学校行かず屋台開く
演習の爆弾処理に冷や汗
一九四一年、日本軍がマレーに攻めてくるとの情報が広がると共にアロースターには英国軍が姿を見せ始めた。町の十キロほど北部にあった飛行場は英国の陸空軍の基地になった。英国のブリストル・ビユーフォーツ機などの軍用機も続々飛来して、静かだった町にも戦争の緊張感が次第に高まっていった。
十五歳だった私は志願して英国が組織した国の予備消防隊に参加した。カーキ色の制服と鉄かぶとを初めて身に着けた持は思わず武者ぶるいした。ある時、消火演習が行われた。その一環として役所の屋上から焼い弾を落としたが、ごつんと音がしただけで爆発しない。上官の命令で私はその焼い弾を屋上にまで走って運び上げ、投げ下ろすと今度は爆発した。運んでいる時に爆発したかもしれないと思うと、体中に冷や汗が流れた。
英国当局はしきりに反日感情をあおっていた。しかし、当時アロースターに住んでいた何人かの日本人は反日キャンペーンの標的にはなっていなかった。おもちゃ屋さんをやっていたミスター・シバは日本人のリーダーだった。写真館の「ミヤモト」さんはとりわけ西欧人社会で人気があって繁盛していた。後に分かったことだが、彼はアロースター周辺にあった英国の軍事施設の写真をすべて撮っていた。日本軍の侵攻に備えスパイをしていたらしい。
日本軍が来る前は、日本と日本人に関して当時のマレーの人々がもっていた印象は漠然としていた。漫画に描かれた日本人は厚く丸い眼鏡をかけて小柄なことが特徴だった。近眼なので飛行機の操縦は出来ない、などともいわれていた。マレーの人々は英国軍がそんな日本人の軍隊に負けるなんて夢にも思っていなかったのである。
ケダは十九世紀の後半から平和な状態が続き、戦争や戦争の残虐なことはほとんど経験していなかった。だから、十二月十三日にアロースターを占領した日本軍の兵隊が市内に隠れていた英国の兵隊を銃剣で突き殺すのを見て、震え上がってしまったのだ。
日本軍政は私の学校も含めてすべての英語学校を閉鎖した。が、マレー社会で英語学校に通っていた人たちの数は限られ、大半の人には何の影響もなかった。代わりに日本語学校が開かれて、私たちは突然日本語を学ぶはめになったのである。
日本の占領期間中、私も一年間ほど日本語学校に通った。校長先生は英国人と結婚していた日本女性で非常に優しい人だった。「奥さん」と呼ばれていた。私は「い」組の組長に選ばれたけれども、日本側は真剣に日本語を教えようとの姿勢が感じられず、まもなく学校へいかなくなった。
家族は生活に困り、私は友人と小さなコーヒー屋台を開いた。場所は憲兵隊司令部や拘置所が入っていた行政庁の建物の前である。商売は比較的うまくいったが、まもなく日本軍から立ち退きを命じられた。
私は、アロースターで人々の尊敬を集めていた中国人内科医で現地の中国人社会のリーダーの一人だったチェ・トン・ロさんが拘禁され、中で体操をしているのを目撃したことがある。建物の中には弾薬庫や武器庫もあったらしい。立ち退きの理由は多分そこから建物の中が見えたからだろう。
私は、今度は地元の人が買い物をするペカン・ラブで果物を売り始めた。日本軍もよく買いに来たけれど、バナナの良しあしが分からないことには私もいささか戸惑った。しかし、兵隊達はお金はいつもきちんと払ってくれて、不愉快なことは記憶していない。私が日本人とじかに接触したのはこの時が初めてである。
(マレーシア首相) 1995年11月 日本経済新聞掲載