クロスリバーの欠片


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遠洋漁業に行った話4 〜操業〜
2010/06/22 11:24

20年前、当時18歳の私が体験した遠洋漁業の話。

大企業である大陽漁業(仮)所有の漁船、太陽丸(仮)は、北極海で網を入れようとしていた。




キャプテンの船内放送を合図に、甲板員たちがぞろぞろと甲板に上がる。

私も渡されていたヤッケとゴム長を身に付け、ヘルメットを被った。

もう一つ渡されていた刃渡り15cmくらいのナイフを持って、甲板への階段を上がる。



食堂から出たところに、甲板員の詰め所があった。

詰め所にはドアがない。

田中の後に付いて詰め所に入る。

天井から、あの熱風が出るパイプがたくさん突き出していてた。

ペンキと魚の腐ったような臭いが鼻を突く。

壁沿いに駅の待合室のようなベンチが備え付けてあり、屈強な男たちが10人ほど、窮屈そうに座っていた。

みな黙々とナイフを研いでおり、入ってきた私に視線を上げるものはいなかった。

新入社員のように挨拶をしたが、反応はなかった。



座る場所もなく立ち尽くしていると、一番奥に鎮座する男が口を開いた。

「おめーは航海士か?」

男の声の低さに緊張して首を横に振ると、

「だば、上さ上がるんじゃねえ」

唸るように言いながら、男が視線を上げた。



眼光は鋭く、瞳の色が薄くてグレーに近い。

頭髪にも無精髭にも白髪が混じり、顔全体が赤みを帯びていた。

目尻と眉間に刻まれたしわが深い。

体躯は、カナダで一緒に働いた荷役の外人たちにも劣らない。

短いおかっぱのような髪型は、自分で切っているのだろう、ガタガタだった。

スタンハンセンの様な男。

ボースンだった。



ボースンとは、甲板長のことである。

この男が甲板員を仕切っていた。

この船の甲板員は「ワッチ」と呼ばれる二つのチームのようなものに分かれており、私はボースンのワッチに配属された。

自分が所属していないワッチをカタワッチと呼ぶ。

カタワッチの長も、ボースンの指示通りに動いた。



「ワッチ」とは、通常、「航海当直」の事を指す。

キャビンの航海士は3交替でワッチにあたる。

甲板員は2交替制。

これだけでも、航海士と甲板員の扱いの違いが解る。

港を出れば24時間、このワッチを繰り返す。

休みはない。

キャプテンはワッチには加わらず、朝起きて夜寝る。

全て、船の厳しい「階級制」のしきたりから来ているのだろう。

映画パイレーツ・オブ・カリビアンでも描かれたように、昔から甲板員たちの反乱があったのだろう。

事実、下級層の人間は常にフラストレーションを溜めていた。

だから、キャプテンだけが武器を持つことが許された。

よくは知らないが、合法なのだろう、太陽丸のキャプテンも拳銃を持っていた。

実際に拳銃を見せてもらうのだが、それはまだ、だいぶ先のことである。





下の世界は数十年間、このボースンが支配していた。

ボースンは上と下にキッチリ境界線を引き、キャビンの人間が下の世界に干渉してくるのを嫌った。

下の世界のルールは全て、この男が決めていた。

食堂の席。

船室の割り当て。

食事の献立。

甲板員を監視することも、怠らなかった。

ここまでの航行の間、私の行動を下からずっと見ていたようだ。

ボースンからの最初の教えは「キャビンに上がるな」だった。

そして、あのファーストオフィサーとボースンは犬猿の仲だった。



船が止まった。

ポイントに着いたようだ。

ボースンに続いて甲板員が詰め所を出る。

私も後に続いた。



テニスコートが3面くらい入りそうな広さ。

全面に木材が敷き詰められている。

雨風を凌げるものは何もなく、環境はその辺に浮かんでいる氷の上と大差ない。

この甲板が、私の職場になる。

甲板の縁は腰くらいの高さまで外板が突き出して、一種の柵になっている。

船の最後尾だけはその縁がない。

最後尾は網が下りていくための滑り台のようになっていた。

その滑り台をスリップと呼ぶ。

「スリップには近づくな」

これもファーストオフィサーから教わっていた。

画像

田中は「そこで見てろ」とだけ告げ、作業の輪に入っていった。

どうやらしばらくの間は、見ているだけでよさそうだった。

「見てるだけでいい」と言われても、氷点下の海上に立ちっぱなし。

動いた方がましだ。



甲板員たちは、何十年も続けてきた作業を淡々と続ける。

今回は網を入れるだけ。

それでも、数kmもあるワイヤーを捌き、巨大な網を落とし込む作業は、大変そうだった。



トロール漁について少し。

太陽丸の漁法は、トロールという一隻で行う底引き網漁。

画像


まず、巨大な網を海底まで沈める。

ワイヤーを数キロ出して、およそ1,000メートルの深海を浚う。

一度網を入れると、3〜4時間引っ張る。

時間が来ると網を上げ、魚を選別して船底の巨大な冷蔵庫に貯蔵する。

普通の漁船は一度港を出ると、冷蔵庫がいっぱいになるまで、この作業を続ける。

およそ3ヶ月くらいだろう。

太陽丸は調査船なので、いろんな理由で入港の期間が変わった。



船が動き出す。

ウインチからスリップに向かって、蛇のように横たわる太さ10cmくらいのワイヤーが、「ビンッ」という低い音と共に、一本の棒のように張る。

スリップとワイヤーが軋む。

網を入れると、トモ(船尾)が少し沈む。

同時にオモテ(船首)が浮いて揺れがひどくなる。



寒さに震えながら作業を見ていると、昨日も操舵室でよく寝たのに、欠伸が止まらなくなってきた。

船酔いの始まりだった。












続きはまた書きます

コメントをいただいて、ありがとうございます。
この話は親しい友人にもしたことがありません。
この期間、友人たちの間で私は行方不明でした。
ある意味、心の傷になっており、普段記憶から消している部分です。
書いてるとあの恐怖がよみがえりますが、あれから20年、当時50くらいのおっさんたちはもう死んでいると思い直して書いてます。





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カテゴリ:遠洋漁業

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