対馬丸:引率の元教諭、全生徒13人犠牲に今も自責の念
毎日新聞 2014年08月22日 21時23分(最終更新 08月22日 22時16分)
◇撃沈から70年、慰霊碑「小桜の塔」で慰霊祭
太平洋戦争中の1944(昭和19)年8月に沖縄から長崎に向かう途中で米潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の悲劇から22日で70年。船は暗闇の海に沈み、子供たち780人を含む1400人以上が犠牲になった。生徒を引率して乗船した元教諭の糸数裕子(みつこ)さん(89)は、今も自責の念を抱いている。「13人の生徒を連れて行ったのに一人も残らないんですよ。ずっと負い目があって。自分に対する責めですよね」
那覇市にある対馬丸記念館。糸数さんは22日、壁一面にかかった295枚の遺影から、初めての教え子たちの写真を見つけた。「この子はかわいい歌声だった」「学校の近くにこの子の家があった」。午前中、隣接する慰霊碑「小桜の塔」であった慰霊祭では胸の中で語り掛けた。「先生は生きているよ。そっちで待っていてね」
70年前、19歳の糸数さんは那覇国民学校の教諭になったばかりで、自分の組の13人を含む生徒の引率として「対馬丸」に乗船した。
那覇を出港した翌日の8月22日午後10時12分ごろ、別の組の生徒を医務室で看病しながら寝ていると、突然衝撃で体が吹き飛ばされた。「やられた」。米潜水艦の魚雷が船体を直撃。生徒を引っ張って甲板に出ると船員らが救命ボートや板を海に投げ込んでいた。
船もろとも海に沈んでいったが、糸数さんは浮き上がったところを誰かに竹のイカダに引っ張り上げられた。「寝たら駄目だ」。ウトウトすると兵隊に顔などをはたかれた。真っ暗闇の海上にはイカダや板につかまった人影がいくつも見えた。「せんせい、たすけてー」「おかあさーん」と波間から声が聞こえてくる。「がんばれー!」。そう声を出すしかなかった。
夜が明けると、自分たちが乗ったイカダ以外は何もいなくなっていた。目の前にはただ青い海が広がっているだけ。漁船に助けられたのは沈没から24時間がたっていた。
戦後の46年に疎開先の宮崎から沖縄に戻ったが、父親は糸数さんに言った。「生き残ったことは誰にも言うな」。犠牲になった生徒の親が父親のもとを訪れて、「うちの子供を帰してくれ」と迫っていたことを知った。「引率教諭は命も託されていた。『先生も行くから安心だ』と親御さんは子供を疎開船に乗せたんです」