だいぶつのブログ

妻子を連れて九州に転職したアホな男のブログ

一度でも「トンデモ」タグを使ったことのある人間は、中世であれば魔女狩りに加担していた人です

久々に思慮深いエントリを発見した。

科学への冒涜者を集団で責め、追い込んでいくことについて|Seiji Bito|note

この歳になって思うことは、人間というのは思ったより「考えること」が苦手な生き物だ、ということです。私は生粋の変態なので「考えること」が割と好きなのですが、多くの人は考えることが嫌いです。隙あらば「考えること」を辞めようともくろんでいます。

たとえば、ちょっと前に流行した「ちきりん」氏の「自分のアタマで考えよう!」は、「自分のアタマで考えよう!」というワードにより思考停止させるため(そして、ちきりん思想にはめ込むため)のものでした。

なので、「自分のアタマで考え」たうえで「ちきりん氏の言っていることはおかしい」という批判をしても、彼女は全く見向きもしませんでした。彼女は「自分のアタマで考え」て反論をしてくれないのです。

佐世保の事件のあと「なぜ人を殺してはいけないのか」とか言うエントリがバズったことがありました。たとえば、「自分も殺されるのが嫌だから」とか言う稚拙な理由が挙げられていました。しかし、これは理由になっていないのです。ジェイソンという殺人鬼がいたとします。斧を持ってあなたを追いかけてきます。あなたの手には拳銃がある。さて、どうしますか?撃ち殺しませんか?私なら迷わず撃ち殺します。

この例では、つまり「自分が殺されるのが嫌だから」という理由が、他者の殺人を正当化する理由となります。法律上も、これは「正当防衛」として罪に問われる確率がグンと下がります。

そもそも、「人を殺してはいけない」のでしょうか?いまこの瞬間も、殺人や戦争などにより多くの人が殺されていっています。これほど普遍的に行われている「殺人」という行為が、なぜ「いけない」と言うのでしょうか?誰がそんなことを言ったのでしょうか?

一応、せっかくなのでこの設問に対する私自身の答えを書いておくと、「私」や「家族」が殺されるのは嫌だが、他人が殺されるのはかまわない、となります。家族を殺そうとしている殺人鬼がいれば、迷わず殺します。私にとって「なぜ人を殺してはいけないのか」なんていうのは、陳腐すぎて考える価値もない設問です。人は、場合によっては殺してもいいのです。

 

まあ陳腐な例ですが、本当の意味における「考える」というのは上記のようなことを言います。「自分のアタマで考えよう」とか「殺されるのが嫌だから」とか、そんなことで答えに至った気になることを私は「思考停止」と呼びます。

そしてここに、「科学」「論理」というワードによって思考停止してしまった人が多く集う「はてな村」というネット論壇があります。彼らは、「科学」「論理」の後ろ盾があれば決して間違えることがないと思っています。そして、自分が「非科学的」と思う言説を徹底的にこき下ろします。そう、集団リンチのように。

そして彼らは「集団リンチ」といわれることを嫌います。なぜなら科学は正しいからなのです。正しいものに基づいて正しい反論をしているのだから、どんな手段を用いても良いのだと。そういうのです。さて、善良な市民の皆様方はどう思われるでしょうか?

「科学」の産物、原子爆弾がアメリカにより日本に投下されました。これにより、「科学者」であったアインシュタインは大変心を痛めていたと聞きます。正しい理論により編み出されたものであっても、正しく行使されなければ間違った結果を生むということに、アインシュタインは科学のパラドックスを思ったでしょう。

「科学」を後ろ盾にした集団リンチ、さてこれはスケールこそ違えど、原爆投下に等しい行為ではないかと愚慮するわけです。

 

彼らは口々に言います。非科学的な、オカルティックな知識で人が死んだらどうすんだと。だけど、輸血拒否で死んだ人より、輸血で死んだ人の数のほうがずっと多いんですぜ。知ってます?