日本人の左脳は、あらゆる言語音だけでなく、多くの自然音も捉え、西洋人の左脳は純母音さえキャッチできない、という話題になった「日本人の脳」論の書物である。
あやしげな、科学まがいの議論かもしれないと思っていたのだけれど、きちんとした科学的方法論を踏まえており、脳機能論として信頼できる話なのがわかった。
詳しく言うと、日本人の左脳は、言語も動物の鳴き声も邦楽楽器の音も捉えられるのだけれど、それ以外の言語圏の人の脳は、左脳で捉えているのは子音で、純母音も動物の鳴き声も、あらゆる物音も、楽器の音も、右脳で捉えているという議論である。日本人の場合、外国語の学習でも、薬物の使用でも、簡単にあらゆる音情報が左脳処理になってしまう。日本人の脳は音に関する限り左脳負担がきわめて大きい。そういうことである。
その結果、日本人は、心や生命を左脳で捉え、無機的なものを右脳で捉えているらしいのだけれど、日本人以外は、左脳がロゴス、右脳がパトスというふうに、割り切れて、動植物感受も右脳の管轄らしい。
これはすごいことで、日本語を使うということは、ある意味では、動物の声や川のせせらぎさえ言葉として捉えているということである。
結局、日本人は、多くの音情報を左脳で、視覚イメージを基本的に右脳で捉えているのに対して、西洋人は、多くの音情報を右脳で、視覚イメージの多くを左脳で捉えていることになる。西洋から高度で体系的な幾何学が生まれたのはこんな事情かもしれない。
左脳には言語中枢が局在しているのがわかっているけれど、右脳は、いまのところ、どんな中枢が局在しているのかわからないといえばわからない。言語以外の何かを処理しているのだけれど、特定の機能について指定した言い方をしようとすると、今のところ出来ない。まあ、左脳が利き腕、右脳は補助の腕というところだろうと思う。
右脳の能力を開発すると超人的な才能が開発できるみたいな話になると無根拠で怪しくなってくるけれど、日本人が音情報を基本的に左脳で、視覚情報を右脳で処理し、西洋人が音情報を基本的に右脳で、視覚情報を基本的に左脳で処理しているとすれば、なぜ、西洋でシンボルの記号化が著しく進み、音楽の楽理の研究が進展したのかも理解できるような気がする。一方、日本が美術先進国で、江戸時代の版画が印象派の先生の役割を果たしたのも、説明が出来るような気がする。
こういう本を読むと、幼児期の英語教育なんていうのは、国体の破壊行為そのものなのがわかる。世界でも特異な日本語と日本文化の維持のためにわれわれは努力すべきなのだろう。
付記:結局、日本人は、多くの音を言葉として処理しているということになる。常に言葉が聞こえている。意味が付加されている。西洋人は、多くの音が雑音あるいは楽音になるわけである。そこにはコミュニケーションはない。日本人はイメージを右脳で捉える。距離を置き、楽しみを求めることが出来るわけである。西洋人は、多くを左脳で処理するためイメージに意味が付加される。見えるものについての利害を考えるわけである。
言語というのは、因果関係の把握か目的意識の明確化のために用いられる。また、コミュニケーションの道具である。音声において、言語の側面が強いか、雑音あるいは楽音(たんなる快不快の根源)と捉えられるかは大きな違いである。また、イメージが言語的であるかないかということを考えると、西洋では、見ればわかるのが大切になる、いっぽう、日本では、表現はぼかして婉曲になる。「奥ゆかしさ」に相当する西洋語を探すのは難しいと思う。日本人の視覚表現は露骨さをきらい、奥ゆかしさを好む。
あやしげな、科学まがいの議論かもしれないと思っていたのだけれど、きちんとした科学的方法論を踏まえており、脳機能論として信頼できる話なのがわかった。
詳しく言うと、日本人の左脳は、言語も動物の鳴き声も邦楽楽器の音も捉えられるのだけれど、それ以外の言語圏の人の脳は、左脳で捉えているのは子音で、純母音も動物の鳴き声も、あらゆる物音も、楽器の音も、右脳で捉えているという議論である。日本人の場合、外国語の学習でも、薬物の使用でも、簡単にあらゆる音情報が左脳処理になってしまう。日本人の脳は音に関する限り左脳負担がきわめて大きい。そういうことである。
その結果、日本人は、心や生命を左脳で捉え、無機的なものを右脳で捉えているらしいのだけれど、日本人以外は、左脳がロゴス、右脳がパトスというふうに、割り切れて、動植物感受も右脳の管轄らしい。
これはすごいことで、日本語を使うということは、ある意味では、動物の声や川のせせらぎさえ言葉として捉えているということである。
結局、日本人は、多くの音情報を左脳で、視覚イメージを基本的に右脳で捉えているのに対して、西洋人は、多くの音情報を右脳で、視覚イメージの多くを左脳で捉えていることになる。西洋から高度で体系的な幾何学が生まれたのはこんな事情かもしれない。
左脳には言語中枢が局在しているのがわかっているけれど、右脳は、いまのところ、どんな中枢が局在しているのかわからないといえばわからない。言語以外の何かを処理しているのだけれど、特定の機能について指定した言い方をしようとすると、今のところ出来ない。まあ、左脳が利き腕、右脳は補助の腕というところだろうと思う。
右脳の能力を開発すると超人的な才能が開発できるみたいな話になると無根拠で怪しくなってくるけれど、日本人が音情報を基本的に左脳で、視覚情報を右脳で処理し、西洋人が音情報を基本的に右脳で、視覚情報を基本的に左脳で処理しているとすれば、なぜ、西洋でシンボルの記号化が著しく進み、音楽の楽理の研究が進展したのかも理解できるような気がする。一方、日本が美術先進国で、江戸時代の版画が印象派の先生の役割を果たしたのも、説明が出来るような気がする。
こういう本を読むと、幼児期の英語教育なんていうのは、国体の破壊行為そのものなのがわかる。世界でも特異な日本語と日本文化の維持のためにわれわれは努力すべきなのだろう。
付記:結局、日本人は、多くの音を言葉として処理しているということになる。常に言葉が聞こえている。意味が付加されている。西洋人は、多くの音が雑音あるいは楽音になるわけである。そこにはコミュニケーションはない。日本人はイメージを右脳で捉える。距離を置き、楽しみを求めることが出来るわけである。西洋人は、多くを左脳で処理するためイメージに意味が付加される。見えるものについての利害を考えるわけである。
言語というのは、因果関係の把握か目的意識の明確化のために用いられる。また、コミュニケーションの道具である。音声において、言語の側面が強いか、雑音あるいは楽音(たんなる快不快の根源)と捉えられるかは大きな違いである。また、イメージが言語的であるかないかということを考えると、西洋では、見ればわかるのが大切になる、いっぽう、日本では、表現はぼかして婉曲になる。「奥ゆかしさ」に相当する西洋語を探すのは難しいと思う。日本人の視覚表現は露骨さをきらい、奥ゆかしさを好む。