少し前に、「それでも東京にこだわりますか」という記事がありました。全く同感でしたので、私なりの視点から書きすすめてみようと思います。その先は、「東京をやめましょう」です。
そう感じた根拠は、ほとんどの東京人は「根無し」であること。東京というバーチャルな都会を漂泊しているにすぎません。それは、単に東京が故郷ではないということ以上の意味を持っているのです。
「デラシネの思想」
だいたいの東京人は、故郷を断ち切って上京してきたわけではありません。地方には仕事がないという思い込みの理由。便利でオシャレな暮らしがしたいという軽い理由。東京という大きな渦に巻き込まれたいという漠然とした理由。様々ですが、いずれも「根無し」を目的とした上京ではありません。年配の方ならちょっと懐かしい響きでしょうが、デラシネの思想。40数年前なら、若者が故郷を捨てる歴とした理由でした。
若き日の五木寛之はデラシネの作家と呼ばれ、当時の若者に絶大の人気。朝鮮から引き揚げて、福岡、東京、金沢と移り住んだことも影響しているのでしょうが、「さらばモスクワ愚連隊」「青年は荒野をめざす」「青春の門」など漂泊の思想が、心を捉えたことが大きな理由でしょう。私もそのひとりでしたが。
しかし、このデラシネの思想には、根を断ち切る、または根を求めるという欲求が潜んでいる。だからこそ、漂泊することに意味があるのです。
ところが、いまのバーチャル東京人にはこれが決定的に欠落している。気づいている人さえ少ないかも知れません。根は故郷にあるはずなのに、根をはっていない状態。東京では、水辺の草のように流れによってフラフラと漂うのみです。
だから、東京という根には無関心。選挙は他人事だし、住んでいるエリアのお祭りも観光客でしかない。休日は、評判のショッピングエリアか人気のレストラン。恐ろしいほどの消費漂泊民と化しているのです。
当然、地元の歴史も文化にも興味がない。東京に居ればこその、能狂言、歌舞伎といった日本文化にも目を向けない。これでは、どこに根をはるのですか?と問いたくなってしまいます。
いまの日本社会の問題は、この「根無し」を何とも感じないことにあると言っても過言ではないでしょう。
前述の「それでも東京にこだわりますか」の記事における3つのキーワードは、稼業、家族、価値観でした。まさに「根」を象徴しています。
そんなことを思っているときに、『産土』と『産土・壊』という映画に出会いました。徳島県神山町に住む映像作家長岡参さんと外国人の作家たちの作品です。現代ではわずかにしか残っていない、少し前まで当たり前だった日本各地の暮らし方を探り、映像化したもの。列島の7割を占める山や森などに入り込み、現代日本人に対しての問いかけ、「現在(いま)を知るということ」がテーマの映画です。