がんの「免疫療法」には、数十年にわたって、「いかがわしい」、「胡散臭い」、「ペテン」、「詐欺」などという、芳しくないレッテルが張られていた。私も外科医をしていたころから、免疫療法には悪い印象しか持っていなかった。1990年にがん細胞特異的な抗原(がん細胞を攻撃する免疫反応を活性化する物質)が報告されたり、メラノーマ(皮膚にできる黒い色をしたがん)に対してワクチン療法やある種の細胞療法に効果があると発表があっても、かつて治療にあたった患者さんの印象が強く、疑い深い思いは変わらなかった。
この私の考えを180度変えたのは、東京大学医科学研究所で実施された「腎臓がんに対する遺伝子治療」の結果であった。私はこの遺伝子治療の審査委員長であり、審査の段階から関わり、定期的に報告を受ける立場にあった。患者さんからがんを切除し、がん細胞に免疫を強める遺伝子を導入して、再び体内に戻す治療法であった(体内に戻す前に放射線をかけてから、がん細胞を体内に戻す)。責任医師は病院の谷憲三朗・助教授(現、九州大学教授)であった。
患者さんは、すべて第4期の腎臓がん患者であった。4名の患者さんお治療後の生存期間は、8か月、3年9か月、6年、8年7か月で平均は5年弱、と進行した病状からは予想できない長さであり、かつ、免疫反応はしっかりと検出されていた。この治療法はがん細胞を直接たたく薬剤は利用されていないので、患者さんの免疫システムが、がん細胞と闘っているとの結論が導ける。この報告を受けるにつれて、私は免疫に引き寄せられるようになった。
私は、自分の研究成果をもとに、抗がん剤を開発する目的でオンコセラピー社を2001年に設立した。当時、考えていた薬剤は、「分子標的治療薬」「抗体医薬」「遺伝子治療」「核酸医薬」であった。ワクチンの「ワ」の字も構想の中にない。それにもかかわらず、慰安婦問題で叩かれている新聞社は、「ワクチン治療を開発するために会社を設立した」など事実を偽造し、金儲けのために安全性を無視し、強引に物事を進めている」と非難した。事実などなくても、作って書いて面白くした方が勝ちという姿勢は「慰安婦問題」に共通する。他人を悪者にするためには、事実の捻じ曲げなどへチャラである
私の名誉棄損裁判では、詭弁と論理のすり替えを駆使して説明するものだから、話がとんでもない方向に進み。裁判長に「それではあなた方は中村先生を評価されておられるのですか」との質問まで飛び出した。しかし、これでも裁判には勝てなかった。裁判の際には、取材源をばらすような資料を提出し、それによって相手の不勉強と論理破たんが明らかになったのにもかかわらずである。でも、いったん失った名誉は簡単に取り戻せないし、時間もかかり、経済的にも負担がかかるので、残された時間を考えるとこんなことに、これ以上関わるのは、人生の無駄だと思った。
つい、愚痴ってしまったが、本題に戻す。医科学研究所で見つけた、多数のがん特異的分子(がん細胞だけで働いていて、正常細胞では働いていない分子)は、がんペプチドワクチンの開発に利用できるので利用させてほしいとの申し入れがあり、共同研究で複数のワクチンを発見した。欧米でも多数実施されているので、臨床研究ネットワークを構築してワクチンを評価しようという話に結び付いた。
70近い病院の協力を得て、2006年から活動を始め、膨大な資料を得て、臨床利用できるという確信はもったが、薬剤として承認を得るには、しっかりとした客観的な論理の構築が必要である。その戦略性に欠けていたため、オンコセラピー社は2度の治験に失敗した。一部の患者さんが長生きしていると言ってみても、科学的評価も無に等しい。予算をできる限り抑える臨床試験ではなく、ワクチンの性質を十分に考えて勝算のより高いデザインで組むべきではなかったかと思う。費用がかかっても、成功確率を高める戦略が必要である。
日本で、もたもたとがんペプチドワクチン治療を行っている間に、欧米では免疫チェクポイント分子に対する抗体の有効性が実証され、米国では一気に多くの癌腫で治験が始まっている。がん細胞を免疫攻撃から守る細胞に存在する分子の働きを抗体医薬で抑えると、癌腫によって異なるが、10-50%の患者で腫瘍縮小が認められることが次々と報告されている。これらの成果によって、がんの免疫療法は、がん医療の場でその確固たる位置を固めたといって過言でないが日本はまたも出遅れてしまった。ただし、これらの抗体治療薬は、米国では3回の注射で1,000万円以上かかる。これが大きく広がれば、医療費は急速に膨らむ。このような環境下では、日本が得意とされてきたペプチドワクチンを薬剤にするには戦略の転換が必要である。4年前、当時の民主党政権の長妻昭厚生労働大臣がワクチン治療に「100億円予算をつけろ」と指示を出したが、結局20億円程度になってしまった、会議の場で、私が100億円必要だと頑張りきれなかったのが要因であった。私が民主党政権下政権下で最も評価するこの長妻大臣の大英断を生かせなかったことは痛恨の極みである。そして、朝日新聞の歪んだ記事は、この問題でも大きく国益を損なう結果を招いた。(次回は、2010年以後の動きと日本のなすべき方策に触れてみたい)