三鷹ストーカー殺人事件の判決が出たのが今月上旬なので、間もなく1ヶ月が経とうとしている。10代のいたいけな、可愛い女子高生が殺害されてしまったいたたまれない事件でした。
一審判決は懲役22年。
今回の事件はリベンジポルノや犯人に反省の色が見られない点、また警察介入の余地がほぼ無かった(困難だった)あらゆる観点からなにか感情を湧きあがらせるものがあるのか、判決に対して軽すぎなんじゃないかとか、もっと重くしたいよね、とか疑問の声が聞こえてきた。
- ストーカー殺人による死刑は厳しい?
過去のストーカー殺人事件を軽く流して見てみたのだが、ストーカー殺人事件で死刑判決が出たケースはほとんど見られなかった。あったとしてもターゲットの身内も巻き込まれて被害者が2人以上出ているケースだったり。
そもそも事件直後に被疑者が自殺してしまい裁判に持っていくこともできずに終わっていたケースが多かった。他のパターンの殺人事件に比べてストーカー殺人ではこのパターンが非常に割合が高かった。
個人的に三鷹ストーカー殺人の一審判決懲役22年はストーカー殺人にしては重い判決が出てくれたかなと思っている(それで納得するかは別。だって自分は人殺してんだからね)のだが、犠牲者が一人でも死刑になるケースはゼロではないしセンセーショナルでもなくなってきた。
それでもストーカー殺人で死刑判決はなかなか出ない。なぜだろうか。
逆に死刑が多く出るケースの通り魔事件あたりと違いを見て考えてみる。
- 「社会的不安」要素の差?
ストーカー殺人というのは往々にしてターゲットへの執着が強い理由になっている。
「かつては愛していたあいつが憎い」
「もういちど振り向いてほしい」
「私のモノにしたい」
→ストーカーだけあって、ターゲット以外は視界に入りにくい。
対して通り魔殺傷というのは勿論ターゲットが無差別。
「俺の人生はもう終わった」
「死刑になりたい」
「何もかも壊したい」
→理由が自分に向いているあまり、対象を選別することはない。
イコール、「誰でも良い」=たまたまその場にいるだけで誰もが、これを書いている私も殺されていた可能性があったということだ。
現に、2008年に起こった秋葉原通り魔事件では非常に身近に感じた記憶がある。
当時私は大学1年で小さいサークルに入ったばかりだったのだが、アニメやゲームが好きないわゆるオタクの同期が何人かいた。週末はいつも秋葉原で遊んでいるようだったのでテレビで速報を見た瞬間、日曜日だったこともあり不安になったものである。たまたまその日は誰も秋葉原に行っていなかったが、「行こうと思ってやめたんだよね」と話していた先輩もいたくらいだ。
それくらい無差別殺人というのは「私もやられていたかもしれない」が距離感として近い。
ストーカーは「ターゲット」=ターゲット以外に矛先が向けられる可能性が低い(残念ながらターゲットに対して原因があるかどうかは関係ない)
無差別は「誰でも」=私も殺されていたかも?
近所にいる人は、どちらがより怖いだろうか。
- きっかけは当事者同士?
これは決して良い悪いではないのだが…
ストーカー殺人というのは往々にして犯人が「元交際相手」など、顔見知りの犯行が多い。
もちろん他人であるケースもあるが、事例としては強盗、路上喧嘩、通り魔などの殺人事件よりも少ない。
これは冷たい言い方をすると
「過去の関わり」次第で起きずに済んだ事件だったかもしれず、
またこれは「あなた」だから起きた可能性が高いのだよ、と認識されやすい。
…本来、ストーカーをやる人間なんてのは対峙する人への愛や感情よりも己の自己愛や単なる執着が招くものなんだけどね。。。
三鷹ストーカー殺人事件で大きく取り上げられたリベンジポルノについても
「あなたがかつて一緒になって撮ったor撮るのを許してたんでしょう」ということになってしまう。良くも悪くも、やすやすと撮らせたのは被害者のほうなんですよという理論が入っている。冷たいようだが、この点について法律は時代についていくのが多少遅くなければならない理由があるので歴史が浅いという点も原因かもしれない。
ちなみに、隠れて着替えていたところを知らぬ間に盗撮されるのは軽犯罪法に取り上げられやすいのだが、これが合意のうえでの性行為中に撮られていたとなると罪には問いづらい。あくまで合意の上で裸になったんだよね、ということだ。しかしこの写真を流出させる=リベンジポルノになると話は別。わいせつ物頒布等の罪になる可能性が高い。
盗撮自体は割と軽い犯罪という認識だったのが、急速にインターネットが普及してしまったためその罪の重さが変化しているのではないかと言われているのだがいかんせんそこは法律が追いついていない。なんで追いつかないのか書いた方が良いのかな?
- 無差別と怨恨
通り魔などの無差別殺傷と怨恨や執着によるストーカー殺人では、法律上の罪責には残念ながら大きな差があるようである。無差別殺人の方が被害者も多く出やすかったり、捕まるまでのロスや規模の大きさから社会全体を不安が襲う。模倣犯も出やすい。そういう意味ではこちらの方が罪責が重くなってしまう。
ストーカー殺人の被害者は殺されて当然な理由もないしたまったものではないのだが、殺した先にある負の影響力というのが違う。
- 法律は守るものだが守ってくれるものではない
ここまで書いたことから何となくわかるかもしれないが、
法律は決して被害者や遺族のためのものではない。
刑罰とは云うが、刑法の条文には「人を殺してはならない」とは書いていない。
刑法第199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」と書いてあるだけである。縛ることに責任をもってはくれないんだね、なんて子どもの頃は思っていた。少なくとも私は殺されたくはないのだけど。
社会に及ぼした負の効果や残虐性その他の影響を知らしめた事の重さを知らしめるためでもある。
日本の法律では復讐を許してはくれないのに、法律が復讐の役を担ってくれるわけでもないのだ。正直、なんて残酷で不公平なんだと思う。
ただ、死刑にすれば遺族がスッキリするわけでもない。命は二度と戻らず、そこに空いた穴は何をもってしても埋まることは無い。
犯人を殺し返したいと思うのか何しても生産性がないと思うのか。
どちらを選んでも元に戻らないのは明らかで、このループが続いていく。
せめて、そうはならない自律の努力を。