ゲーマー日日新聞

ゲームを主に、たまに映画や政治について。

GameLife閉鎖 「鑑賞者」としての歩みと、消失後の展望

f:id:arcadia11:20140824133536p:plain

 

 


多くのPCゲーマーに愛読されたゲームサイト『Game Life』が、遂に閉鎖されてしまった。

サイトの更新は2年近く停滞していたものの、ブログにおいても「近いうちを目処に手を付けたい」と公言していたにも関わらず、

この心残りな結果は、一体誰が予想出来ただろうか。

私もまた、彼の世話になったゲーマーの一人であり、それだけ感慨深いものがある。

今日は、PCゲーム界隈において「鑑賞者」としての模範的姿として、独自のゲーム観を形成し、多くのゲーマーに愛されたメディア、『GameLife』の歴史と魅力を追憶したい。

 

 

 

 


客観性と主観性の双方向的視点

 

 

f:id:arcadia11:20140824134757j:plain




そもそも、『GameLife』とは何ぞや。という方も多いだろう。

だが、一言で説明するのは難しい。ニュースあり、コラムあり、攻略あり、批評あり、とにかくPCゲームに関して豊富なコンテンツが揃ったサイトと答える他ない。

それに加え、それぞれの記事は推敲が重ねられ、客観的なニュース記事と主観的なオピニオン記事が同居している一方で、

管理人は自分にハンドルネームも付けず、ブログのちょっとした記事を除いて、ほとんど自己の情事を描くことがなかった点も加えておくべきだろう。

いずれにせよ、多くの面で自己の主張を貫く忌憚なきゲームサイトであった。






本サイトの詳細も紹介しておこう。

第一に、丁寧な攻略記事。初期の洋ゲーが今ほど親切な設計でなく、まして日本語化MODも貴重な頃であった。

第二に、豊富なニュース記事。『GameLife』で扱う洋ゲーを中心とするニュースは、どれもソースが英語で書かれており、これも日本語圏のゲーマーにとって重宝された。

第三に、独創性あるブログ。ニュース・攻略記事では徹底した客観性を維持しながらも、ここでは彼の豊富な知識と経験から、洋ゲー界への解釈が述べられており、歯に衣着せぬ論述が好評だった。

第四に、ゲーム批評。『GameLife』きっての人気コンテンツだったことは、もはや言うまでもないことだろう。

最後に更新した『Tiny&Big』の記事を含めると、彼は約180件にも上る膨大な批評を、このネットに投下し続けたことになる。

その数もさながら、質からしても、優れた文才、客観的考察に加え、鋭い切り口、更には独自のゲーム観を遺憾なく表し、あくまで「個人」としてゲームを批評し続けた。

個人サイトならではの「落とし所」と「主観」を躊躇なく取り入れ、「ゲーム論」を積極的に構築していく彼の批評スタイルは、

もはや混乱が目的となったゲハブログや、歯が浮くような礼賛を箇条書きする個人ブログとは、一線を画す点から、硬派な洋ゲーマーに受け入れられた。




 

 

 

 

「クリエイター」と「鑑賞者」

 

 

f:id:arcadia11:20140824134836j:plain




『GameLife』の魅力を伝えるには、むしろ『Gamelife』の「外」について語る必要があるだろう。

何故、これほど『GameLife』は信頼されていたのか。

豊富なコンテンツ、ユニークな文才、孤高の中立性。確かに、どれも優れたサイトが備えるべき美点である。

しかしこれは、それだけ他のサイトにこの最低限の要素が欠けていることにも触れねばならない。(例えばゲーマー日日新聞など)

いや、他のサイトだけではない。本、雑誌、ネット、全てにおける「ゲームを取り巻くメディア」は未だなお劣悪である。



私が常々思うのは、「クリエイター」だけではなく「鑑賞者」の貢献があって、文化とは初めて形成される、ということだ。

例えば、ノーベル賞において、一見、科学と無縁に見えるノーベル文学賞が設立されたのは、

ノーベルが日常的に文学の「観賞」から多分にインスピレーションを受け、彼の偉大な「クリエイト」に大きな貢献を残したためである。

また私情で恐縮だが、私自身も、このブログの改良には、「鑑賞者」から寄せられた感想を大いに活用させて頂いている。

何にせよ、文化とは「クリエイター」と「鑑賞者」の相互の協力によって形成されるものであり、「クリエイター」を取り巻く環境こそ、「鑑賞者」なのだと思う。

 

 

 

 

暴徒と化しつつある「ゲーム鑑賞者」

 

 

f:id:arcadia11:20140824135028j:plain

 



これは逆説的に、「クリエイター」がいかに優れた作品を作っても、「鑑賞者」の過失や故意によって、文化が平然と末梢されることもありうる。ということだ。

ゴッホやルソー、宮沢賢治の例に及ばず、「鑑賞者」の審美眼は決して万能ではなく、貴重な作品があわやというところで失われかけた例もある。

それどころか、日本の廃仏毀釈や、中国の文化大革命によって、多くの貴重な文化が「鑑賞者」の暴力によって消失した、痛ましい事件も少なくない。



そして、このゲーム業界は、かなり「病んだ」状態であることは確かである。

ネットの「メディア」では、ゲハブログが権威と化し、Twitterでの何気ない呟きが一般的な見解となり、

同時に、現実の「メディア」は極端にマイナーか、さもなくばファミ通のような身内ノリで終わってしまうかだ。

 

