ダブルスタンダード(二重規範) Wikiによると、
二重規範とは、万人が平等に自由を享受する原則が特定のグループに対して偏って道徳的に不公平な形でねじ曲げられる事だと言える。このような二重規範は「法の下の平等」を謳った現代法の基本原理に反するので不当である。また、二重規範は個々人それぞれに違った基準を生み出すので、あらゆる基準は・・・主観的な偏見・偏愛に拠らず全ての人に同じように適用されるべきだとする公平無私の原則にも反する。
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Wスタンダードは、WT組織の特徴であり、これが多くの怨嗟を生み出すものとなったことは間違いありません。宗教指導者たちは偽善的であり、圧政的であり、冒涜的です。これもまた間違いないと思います。
ヤコブの手紙の注解の著者ダンラップはその次の年に排斥になりました。
「良心の危機」によるとほとんど抗弁の余地はなく排斥となりました。
奇しくもダンラップが描写した「地的、動物的、悪霊的」である者たちの処断のように思います。
闘争的であったのはダンラップが当時そういう報告を受けていたのか、あるいは統治体がそうであったか、はたまたダンラップ自身がそうであったかはわかりません。
しかし現実に生じていたからこそ書きえたことだと思います。権力争いに没頭する「長老たち」に会衆の人たちは悲しんだことでしょうね。
「こういうことは見たくない。世で見飽きたものだ。」
そう思ったことでしょう。
さて組織のWスタンダードを批判するのはもっともなことですが、一方で自分たちはどうなんだろう、と考えることは必要だと思います。
聖書の中には「愛」を強調する聖句がたくさんあります。そういう聖句を見て、心を動かされた経験をお持ちの方は、それがJWであった理由ではないかと思います。
その心は真実だと思います。
少なくとも組織批判も「愛」を求めていたにもかかわらず、それが行われていないのが主な理由だとも思います。
では愛を求めるばかりで、自分は愛を示さなくても良いのでしょうか。
実名攻撃を是とするのは果たして「愛」のある行為でしょうか。
例えば、アメブロ会衆とやらで組織批判ばかりし散々統治体の悪口ばかり言って、この組織は「神の霊など注がれていない。」といつも言っている人がいます。
はっきり言ってそれがバレルと排斥に相当するものです。
実際は「俺は別にこんな組織なんか未練はない。排斥になっても構わない。」というかもしれません。
しかし集会に行っています。
仮面をかぶって集会に行っています。
理由は例えば高齢の親や家族がいる人は自分がもし排斥になれば、その人たちの心や身を案じて仕方なく集会に行っている場合もあります。
自分が排斥になると親は心配し、心を病み、精神に異変をきたすかもしれない。
そうですね、自分の家族は心配です。自分の家族は心配で心配でなりません。
そんな時身バレは怖くないんですか?自分の実名が晒され、仮に攻撃され「こいつは、組織批判している背教者だ。どこへ行ってもこいつには注意しろ。」と言われ、親の世話ができなくなったらどうするのでしょうか。
で、どうなんですか。他の人の家族はどうなってもいいんですか?
自分の親と同様マイコンにかかった親は精神に異変をきたしてもいいんですか?
恐ろしい思考です。
自分の身は安全にしたまま、実名攻撃やそれを拡散する人はどうみてもおかしいです。
他者には自分への愛を求めたがっているのに、自分は他者へ愛を示しません。
どう考えてもWスタンダードです。
勿論、自分の名を明らかにすれば、いくら中傷してもいいとは思いませんけどね。そういう問題ではありません。
クリスチャンならばですよ。
組織崇拝者を偽クリスチャンという一方、そういうことができる人はクリスチャンでしょうか。
そういうことなんですよねえ。
自分さえよければ…
自分の親さえよければ、自分の家族さえ穏やかな日々を送ることができるならば…
身勝手な人です。それで組織を責めますか?組織に愛がないって?
へえええええええええええええええええええええ
一端心が頑なになれば、そういう自分すら見えずただひたすら自分を正当化するでしょう。
もはや自己吟味などできません。それは決して覚醒などではないと思います。
むしろ批判することにのみ精神の高揚をきたしており、それが及ぼす周囲への悪影響やまた自分のしている行為によって周囲の人を傷つけることも平気という点では心の「覚せい剤」を打たれているといってよいと思います。
いずれボロボロになります。もう聖書すら読む気が無くなるでしょう。聖書の言葉に心を洗われることもなくなるでしょう。もうすでにそうかもしれません。
サタンの思うつぼです。その仕掛けた罠に呑み込まれていくのです。