瀬戸内・のんびり島めぐり

備讃瀬戸南航路

2000.5.23

「ぐるっと四国」も回を重ねるごとに読者が付き、ヒット数が上がってきました。
そうなると、すぐ欲を出すのがうちの編集長の悪い癖です。
「ここらで、何か目新しいモノやろうよ」
「たとえば?」
「ぐるっと四国を回ってみて、ガイドブックなどに載ってない、まだ手付かずの所があるだろう?山とか島とか・・・・」
「山ですか?内緒ですよ。実はひどい高所恐怖症なんです」
「じゅあ、島だな」
「『しまなみ海道』に沿って走るんですか?」
「車で行ける島なんて、島じゃない。離れ島だよ、鳥も通わぬ離れ島、とまでは言わんが、舟でしか行けない島だな」
「船でですか?カネと時間、経費が大変ですよ」
「大丈夫、オレに任して置きなさい」
「ハイ」と、そこで素直に返事をすべきではなかったのだ。
『離れ島』という言葉に、少しばかりのロマンを感じたのが運の尽き、折角のゴールデン・ウィークを離れ小島で過ごす羽目になってしまった。
罠がある、ともっと早く気付くべきだった。    MONG@


「半分休暇だと思って、のんびり行って来いでよ」。編集長が紹介してくれたのは、なんと全長.9.5m、3.2トン、ディーゼルエンジン(18馬力)搭載のヨット「LAPUTA(ラピュータ号)」だった。乗り込んで来たのは、「提督(アドミラル)」と呼んで皆が敬意を払っている40歳前後の艇長(写真右)、この辺の海にメチャ詳しい。次が自称「ボースン(水夫長)」で、赤銅色に日焼けした30歳くらいのたくましい青年(写真左)、ピッタシのニックネームだと思っていたら、帽子を脱ぐと丸坊主だった。もう一人、このとき飲み物をつくるため、キャビンに下りていたのが自称「奴隷」という60歳過ぎのジイさん、どんなに時化ても船酔いしないので、いつもコック役を引き受けている。
5月2日午前11時半、坂出港を出る。行く手をさえぎるように、番の州の石油コンビナートには山のようなタンカーが停泊、おかげで水面は鏡のようだ。これなら船酔いの心配はないぞ、と思っていると、提督が「午後から10mくらいの西風が吹く」とボースンと話している。毎秒10mの風って何だ?
1時間もかけてやっと瀬戸大橋を抜けた。エンジンはフル回転しても5、6ノットしか出ないのに、潮流はこのとき4、5ノットで逆に流れており、その上向かい風になっていた。手前の島が「与島」、斜長橋をはさんだ左側が「岩黒島」。手前の海面で底引船が網を曳いている。
これが、柿本人麻呂の「玉藻よし讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ神柄か」と詠った「沙弥島」だ。島で潮待ちをしていて死者を見つけ、せれを悼んで詠んだそうだ。1967(昭和42)の番の州埋め立てで地続きになってしまった。
午後2時半、やっと多度津町の沖に浮かぶ高見島に近づいた。東に面した斜面に開けた小さな港からフェリーが出てきた。住民140人、子供がいなくなったので、この3月の卒業式を最後に小学校が休校になった。中学校は2年前になくなっている。「漁業をする人と花を作る人はいるが、ほとんどが年金生活者」(町役場の担当者の話)とかで、1日4便のフェリーが島の人の”足”になっていた。背後のはげ山は「広島」。
ところで、このヨットはいったい何処へ向かうのだ?例の「提督」に丁重に尋ねると「航程は2泊3日、うまく行けば愛媛県・津和地島くらいかな」と言う。津和地島?何だその島は?「提督」も「ボースン」か「坊主」か知らないが、2人ともいかにも愛想がない。「いやあ、いい島ですよ、帆船時代には参勤交代のため松山藩の接待所『御茶屋』があって、遊女がいっぱいいたそうですよ」と、「奴隷」さんが解説してくれて分かった。でも、今の遊女がいるの?年のせいかこの人の長い”講釈”に付き合いさせられる羽目になった。写真は「粟島」沖の「備讃南航路」から眺めた瀬戸大橋。
午後3時、「粟島」と「真鍋島」の中間に浮かぶ小さな島の横を通過した。灯台しかない無人島だ。このあたりは「備讃南航路」と「備讃北航路」の西の入り口で、船舶の航行が激しい。その上、島が多くて潮流がきつく、瀬戸内海でも有名は難所。
座礁しない程度に島に近づくと、灯台船を係留するための立派な突堤があった。
午後3時半、庄内半島の沖に浮かぶ「六島」のそばで大きな客船の追い抜かれた。笠岡市のこの島は人口104人、六島小学校には学童6人、中学に入ると本土の寄宿舎生活が待っている。真鍋島から1日2便の連絡船がある。島には車がない。交通事故がない。医者も駐在さんもいない。住民は「漁業で生活するか、関西方面で働いて定年後に帰ってきた人がほとんど」(市役所企画課の担当者)だそうだ。
「六島」沖で、小生の乗るヨットと同じようなのに出会った。違いは相手のヨットは仲のよい中年男女が乗っている点だ。小生の乗る「ラピュータ号」は男ばかり4人、互いに手を振って挨拶したが、後であの二人がわれわれをどんな目で見ていたか想像してみた。ところで、この「ラピュータ」なる船名だが、「ガリバー旅行記」に出てくる、空に浮かぶ島の名で、「非実用的なことばかり夢想している人間の住む浮き島」(最新コンサイス英和辞典)だと、例の「奴隷」さんが教えてくれた。
「六島」を過ぎて広い「備後灘」に入ったとたんに、風が上げった。北西の風が風速10mを超すようになり、白波も見られる。3人は前帆を小さいのに換えたり、主帆を縮帆したり忙しそう。甲板ではとても手放しでは立っていられない。そのうち、気分が悪くなった。「奴隷」さんの用意してくれた船尾のベッドルームに入ったが、ドスンドスンと船首が波に叩かれるたびに、ますます気分が悪くなった。いつか眠った。気が付くと午後6時半、愛媛県・魚島に入港する寸前だった。