メカAG なんというかどうも日本の悪いところばかりことさら強調するようなデータの見せ方をする人が多い。ネガティブに見ようと思えば見れるし、ポジティブに見ようと思えば見える。たとえば下記のデータ。第3節 労働生産性及びTFPの国際比較:通商白書2013年版(METI/経済産業省)http://www.meti.go.jp/report/tsuhaku2013/2013honbun/i1130000.html冒頭に1979年~2009年の各国の全産業の労働生産性の推移のグラフが載っている。ちょっとグラフが小さくて見にくいが29.4とついているのが日本。51.5とついているのがアメリカ。たしかにこれだけ見ると日本の労働生産性はアメリカの60%ぐらい。これをもって日本の労働生産性は低いというも一面の事実ではある。 * * *だがしかし、その右の労働生産性対米比のグラフを見てほしい。これもグラフが小さいが、57.2とついているのが日本。ようするにアメリカの60%ぐらい。でもグラフの1979年頃を見ると40%ぐらいなんだよね。それが徐々に上昇して1991年頃には55%ぐらいまで上昇した。つまり40%から55%まで日本はアメリカを追い上げたわけだ。ところがその後は56%~57%ぐらいで、追い上げが止まってしまった。これが1980年代までは日本は伸びていたが1990年代になると行き詰まってしまった、とよく表現される状態だ。 * * *でも別に距離が縮まらなくなったというだけで、引き離されたわけではない。現状維持。少なくとも1970年代~1980年代より1990年代以降は、数値的にはわずかながら良いはず。55%と57%なんだから2%ほど追い上げている。でもなんかみんな、1990年代になって日本型モデルは行き詰まった、何とかしないともうダメだという論調で語られる事が多い。どうなんですかね?大幅に後退したならまだしも、前進の速度が弱まった程度で、ここまで言われなきゃならないんですかね。 * * *またアメリカを追い上げる速度が鈍ったのは日本だけでなく、ドイツやフランスも同様。 | 我が国は1970年代後半から1990年代半ばにかけて徐々に米国を追い上げていたが、それ以降、米国に対する格差縮小が停滞した。ただし、これは我が国に限った現象ではなく、ドイツやフランスでも格差縮小が停滞している。まあドイツが86%、フランスが76%なのに対して日本は57%で頭打ちになってしまったので、負けているといえば負けているけど、1979年の時点ですでに大きな差があったのだから、生産性の伸びという意味では健闘してると思うけどね。日本が1990年代以降、生産性の伸びが弱まったのが日本型雇用の限界だというなら、ほぼ同じ時期にドイツやフランスも生産性の伸びが弱まったのは、なにが問題なんでしょうかね。欧米型雇用の限界?(笑) * * *生産性と言っても「いかに効率よく働いたか」を示すわけではなく、あくまで人数あたりの生み出した価値(金額)なのだから、産業の種類で生産性は異なるし、国ごとに産業の比率は違うのだから、生産性が同じにならないのは当たり前。日本とヨーロッパじゃ地理的条件も違うし。ちなみに2000年~2009年の各国の生産性の毎年の伸び率の平均は、日本4.5%、アメリカ4.3%、ドイツ4.2%、フランス3.9%。 * * *追記2014-08-23 http://twitter.com/alicewonder113/status/502956304046907393 | そうはいっても、実際なんでこんなに低いのか、気になることは気になる>労働生産性/“距離が縮まらなくなったというだけで、引き離されたわけではない”一般に製造業と生産性は高く、非製造業の生産性は低い。これはどの国も同じで産業の性質としかいいようがない。たとえば農業の場合いくら頑張ってもその土地で作れる農作物は決っている。その作物の値段がその土地の生産性ということになる。高価な農作物もあれば安価な農作物もある。それぞれの国がどの農作物を作っているかは国によって違う。比較するならまったく同じ商品の生産性を比較しなければならない。同じ農作物同士の生産性を比較するなら多少意味があるが、内容の異なる「農作物」で括って比較すれば、高価な農作物を作っている国の方が生産性は高くなる。まあそれも一面の真実ではあるが、それは「稼ぎ」の効率の良さであって、ものを作る効率の良さとは違う。比較的同じ条件で比較しやすい製造業の場合、日本の生産性は非製造業ほど低くない。非製造業については同じサービスに対してどれだけカネを払うかがその値段なのだから、文化に依存する。どんなにすばらしいサービスであってもその国民が「こんなサービスは無料で当たり前」と思っている国では、価値はゼロなわけで。扱うのはあくまで金銭的な価値だからね。同様にどんなによい仕事をしても社員に低い給料しか払わなければそれがその社員の生産性ということになる。製造業の場合は貿易を通してある程度国をまたがった価値観も同じになるけどね。地元の人間の生活には価値のないものであっても外国で高く売れるなら、それは地元の人間にとっても価値がある。途上国の人々が自分では使えないウランを一生懸命掘り出すように。でもサービスの場合そういう「調整」が効きにくい。ようするに労働生産性というのは、たいそうな名前が付いているが、その程度の数値でしかない。名前のイメージに惑わされてはいけない。なんだってそうだと思うんだよね。学校の成績だって確かにその人間の一面の事実を表している数値だろう。でもなにを表しているのか意味も理解せずに数値だけ比べて優劣を判断したり、やみくもに数値だけを上げろと騒ぐのが問題なわけで。農作物だって単純に金銭的稼ぎを大きくしたいなら高く売れる農作物を集中して作った方が「効率」はいいだろう。でも農作物はそういうものではないと思うんだよね。安価な農作物も人間が生きていくには必要。実際そういった産業ごとの生産性のデータこそ重要だし当然そういうデータも算出されているが、マスコミが騒ぐのは全体の生産性なんだよね。細かなデータは見るのが面倒だしね。成績で言えば科目ごとの得点なら「この生徒は理系が得意そうだ」とか教育にとって有益な分析になるだろう。しかしいまのマスコミは総合得点だけみて比較しているようなもの。人間に置き換えてみれば、数値だけ他の国と比較して低いからダメだとかいうのがどれだけ無意味なことかわかると思うんだけどね。うまく活用すれば有益なデータも、活用の方法がわからない人間の手にかかると、学校の成績で人間性を判断するのと同じく、百害あって一利なしとなる。オリンピック選手に数学の成績が悪いことを責めても意味があるとは思えない。統計というのはまさに「なぜこの数値が低いのか(高いのか)」という分析を深めていくきっかけ(スタート)として意味があるのであって、分析した結果「この数値は低くていい」「この数値は戦略的に高めていくべきだ」とか判断すべきなのであって、そういうことをせずに、すぐに目くじらを立てて、数値が低い=ダメ&なんとかしろ、という短絡的な発想が無意味だということ。ひとつ言えるのは、みんな「日本の不況を何とかしたい」と思うから労働生産性についても気にしてるはずなんだよね。でも労働生産性はバブルの頃よりも現在の方が数値的には良いわけで、探す場所を間違えてるんじゃないですか?と。関連記事:労働生産性のよくある話