これは数ある文化で「ゲーム」だけの珍事と言えよう。

 

いかにゲームがネット上の通信で遊ばれる娯楽といえ、シンポジウムや雑誌のようなメディアは現実に存在せず、むしろ議論の中心は虚構のネットにあるのだから。

 

故にゲーム業界では、クリエイター同士が語るサロンもなく、アカデミーな視点で鑑みる賞もなく、ネット上でさえ「ゲーム」を純粋に語る、IMDbやブクログのようなサイトは存在しない。

 

(最も、『ファミコンとその時代』にあるような名著も生まれつつある。しかし、未だマイノリティであると言えよう。)

『GameLife』氏も言及していたが、現代のゲーム界における、「メディア」の権威はリアルの世界でなく、虚構のゲハブログにある。

いや、厳密に言えば、最初から「メディア」なぞ存在しない、一切のアナーキ・無政府状態こそが現代のゲーム業界である。

曖昧な情報と、傲慢な信頼を元手に、奇妙な古典伝説と容赦無い制裁のマスターベーション。私を含めたそれらが、ゲーム「鑑賞者」の多数派であることを、心苦しくも否定できない。

 

 

 

 

『GameLife』の後で我々が歩むべき道とは

 

f:id:arcadia11:20140824135444j:plain

 


私にとって、『GameLife』は、そんな悲惨な環境のなかで、一人燦然と輝く希望であった。

今のゲームを取り巻く「鑑賞者」の環境は、どの情報も評価も信頼に値しない、疑心暗鬼の世界である。(例外は後述する)

それでいながら、『GameLife』は常に「自己」の主張を絶え間なく続け、自分の立ち位置を、自分の「鑑賞者」としての「ゲーム観」を持っていた。

だからこそ、傲慢な私情であるが、私は腐敗したネットの中で、『GameLife』を唯一信頼できた。彼の言葉を借りるなら「無限の建設」を行う者と、初めて出会えたから。



「クリエイター」とは異なり、我々が「鑑賞者」である限り、どうしても周りの意識に巻き込まれる。

その困難を乗り越えた「鑑賞者」が、独自のオピニオンを生み出せば、それはもう人々を感心させる「クリエイター」ではないだろうか。

少なくとも『GameLife』氏は「鑑賞者」であり「クリエイター」であった。彼はゲームとは何かという論理だった主張と、鬼気迫る情熱で、ゲームのなかに自身の人格を見出し、そのアカデミックな方法序説を余すことなく伝導していたからだ。

 

ゲームは文化である。決して娯楽でなく、自己満足ではない。そのことを証明すべく、彼は様々な視点でゲームを論じた。


「鑑賞者」という立場から、確かに作品を作ることに貢献できる模範を、彼は確かに表したのである。



『GameLife』は素晴らしい。

しかしながら、このすがるような依存心は、それだけゲーム業界の「鑑賞者」が悲惨な無政府状態である証拠でもある。

果たして我々は「鑑賞者」としての自覚と責任をもっているだろうか。

こういっては失敬だが、我々は『GameLife』を惜しむのは、無責任な我々の「依存」もあるのではないだろうか。

『GameLife』での経験を糧に、『GameLife』が霞むほどに、優れた「メディア」環境を我々は構築すべきだ。私にその力はないが、ゲームを文化であると立証したい者が集まれば、それは実現できる。

少なくとも、我々のゲーム業界は、他の文化界隈より目に余る点が多いことは否定できないのだから。

 

 

 

総論


以上、『GameLife』の魅力とその背景について述べさせて頂いた。

『GameLife』の美点は、豊富なコンテンツに優れた批評。そして何より、孤高の中立性を持ち、メディアらしさを追求した姿勢である。

SNSの発達により、ある種の「慣れ合い」が日常化する中で、この孤高の姿勢は真に評価すべき点といえよう。

また『GameLife』の魅力もさながら、それを取り巻くゲームの「鑑賞者」たる環境が、未だに惨憺たる情勢であることは否定できない。

もはやゲーム界隈の「鑑賞者」たちは、自信の姿勢や責任を省みることなく、漠然とした感情で文化を破壊することを厭わない。

同時に、どうすればゲームを楽しめるのか等、より深く論じる機会も基準もなく、今の「鑑賞者」がゲームをより味わうための教訓がないのも事実だ。

だからこそ、『GameLife』はその基準となるような「ゲーム観」を余すことなく論じ、暗黒時代である日本のゲーム界隈における灯台となった。

我々はただ『GameLife』を惜しむだけでなく、『Gamelife』亡き後だからこそ「鑑賞者」としての品位を維持する必要があるだろう。

 

 



余談だが、多くのゲーマーが『GameLife』の閉鎖を惜しむ中、「我々の手でドメインだけでも維持出来たのではないか。」というゲーマーもいる。

しかし、孔子の言葉には「今之孝者、是謂能養、至於犬馬、皆能有養、不敬何以別」という言葉がある。*1

親孝行をただ養うことだと思っては、家畜に餌をやることと同じである。両親への敬意があって、親孝行と言えるのである。

理由は如何であれ、『GameLife』は彼の意志でドメインを放棄したのである。

彼のサイトの復活や維持を求める声も多いに共感するが、彼の貢献を思えば、あくまで過去のサイトとして敬意を払うべきではないだろうか。

 

 

*1:「為政」 第二 七