の勲章授与(勲一等旭日大綬章)を働きかけた。時の総理は佐藤栄作。 彼も「ノーベル平和賞」を授与されたのだから お笑いではすまされない。 東京・広島・長崎であの大量無差別殺戮を行った張本人に国家最高の勲章を渡す国家も国家だが、 それに踊る首相も首相だ。 |
-- 余話3 -- この米機動部隊も特攻の格好の目標となった。3月18日〜19日の二日間で、空母エンタープライズ,ヨークタウン,イントレピット,フランクリン,ワスプが損傷した。 |
-- 余話4 -- 空母ホーネットのVBF-17隊の次の三名,フォレス・E・マコーミック中尉,チャールズ・F・ワイズ大尉,エドウイン・W・マシューズ大尉は松山上空で撃墜され捕虜となった。彼等が無事帰国出来たという記録を筆者見ていない。 |
-- 余話4 -- 空母ベニントン搭載、VB-82,SB2Cヘルダイバー(カーテイス)11機と同艦VMF-123(海兵隊戦闘機隊)F4Uコルセア(ヴォート)16機が岩国沖で戦艦大和を発見。これを攻撃した。 記述の表の損害を被った。VB-82隊クリフォード・A・ブラウン三等通信士とVMF-123隊ドナルド・D・ウォードン大尉は捕虜となり呉刑務所に収容された。G・K・ウースター中尉は呉市郷原で撃墜され重傷。翌日死亡。 VMF-123隊は日本陸軍機の執拗な攻撃を受け大きな損害を被っている。 大和攻撃に参加した両隊が源田率いる343空紫電改隊の攻撃を受けたという記録はない。 * 海兵VMF-123飛行隊は広島飛行場(現広島西飛行場)攻撃任務だった。その往路戦艦大和を発見し攻撃を加えた。 |
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敗戦に次ぐ敗戦で米軍の侵攻を食い止めようと考えられたのが零戦より性能の向上した紫電(改)が戦線にリリースされてからである。 三四三空は昭和19年(1944)12月25日編成。同日付第三航空艦隊に編入された。この航空隊には二五二空から戦闘301飛行隊が、 203空から戦闘407飛行隊が341空から戦闘701飛行隊が編入された。更に翌年2月1日、341空から戦闘401及び402飛行隊、更に141空から偵察4飛行隊が編入された。 |
発動機:名称 誉21型 馬力 1,990HP 武装:20mm×2 最大速度:321Kt(594Km/Hr)/5,600m 航続距離:926浬(1,715Km) 掲載した性能は「戦史叢書沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍作戦」による。日本海軍史における航空機性能はこちらに |
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