発掘された戦没学徒兵木村久夫の遺書全文は繰り返し読むことを迫ります。そして、八月十五日。不戦の誓い新たなれ、と祈らざるを得なくなります。
戦没学徒の遺稿集「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)の中でもとりわけ著名な京大生木村久夫の遺書は、実は哲学者田辺元「哲学通論」(岩波全書)の余白に書き込まれた手記と、父親宛ての遺書の二つの遺書をもとに編集されていたことが本紙の調べで明らかになりました。
哲学通論の遺稿と発掘された父親宛ての手製の原稿用紙十一枚の遺書は、このほど「真実の『わだつみ』」の題で本にしてまとめられました。二通の遺書全文は再読、再々読を迫ってくるのです。
◆戦場に無数の兵木村
本紙記者によって書き下ろされた木村の生い立ちや学問への憧れ、二十八歳でシンガポールの刑務所で戦犯刑死しなければならなかった経緯と事件概要が読む手引となり、汲(く)めども尽きぬ思いが伝わってくるからです。哲学通論余白の一言一句、短歌も甦(よみがえ)ります。
と同時に、事件をめぐる軍人たちの行動とその後は、日本と日本人は許されるのだろうか、との暗澹(あんたん)たる気分にも襲われます。
木村が戦争犯罪に問われたのは戦争最末期の一九四五年七、八月、インド洋アンダマン海のカーニコバル島での住民殺害事件。日本軍は住民に英国に内通するスパイの疑いをかけ少なくとも八十五人を殺害してしまいました。
事件は連合軍の反攻上陸に怯(おび)えての幻影の可能性が大きく、裁判なき処刑が行われました。その処刑の残虐、取り調べの残酷、野蛮に情状の余地なく、死者に女性、子供も含まれました。
◆子供らに戦なき世を
シンガポールの戦犯裁判で死刑は旅団長と命令に従った上等兵の木村ら末端兵士五人、事件を指揮命令した参謀は罪を逃れ、戦後を生き延びました。木村遺書の「日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中(まっただなか)に負けたのである。全世界の怒るも無理はない」「最も態度に賤(いや)しかったのは陸軍の将校連中」は抑えきれぬ胸中のほとばしりでした。
木村は「踏み殺された一匹の蟻(あり)」でしたが、現地住民への加害も忘れてはならないでしょう。先の大戦の軍人の死者二百三十万人のうち六割の百四十万が餓死。国家に見捨てられ、食糧の現地調達を強いられた兵士たちは現地住民には「日本鬼」でした。被害の感情が簡単に消えていくとは思えないのです。
アジアを舞台にした大東亜戦争にはおびただしい兵士木村が存在したでしょう。学徒兵木村は「日本軍隊のために犠牲になったと思えば死にきれないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない」と納得させようとしたのです。
終戦の日に不戦の誓いを新たにし、平和を祈念する日であり続けなければならないのは当然です。
全国戦没者追悼式に臨まれる天皇陛下は傘寿。八十年の道のりで最も印象に残るのは「先の戦争」と答えられ、ともに歩む皇后陛下との姿から伝わってくるのは生涯をかけた追悼と祈りです。
戦後五十年の平成七(九五)年に、長崎、広島、沖縄、東京の慰霊の旅をした両陛下は、戦後六十年には強い希望でサイパン訪問を実現させました。
「いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏(あうら)思へばかなし」は、その玉砕の島での美智子皇后の歌。お二人は、米軍に追い詰められ日本人女性が身を投げた島果ての崖まで足を運び、白菊を捧(ささ)げたのでした。
平成七年の植樹祭での皇后の歌は何より心に響きます。「初夏(はつなつ)の光の中に苗木植うるこの子供らに戦(いくさ)あらすな」
来年の戦後七十年、両陛下はともに八十代。このところ天皇の節目の会見でもれるのは歴史への懸念です。「次第に歴史が忘れられていくのではないか」「戦争の記憶が薄れようとしている今日、皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び、平和に思いを致すことは極めて重要」。若き政治指導者たちには謙虚に耳を傾けてもらいたいものです。
◆一人ひとりを大切に
十五年戦争で軍の先兵になってしまった新聞ジャーナリズムの歴史も誇れませんが、気骨と見識の言論人の存在は勇気をくれます。桐生悠々は「言わねばならぬこと」を書き、石橋湛山は「私は自由主義者だが、国家に対する反逆者ではない」と抵抗を貫きました。
民主社会での報道の自由と言論は、国民に曇りなき情報を提供して判断を委ねるためです。そのための権力監視と涙ぐましい努力を惜しまず、一人ひとりが大切にされる世でなければなりません。
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