20年前、当時18歳の私が体験した遠洋漁業の話。
大企業である大陽漁業(仮)所有の漁船、太陽丸(仮)は、北極海で網を入れようとしていた。
キャプテンの船内放送を合図に、甲板員たちがぞろぞろと甲板に上がる。
私も渡されていたヤッケとゴム長を身に付け、ヘルメットを被った。
もう一つ渡されていた刃渡り15cmくらいのナイフを持って、甲板への階段を上がる。
食堂から出たところに、甲板員の詰め所があった。
詰め所にはドアがない。
田中の後に付いて詰め所に入る。
天井から、あの熱風が出るパイプがたくさん突き出していてた。
ペンキと魚の腐ったような臭いが鼻を突く。
壁沿いに駅の待合室のようなベンチが備え付けてあり、屈強な男たちが10人ほど、窮屈そうに座っていた。
みな黙々とナイフを研いでおり、入ってきた私に視線を上げるものはいなかった。
新入社員のように挨拶をしたが、反応はなかった。
座る場所もなく立ち尽くしていると、一番奥に鎮座する男が口を開いた。
「おめーは航海士か?」
男の声の低さに緊張して首を横に振ると、
「だば、上さ上がるんじゃねえ」
唸るように言いながら、男が視線を上げた。
眼光は鋭く、瞳の色が薄くてグレーに近い。
頭髪にも無精髭にも白髪が混じり、顔全体が赤みを帯びていた。
目尻と眉間に刻まれたしわが深い。
体躯は、カナダで一緒に働いた荷役の外人たちにも劣らない。
短いおかっぱのような髪型は、自分で切っているのだろう、ガタガタだった。
スタンハンセンの様な男。
ボースンだった。
ボースンとは、甲板長のことである。
この男が甲板員を仕切っていた。
この船の甲板員は「ワッチ」と呼ばれる二つのチームのようなものに分かれており、私はボースンのワッチに配属された。
自分が所属していないワッチをカタワッチと呼ぶ。
カタワッチの長も、ボースンの指示通りに動いた。
「ワッチ」とは、通常、「航海当直」の事を指す。
キャビンの航海士は3交替でワッチにあたる。
甲板員は2交替制。
これだけでも、航海士と甲板員の扱いの違いが解る。
港を出れば24時間、このワッチを繰り返す。
休みはない。
キャプテンはワッチには加わらず、朝起きて夜寝る。
全て、船の厳しい「階級制」のしきたりから来ているのだろう。
映画パイレーツ・オブ・カリビアンでも描かれたように、昔から甲板員たちの反乱があったのだろう。
事実、下級層の人間は常にフラストレーションを溜めていた。
だから、キャプテンだけが武器を持つことが許された。
よくは知らないが、合法なのだろう、太陽丸のキャプテンも拳銃を持っていた。
実際に拳銃を見せてもらうのだが、それはまだ、だいぶ先のことである。
下の世界は数十年間、このボースンが支配していた。
ボースンは上と下にキッチリ境界線を引き、キャビンの人間が下の世界に干渉してくるのを嫌った。
下の世界のルールは全て、この男が決めていた。
食堂の席。
船室の割り当て。
食事の献立。
甲板員を監視することも、怠らなかった。
ここまでの航行の間、私の行動を下からずっと見ていたようだ。
ボースンからの最初の教えは「キャビンに上がるな」だった。
そして、あのファーストオフィサーとボースンは犬猿の仲だった。
船が止まった。
ポイントに着いたようだ。
ボースンに続いて甲板員が詰め所を出る。
私も後に続いた。
テニスコートが3面くらい入りそうな広さ。
全面に木材が敷き詰められている。
雨風を凌げるものは何もなく、環境はその辺に浮かんでいる氷の上と大差ない。
この甲板が、私の職場になる。
甲板の縁は腰くらいの高さまで外板が突き出して、一種の柵になっている。
船の最後尾だけはその縁がない。
最後尾は網が下りていくための滑り台のようになっていた。
その滑り台をスリップと呼ぶ。
「スリップには近づくな」
これもファーストオフィサーから教わっていた。
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田中は「そこで見てろ」とだけ告げ、作業の輪に入っていった。
どうやらしばらくの間は、見ているだけでよさそうだった。
「見てるだけでいい」と言われても、氷点下の海上に立ちっぱなし。
動いた方がましだ。
甲板員たちは、何十年も続けてきた作業を淡々と続ける。
今回は網を入れるだけ。
それでも、数kmもあるワイヤーを捌き、巨大な網を落とし込む作業は、大変そうだった。
トロール漁について少し。
太陽丸の漁法は、トロールという一隻で行う底引き網漁。
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まず、巨大な網を海底まで沈める。
ワイヤーを数キロ出して、およそ1,000メートルの深海を浚う。
一度網を入れると、3〜4時間引っ張る。
時間が来ると網を上げ、魚を選別して船底の巨大な冷蔵庫に貯蔵する。
普通の漁船は一度港を出ると、冷蔵庫がいっぱいになるまで、この作業を続ける。
およそ3ヶ月くらいだろう。
太陽丸は調査船なので、いろんな理由で入港の期間が変わった。
船が動き出す。
ウインチからスリップに向かって、蛇のように横たわる太さ10cmくらいのワイヤーが、「ビンッ」という低い音と共に、一本の棒のように張る。
スリップとワイヤーが軋む。
網を入れると、トモ(船尾)が少し沈む。
同時にオモテ(船首)が浮いて揺れがひどくなる。
寒さに震えながら作業を見ていると、昨日も操舵室でよく寝たのに、欠伸が止まらなくなってきた。
船酔いの始まりだった。
続きはまた書きます
コメントをいただいて、ありがとうございます。
この話は親しい友人にもしたことがありません。
この期間、友人たちの間で私は行方不明でした。
ある意味、心の傷になっており、普段記憶から消している部分です。
書いてるとあの恐怖がよみがえりますが、あれから20年、当時50くらいのおっさんたちはもう死んでいると思い直して書いてます。
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