私は1994-2005年まで11年3ヶ月、外務省に奉職しました。当時は気の短いヤツでして、いつもガオガオ吠えていましたが、心から憤慨したというのは一度だけです。
それは「海洋調査活動の相互事前通報の枠組みの実施のための口上書」という文書を見た時です。これだけは今でも「何故こんなものに合意したのだ?」と思いが拭えません。
この口上書は何かと言うと....、と思ってネット上の文書を引用しようとしましたが、まず、この文書は(恐らく)ウェブ上には公開されていません。公開されているのは、このプレスリリース だけです。さすがに、この状態だと「疾しいから載せてないんだろう?」と言われても仕方がありません。
2000年前後に中国の海洋調査船が、日本との係争地域等においてかなり無法状態に近かったことから、相互通報メカニズムを作ろうとしたこと自体は評価できるところです。
そもそも、国連海洋法条約で海洋の科学的調査については以下のように定めがあります。
【国連海洋法条約(抜粋)】
第二百四十六条 排他的経済水域及び大陸棚における海洋の科学的調査
1 沿岸国は、自国の管轄権の行使として、この条約の関連する規定に従って排他的経済水域及び大陸棚における海洋の科学的調査を規制し、許可し及び実施する権利を有する。
2 排他的経済水域及び大陸棚における海洋の科学的調査は、沿岸国の同意を得て実施する。
3 沿岸国は、自国の排他的経済水域又は大陸棚において他の国又は権限のある国際機関が、この条約に従って、専ら、平和的目的で、かつ、すべての人類の利益のために海洋環境に関する科学的知識を増進加させる目的で実施する海洋の科学的調査の計画については、通常の状況においては、同意を与える。このため、沿岸国は、同意が不当に遅滞し又は拒否されないことを確保するための規則及び手続を定める。
(略)
5 沿岸国は、他の国又は権限のある国際機関による自国の排他的経済水域又は大陸棚における海洋の科学的調査の計画の実施について、次の場合には、自国の裁量により同意を与えないことができる。
(a) 計画が天然資源(生物であるか非生物であるかを問わない。)の探査及び開発に直接影響を及ぼす場合
(略)
第二百四十八条
沿岸国に対し情報を提供する義務沿岸国の排他的経済水域又は大陸棚において海洋の科学的調査を実施する意図を有する国及び権限のある国際機関は、海洋の科学的調査の計画の開始予定日の少なくとも六箇月前に当該沿岸国に対し次の事項についての十分な説明を提供する。
(a) 計画の性質及び目的
(b) 使用する方法及び手段(船舶の名称、トン数、種類及び船級並びに科学的機材の説明を含む。)
(c) 計画が実施される正確な地理的区域
(d) 調査船の最初の到着予定日及び最終的な出発予定日又は、適当な場合には、機材の設置及び撤去の予定日
(e) 責任を有する機関の名称及びその代表者の氏名並びに計画の担当者の氏名
(f) 沿岸国が計画に参加し又は代表を派遣することができると考えられる程度
【引用終了】
簡単に言うと、「科学的調査は許可制ですよ、ただ、通常の状態では調査の申し出に同意を与えなくてはなりませんよ、そして、それは6か月前にやってくださいね」ということになっています。
日中の口上書では、この許可制を「届出制(通報)」にしています。「通常の状態であれば同意を与えるのだから、そこは相互信頼で通報に落としてもいいだろう。」という判断なのでしょう。さて、口上書が実施されて11年、それがどうだったかは検証してみる必要があります。
そして、「6か月」を「2か月」に短縮しています。ここも中国に相当に押し込まれています。日本は「6か月」で何の問題もないのです。ショートノーティスでやりたい中国の意向が反映されていると言っていいでしょう。
それよりも問題となっているのは、この口上書は対象海域の定め方が日中で不平等なのです。日本が科学的調査をすることを通報しなくてはならないのは「中華人民共和国の近海」です。しかし、中国が通報しなくてはならないのは「日本が関心を有する地域である日本の近海」です。対象海域が異なるのです。ここが私は一番引っかかりました。おかしいのです、絶対に。「日本の近海」でなく、余計な修飾語が付いているということはその分、対象海域が狭いということです。したがって、冒頭で引用したプレスリリースには大きな嘘があります。
更には運用上の問題として、実は用語の解釈が異なっているのではないかということもあります。中国はこの通報をした結果、国連海洋法条約の「科学的調査」の概念には含まれない「資源探査」や「軍事調査」をやっている節があります。もしかしたら確信犯なのかもしれませんが、そもそも日中で使っている用語が違うとか、解釈の違う言葉が充てられているとか、そういうことはないのかなと思います(が、文書が公開されていないので検証のしようもありません。)。
そして、中国は沖ノ鳥島のEEZや大陸棚での科学的調査については、この口上書に基づいて一切通報してきませんでした。これは中国が沖ノ鳥島を(EEZや大陸棚を有する)島ではなく、ただの岩だと見ていることから来るものですが、ここは完全に効果がありませんでした。その間、中国の公船が沖ノ鳥島周辺で、恐らくは海底地形を調べる軍事調査活動をやっていたであろうことは有名な話です。いわゆる中国人民解放軍が射程に入れる第二防衛線の確認をしていたのでしょう。極東有事の際、アメリカの潜水艦のアクセスを拒否するための調査だったと私は思っています。
もっと言うと、冒頭プレスリリースをもう一度見てください。何故、日本側プレスリリースで「東シナ海」をわざわざ中国語表現である「東海」としているのか、ここまで来ると呆れてしまいます(なお、この「東海」はいわゆる「トンヘ」ではありません。)。
ここからはあまり言いたくありませんが、当時の外相は河野洋平氏、アジア大洋州局長、中国課長、(法的観点から担当となる)条約局法規課長、すべて外務省チャイナ・スクール時代の事です。私のようにユルユルのフレンチ・スクールにはさっぱり理解できない世界です。
そして、最後に繰り返しになりますが、この文書は少なくとも公的には公開されていません(ただ、情報公開法上の非開示文書ではないので研究者の方等が何度も言及しており、今回のエントリーはそれらを繋ぎ合せながら書きました。)。何処か疾しいところがあるから公開していないと言われても仕方ないでしょう。
2004年、条約課に配属になった時、「ひでえなあ、これ」と言ったのも10年前です。そろそろ検証してみる時ではないでしょうか。