恋愛論(橋本治)前編

finalventさんの書評連載、今回はAV監督の二村ヒトシさんより提案いただいた橋本治の『恋愛論』を評します。二村さんが影響を受けただけでなく、パクったとまで言わせる橋本治の説く恋愛の深層とはいかなるものか。再読にあたって恐怖も感じたというfinalventさんはなにをそこから読み取るのでしょうか。二村さんの推薦文と併せてお読みください。
僕の古典 二村ヒトシ「キモい男、ウザい女。」
 僕の血肉になった古典は(マンガは他にもいっぱいあるが、文章に限れば)20世紀に書かれた筒井康隆、田中小実昌のすべて、山田風太郎の「忍法帳」、佐野洋子のエッセイというか短い小説、糸井重里の萬流コピー塾、そして20世紀に書かれた橋本治だ。新しい古典という認識じゃない。それより古い古典を教養がないので知らない。「血肉になった」という表現は恥ずかしい。血肉にできているのだろうか。忍法帳のような(Vシネの忍法帳のような、ではなく原作のような)アダルトビデオを撮ろうと心がけてはいる。筒井や佐野のような文章を書きたいと(書けるわけがないが。文章だけ真似してもだめだ)思ってはいる。小実さんのように女に(男にも)さわれるようになりたい、萬斗七星はじめ優れた塾生たちのように投げこみたい(そして糸井のように受けとめたい)と願ってはいる。橋本治のように徹底的に考えぬきたいとも考える。しかし、そこまで考えぬけてはおらず、あんな気高さも持てず、つまり問題提起の部分だけをパクってばかりである。掌の上。治ちゃんは巨人だ。僕が書いた『すべてはモテるためである』と『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』は、あきらかに『恋愛論』と『青空人生相談室』と『貞女への道』のパクリです。

人はなぜ恋愛をするのか

 恋愛はおそらく既婚・未婚を問わないだろう。対象が異性であるとも限らない。だが、それをひとまず置く。その上で、現在の日本の若い男女を眺めてみる。彼らの半数には交際相手がいない。理由はまず「適切な相手にめぐり会わない」ことにある。なぜめぐり会えないのか。めぐり会う才能がないからだろうか。橋本治の『恋愛論』は、そう切り出す。


恋愛論 完全版(文庫ぎんが堂)

 恋愛で大きな比率を占めるのは”出会い”っていうヤツだけれども、恋愛がしたいと思ってて恋愛が出来ないでいる人っていうのは、自分には恋愛相手と出会う”才能”というものがないんではないかと思い込んでいるところがあるね。

 だが、出会いがないのは、その才能の問題ではない。ではなぜ、出会えないのか。

 はっきり言って、恋愛相手に出会えない人っていうのは、別に今恋愛なんかしなくたっていい人なんだもの。恋愛する理由も必要もないから、その人の前には”恋愛相手”なんていうものが出て来ないっていう、それだけなんだよね。

 恋愛の必要がないから、そもそも出会いもない。では、恋愛をする必要や理由はなにか。それがこの『恋愛論』の骨格であり、とことん突き詰めて議論される。その過程で、通念的には恋愛に連結される性行為も排除される。異性愛も同性愛と同じ地平に自然に置かれる。恋愛を突き詰めればそうならざるをえない。『恋愛論』の文体はくだけているが哲学書のように厳格だ。

必要とか理由っていうものを考えないから—そして、「それは当然あってしかるべきことだ」なんていうオメデタイことを考えてるから、コンプレックスなんてものが湧くのね。必要もないことを思い詰めることほどバカげたことはないですね。

 恋愛をするには必要や理由が前提になる。当然あってしかるべきものでもない。恋愛はそんな難しいものなのか。当然である。

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