Klemperer Title
Klemperer


Otto Klemperer(English site)

An die Musik(クラシックCD試聴記)

シリーズ;クレンペラーを聞く

Otto Klemperer オットー・クレンペラー(1885〜1973)


略歴
1885年ドイツ領ブレスラゥで生まれる。
ユダヤ系ドイツ人。1906年オスカー・フリートの代役として「天国と地獄」でデビュー。
その後、マーラーの推薦を受け、プラハを皮切りに様々な歌劇場の指揮者となる。
その当時から抑鬱症の兆候があったそうだ。
1927年ベルリン第二国立歌劇場としてクロール・オペラが設立され、その総監督になり、意欲的に新しいオペラの初演や、新しい演出など、さまざまな試みが行われる。
1933年政権を握ったナチスから追われるようにアメリカに亡命、ロサンゼルスフィルの常任指揮者となる。
1938年脳腫瘍にかかり、ほぼ世間から忘れられる(1933年ライプツィヒでリハーサル中の指揮台からの転落事故が遠因かも知れない、とクレンペラーは語っている)。
1946年帰欧。ストックホルムで復活。1947年ブタペスト国立歌劇場の音楽監督。しかし、政治の壁のため3年で離任。
1951年モントリオール空港で転倒、腰の骨を骨折、その入院生活とアメリカの帰化外国人の法律のため1954年までヨーロッパに戻れなかった。
1954年ヨーロッパに戻ったクレンペラーは最期までチューリッヒに居を構える。
1955年EMIプロデューサー、ウォルター・レッグの招きでロンドンへ。フィルハーモニア管弦楽団を振ってレコードを作り始める。1959年レッグと終身契約。その間(1958年)、ベッドでの寝煙草が原因で大やけどを負う。
1964年レッグのEMI離職と共にフィルハーモニアの解散。フィルハーモニアのメンバーによってニュー・フィルハーモニア管弦楽団が組織され、請われて会長になる。
1972年演奏活動から引退、1973年チューリッヒにて没。

 クレンペラーは大男だった。身長は2mを越えていたと言うことだから、文字どうり巨人だ。ベルリンでのトスカニーニ歓迎レセプションの有名な写真を見ると、左側にエーリッヒ・クライバー、ワルター、トスカニーニのそれほど背の高くない面々がおり、右側に背の高いフルトヴェングラーとクレンペラーがいる。クレンペラーはフルトヴェングラーよりも頭半分背が高い。
 クレンペラーのことを、ジャーナリストで「クレンペラーとの対話」を編纂したピーター・ヘイワースは「大鷲」と表現しているが、まさしくその指揮姿は大鷲を思わせるものであったのだろう。最晩年、道ばたでクレンペラーが転んで、体の不自由なクレンペラーを「自分が行くまでだれも助け起こせなかった」とヘイワースは書いているが、その巨大な体躯が想像できようものだ。
 クレンペラーは大器晩成型の指揮者だとよく言われる。しかし、クロールオペラ時代の復刻CDやアメリカ亡命時代、ロサンゼルスフィルを振ったCDを聞くと、既にクレンペラーは大指揮者だったことが分かる。「テンポが遅くなったから大指揮者になった」と言うのは甚だしい誤解だ。クレンペラーは、その最初期から大指揮者の器だったのだ。
 そのことはクレンペラーの巨大な体躯とは無縁ではない。当時の演奏者にとって、その巨大な体躯は絶対服従の対象として、圧迫感を持っていたことが推察される。
ただ、ナチスの台頭や第二次世界大戦など、ユダヤ系であったクレンペラーは歴史の渦の蚊帳の外にいることはできなかった。
 クレンペラーの生涯を眺めてみると、正に波瀾万丈、よくこれで音楽を断念して隠棲生活に入らなかったのが不思議なくらいだが、クレンペラーにとって「生きる」とは音楽をすることだったのだろう。
 エリザベート・フルトヴェングラー夫人が語っているところによると、フルトヴェングラーはクレンペラーを非常に尊敬していたのだそうだ。それは、音楽の作り方が両者で全く違ったと言うことにもよるかも知れないし、若い頃の同時代の音楽に果敢に挑戦する姿勢に対してだったのかも知れない。
 事実、若い頃は多くの同時代の作品を初演を行っている。アメリカ亡命時代にシェーンベルクのブラームス「ピアノ四重奏曲」の管弦楽編曲版の初演を行ったのもクレンペラーだった。
 クレンペラーの録音記録は、1924年から最晩年までCDで復刻されているので、かなり広めのクレンペラーのレパートリーを聞くことができる。その最初期から、纏綿とした感情を音楽に込めることをせず、トスカニーニに代表される即物主義的演奏とは異なるが、幾分ドライとも言えるくらいにスコアの再現を行っている。
 むしろ、そのことが音楽に内在するパワーを引き出し、スケールを大きく聞かせる結果になっている。1950年代後半からのフィルハーモニア管弦楽団を指揮した一連の録音が、今でも歓迎される理由の一つではないかと思える。
 しかし、では冷たいだけの演奏かというとそうではなく、ライヴ録音などを聞くと、激しく白熱する演奏が聴けるし、マーラーの交響曲などでは自然に情緒的なものが付加されている。
 クレンペラーは元々オペラ指揮者だったが、残念ながらモーツァルトの一連のオペラと、ワーグナー「さまよえるオランダ人」くらいしか全曲の演奏記録は残されていない。これらのオペラの録音は、新しい同曲の演奏が出てきても決して忘れ去られることのない記録だと思う。
 オペラ以外では、バッハからクルト・ヴァイルに至るまで、優れた業績が多々残されている。これから、クレンペラーがさまざまな楽曲に残した刻印を探って行きたいと思う。



第30回 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲を聞く
第29回 ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」を聞く
第28回 ベートーヴェン:交響曲第8番を聞く
第27回 ベートーヴェン:交響曲第7番を聞く
第26回 ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』を聞く
第25回 ベートーヴェン:交響曲第5番を聞く
第24回 ベートーヴェン:交響曲第4番を聞く
第23回 ベートーヴェン:交響曲第3番「エロイカ」を聞く
第22回 ベートーヴェン:交響曲第2番を聞く
第21回 ベートーヴェン:交響曲第1番を聞く
第20回 モーツァルト:セレナーデ第10番&第11番を聞く
第19回 モーツァルト:歌劇「魔笛」を聞く
第18回 モーツァルト:歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」を聞く
第17回 モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を聞く
第16回 モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」を聞く
第15回 モーツァルト:ホルン協奏曲を聞く
第14回 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
(追悼、ユーディ・メニューイン)を聞く

第13回 モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番を聞く
第12回 モーツァルトの交響曲を聞く その6
第11回 モーツァルトの交響曲を聞く その5
第10回 モーツァルトの交響曲を聞く その4
第9回 モーツァルトの交響曲を聞く その3
第8回 モーツァルトの交響曲を聞く その2
第7回 モーツァルトの交響曲を聞く その1
第6回 ハイドンの交響曲を聞く その2
第5回 ハイドンの交響曲を聞く その1
第4回 ヘンデル「メサイア」を聞く
第3回 バッハ「ロ短調ミサ」を聞く
第2回 バッハ「マタイ受難曲」を聞く
第1回 バッハ「管弦楽組曲「ブランデンブルク協奏曲」を聞く

戻る