地図:伊能忠敬の北海道図、測量は間宮林蔵か…2団体分析

毎日新聞 2014年08月18日 21時35分(最終更新 08月18日 22時30分)

伊能忠敬像=千葉県香取市の伊能忠敬記念館所蔵
伊能忠敬像=千葉県香取市の伊能忠敬記念館所蔵

 江戸後期に伊能忠敬(1745〜1818年)測量隊が作製した蝦夷(えぞ)地(現北海道)図の完成版が、探検家・間宮林蔵(1780〜1844年)が測量したデータを基に作られた可能性が高いことが18日、伊能忠敬研究会と関連団体「InoPediaをつくる会」の調査で分かった。

 ◇1次版と完成版、全域にずれ

 伊能は1800年に道南の松前から東南海岸の厚岸(あっけし)あたりまでを測量、第1次測量図を作製したが、没するまで道内の他地域は未踏だった。このため、北海道全体を詳細に描いた完成版は、伊能の測量と、弟子で同地を長期間調査した間宮の測量を合わせて作製したと考えられてきた。

 だが「間宮は探検家であり、これほど詳細な測量はできない」という見方や、反対に「間宮がすべて測量したのでは」という説もあった。

 両会は昨年5月から今年7月にかけて調査。国立公文書館・内閣文庫の第1次測量図と最終版の北海道図をコンピューターで重ね合わせたところ、双方の測量線がほぼ全域にわたってずれていることが分かった。両会は、長期間蝦夷地を調査しさらに伊能式の測量術を身につけた間宮が、伊能が測量した地域を測量し直して完成版を作製したと結論付けた。

 間宮は1817年、蝦夷地から江戸に戻った後2カ月間にわたり伊能邸にとどまっており、この時に測量データが引き継がれたという。

 ただ、間宮自身が北海道全域を測量した記録は確認されていない。「間宮説」を確定させるには今後、文献調査などが必要となる。【栗原俊雄】

伊能忠敬の測量線と完成版の線
伊能忠敬の測量線と完成版の線

 ◇本格調査前に弟子入り◇

 伊能忠敬は上総国小関村(現・千葉県九十九里町)の名主の家に生まれた。酒造家、伊能家の婿養子となり家業を継いだ。49歳で隠居。子どものころから興味を持っていた天文学を学ぶため江戸に出て、幕臣で天文学の第一人者だった高橋至時の門下生となった。

 55歳で、東日本から北海道に及ぶ測量を開始。亡くなるまでに日本列島を踏破して、精密な地図を作製、日本で初めて全国規模の実測地図を残した。

 間宮林蔵は常陸国上平柳村(現・茨城県つくばみらい市)の農家に生まれた。算術を学び16歳で江戸へ。20歳で蝦夷地に渡った。北方調査は20年に及び、日本の地理調査に大きく貢献した。

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