ガートルード・ベルはイラクの国境の線引きを考え、初代国王を人選し、イラク国旗のデザインを考えたイギリス女性です。イラク国民からは、日本の感覚で言えば坂本龍馬みたいな愛着を持たれています。
なぜ今日彼女のことを書くか?
その理由は、イラクにだって、ちょうど日本の明治維新のときがそうだったように、混乱の中から(しっかりした国を作りたい!)とデカい夢を見た一握りの人たちというのが存在したし、安っぽい陰謀論では片づけられない、本当の情熱、そこへ住む人々への熱い想いを抱き、奔走した人たちが居たことを知って欲しいからです。
ガートルード・ベルはイギリスの裕福な家庭に生まれ、オックスフォード大学に設置されたばかりの女子部(と言うのかな?)、レディ・マーガレット・ホールを首席で卒業した女性です。燃えるような赤毛、深い青色の瞳を持つ、小柄な女性でした。
彼女は1900年頃、ペルシャ大使だった伯父さんを訪ね、中東を旅します。そこで中東に魅せられ、メソポタミア文明の遺跡などを研究して回ります。
彼女は結構、情熱的な人だったらしく、いろいろな男性と恋に落ちますが、悲劇的な事ばかり起こってしまい、一生、独身でした。中でも既婚の男性、チャールズ・ドーティー・ワイル中佐との不倫は有名です。しかし彼がガリポリの戦いで戦死し、ベルは大きなショックを受けます。
当時、彼女はメソポタミア(=現在のイラク)について誰よりも詳しかったし、アラブ語、ペルシャ語などを喋れたので、イギリス外務省アラブ局(=諜報機関です)にリクルートされます。これは「アラビアのローレンス」ことT.E.ローレンスと同じ所属です。二人はお互いオックスフォードを優秀な成績で卒業し、中東研究をしているということで、同胞であると同時にライバルでもあります。アラブ局に所属するのはローレンスの方が先ですけど、中東を渡り歩いた年数の長さ、現地の事情に詳しいという点ではガートルード・ベルも全然負けていないと思います。
ガートルード・ベルは現地の諸侯から信頼が厚かっただけでなく、女性なのでかれらの後宮に出入りすることが出来、諸侯の妻たちから普通では得られないような耳寄りな情報を打ち明けられることも多かったそうです。
ベルはメソポタミアにおける英国政府の最初で唯一のスパイと言えますが、常にアラブ人の民族自決の支援者でした。
ローレンスは土候、フセイン・イブン・アリーらと反乱軍を組織し、第一次大戦で敵側に回った中東の支配国、オスマン帝国(=今日のトルコ)へ反旗をひるがえします。アカバ港の攻略は映画『アラビアのローレンス』のクライマックス・シーンのひとつです。
その後、アリーたちはアカバを攻略した勢いでダマスカスまで攻めのぼります。ダマスカスはこんにちのシリアの首都です。
この当時のローレンスとフセイン・イブン・アリーとの信頼、友情関係は人種や国籍を超えたものであり、フセインの一族たちは、自分たちも列強のような国家を建設することができるかもしれないという想いに駆られます。これがアラブ自決運動です。
「戦争に勝ったら、アラブ人の独立を認めてやる」というのがフセイン=マクマホン協定と呼ばれるアラブ人とイギリスとの間の1915年の約束です。しかしイギリスとフランスはその翌年、サイクス・ピコ協定という、中東の山分けに関する密約を結び、アラブ人への約束を反故にします。
この関係で、ダマスカスを制圧した後、フセインの子、ファイサルが一旦、シリア国王の座に就きますが、それを明け渡さなければいけなくなります。
フセイン、ファイサルの家系は、ハーシム家という由緒正しい血筋です。ハーシム家はイスラム教の開祖、ムハンマドの孫で第四代のカリフ、アリーとムハンマドの娘、ファーティマとの息子、ハサンの末裔ということになります。
この血筋の良さ、ファイサルのリーダーとしてのオーラ、その柔軟で現実路線の考え方を高く評価したガートルード・ベルはウインストン・チャーチルなどが出席した1921年のカイロ会議でファイサルをイラクの国王に推挙します。
この当時のファイサルの考え方は、部下に宛てられた書簡の中の、彼の言葉によく表れています:
既にサイクス・ピコ協定があった関係で、ベルがイラクの国境線を策定し、スンニ派とシーア派を両方含めた線引きをせざるを得なかったのは苦渋の選択でした。しかしスンニ派とシーア派の反目は、イギリスが登場する前に300年もの間、この地を統治したオスマン帝国がわざとけしかけた統治のスタイルに因るところが多く、これをベルのせいにする人は、現地には居ません。
なおガートルード・ベルの生涯は、近くニコール・キッドマン主演映画『Queen of the Desert』として映画化されます。
その後、アリーたちはアカバを攻略した勢いでダマスカスまで攻めのぼります。ダマスカスはこんにちのシリアの首都です。
この当時のローレンスとフセイン・イブン・アリーとの信頼、友情関係は人種や国籍を超えたものであり、フセインの一族たちは、自分たちも列強のような国家を建設することができるかもしれないという想いに駆られます。これがアラブ自決運動です。
「戦争に勝ったら、アラブ人の独立を認めてやる」というのがフセイン=マクマホン協定と呼ばれるアラブ人とイギリスとの間の1915年の約束です。しかしイギリスとフランスはその翌年、サイクス・ピコ協定という、中東の山分けに関する密約を結び、アラブ人への約束を反故にします。
この関係で、ダマスカスを制圧した後、フセインの子、ファイサルが一旦、シリア国王の座に就きますが、それを明け渡さなければいけなくなります。
フセイン、ファイサルの家系は、ハーシム家という由緒正しい血筋です。ハーシム家はイスラム教の開祖、ムハンマドの孫で第四代のカリフ、アリーとムハンマドの娘、ファーティマとの息子、ハサンの末裔ということになります。
この血筋の良さ、ファイサルのリーダーとしてのオーラ、その柔軟で現実路線の考え方を高く評価したガートルード・ベルはウインストン・チャーチルなどが出席した1921年のカイロ会議でファイサルをイラクの国王に推挙します。
この当時のファイサルの考え方は、部下に宛てられた書簡の中の、彼の言葉によく表れています:
私は「まず取れるものは取っておいて、後で正式に乞う」という主義だ。政治の駆け引きでは、臨機応変を心掛けなければいけない。まず与えられたチャンス(=ここではイラクを指します)をちゃんと生かし、一歩一歩踏みしめて行こう。そうするうちに、光明がきっと差し込んでくる。最初は、与えられたものの中から、達成可能な成果を上げ、その上で権利を主張しよう。(=これはアラブ統一を指すものと思われます)
既にサイクス・ピコ協定があった関係で、ベルがイラクの国境線を策定し、スンニ派とシーア派を両方含めた線引きをせざるを得なかったのは苦渋の選択でした。しかしスンニ派とシーア派の反目は、イギリスが登場する前に300年もの間、この地を統治したオスマン帝国がわざとけしかけた統治のスタイルに因るところが多く、これをベルのせいにする人は、現地には居ません。
なおガートルード・ベルの生涯は、近くニコール・キッドマン主演映画『Queen of the Desert』として映画化されます。