「独島」は「石島」ではなくて「甕島」
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前置き1 百人一首 「高師の浜のあだ波」
音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ (祐子内親王家紀伊)
(有名な高師の浜の荒波が着物にかかったら大変ですわ、ずぶ濡れになっちゃいますもの)
(浮気で有名な貴方に気持ちを寄せることはいたしませんわ、後で泣くはめにはなりたくありませんもの)
前置き2 崔南善
崔南善(チェ・ナムソン、1890年〜1957年、朝鮮の文学者・歴史家)は、戦後に韓国政府が竹島を奪取しようとして、「竹島/独島を韓国領土とする歴史的根拠はどんなものがありますか?」と聞きに行った相手の人物でもあり、竹島問題の論争において結構重要な人物です。1948年に発行した『朝鮮常識』という本で、朝鮮の領土の東端を「東経130度56分23秒 慶尚北道鬱陵島竹島」と書いた人物でもあります。竹島/独島の東経は131度55分ですから、彼は竹島/独島は全く朝鮮の範囲と考えていませんでした。なお、慶尚北道鬱陵島竹島の「竹島」は鬱陵島の東2kmの竹嶼のことです。
前置き3 大韓帝国1900年勅令第41号
1900年大韓帝国勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正する件 第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5 等にすること 第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること 韓国政府はこの勅令第41号について、「20世紀に入って大韓帝国は、光武4年(1900年)勅令第41号により、石島、即ち獨島を鬱陵郡の管轄下におく行政措置を通じてこの島が我が国の領土であることを明確にした。」と言ったりします。しかし、勅令にいう「石島」が確かに独島であるという地図や文献などの資料は一切示すことができません。
「石島」が「独島」であるとするたった一つの論拠は「方言」です。曰く、独島はその姿が「石の島」である。1880年代に空島政策が廃止されて鬱陵島の開拓が可能になってから入植した人々には全羅道の者が多かった。「石」は標準語では「トル」「ドル」だが全羅道方言では「トク」「ドク」と発音する。だから、彼らは鬱陵島から独島に渡ってその姿を見て、「石の島」すなわち「ドクソム」(ソム=しま)あるいは「ドク島」と呼ぶようになった。勅令は、そういう現地読みをくみ取って漢字で「石島」と表現した、という次第です。念のために言いますが、韓国側からは、勅令はそういうことを検討して「石島」を規定したのだという文献も示されてはいません。
しかし、これに対しては、既に「石島と独島の音韻関係を論ずる前に、独島の呼称はいつから始まるのか、実証せねばならない」、「それも勅令第41号が発布される1900年以前でなければ、意味がない。だが文献上に独島の名が登場するのは1904年、日本人に雇われた欝陵島の韓人がリャンコ島で海驢猟に従事してから」という指摘がなされている。
つまり、既に「ドクト」と呼ばれていたから1900年にそれを漢字で「石島」と表現した、という証拠は何も存在していないってことになります。
私は、これまで、「石島=独島」説は大いにあやしいとか崩壊しているとか書いたことがあるのだが、良く考えて見たら、「石島=独島」説は崩壊する前にそもそも成立さえもしていないわけだった。
で、今日の本題
崔南善は、独島はその形が「甕」(かめ/韓国語でトクあるいはドク)に似ているからドクソムと呼ぶようになった、と言っています。
鬱陵島の周辺に大小十余の付属島嶼があるが、北の孔岩、東北の観音島(鼠項島)、東の竹嶼(日本人のいう竹島ではない)が近くにある主要なもので、東南遥かに離れた海上に二つの主島と多くの小島嶼が広く散らばるところがあるが、これは我々の古代に可支島と言い、近世、付近の居民の間では、島の形がトク(甕・かめ)のようだとして、普通、「ドクソム」と呼ばれたところだ(鬱陵本島のごく近くにも別のドクソムがある)。
『鬱陵島と独島−韓日交渉史の一側面』(1953年 崔南善) の「独島=ドクソムの概観」の項
韓国政府が竹島/独島の歴史について教えを乞いに行った著名な学者は、「独島」という名前は「甕」に由来する、と言っていたわけです。すなわち、彼は「石島=独島」説なんぞは露ほども考えていませんでした。
どうですか、韓国政府の「石島=独島」説(勅令41号独島領土確認説)って、ホントにただ口で言っているだけ、なんですね。
で、今日の本題の本題
甕に見えませんか?
でも、竹島は島だから周囲のどこから見るかによって見え方はさまざまだから、別にこの角度だけで印象を決めてしまうこともできんだろう、と思いますか?
上の写真では船の航跡が見えますね。おそらく独島遊覧とやらを終えて鬱陵島に帰ろうとしている船から撮影したものでしょう。ということは、100年前もだいたいこういう方角からこの島に接近し、この方角に帰って行ったはずです。
小さかった塊がだんだん船が接近するにつれて大きくなり、この写真のように見えるようになってくる。100年前だから高速艇も無かったろう。かなり長い時間をこういう風景を見ながら進んだはずだ。「甕を倒したような形」という第一印象はけっこう強かったのではなかろうか。
100年前に竹島/独島に行き来した韓国人たちは、島全体を見る時間のうちの大部分はこういう姿を見ていたと推測してもそれほど間違いではないだろう。しかも、崔南善は、「付近の居民の間では・・・・・・・呼ばれたところだ」というふうに書いていて、情報の出どころは実際を知っている者であることが分かる。だから、崔南善の説明は説得力があるのです。やっぱり韓国政府のいう「石島=独島」説(勅令41号独島領土確認説)ってウソっぱちなのです。
で、最後に日韓友好百人一首
音に聞く 石と独との つながりは 捨てじやすがる 藁もこそあれ
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「「ドクトヌンウリタン」の謎」書庫の記事一覧
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2014/2/1(土) 午後 4:25
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2012/5/19(土) 午後 5:20
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2012/5/18(金) 午後 6:13
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2012/5/17(木) 午前 8:23
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2012/5/16(水) 午後 9:59
1900年10月25日の大韓帝国勅令第四十一号は、その請議書が見つけ出された時点で賞味期限切れですね。ところが「ラスク書簡」同様、韓国は未だに存在を認めていません。都合の悪いところは無視して、あるいは隠蔽して大騒ぎ困った方々です。
日本としては「韓国に竹島の領有を主張する権利はない。」と明記すべきです。もちろんその裏付けと共にね。
2012/5/5(土) 午後 3:31 [ Makoto ]
良い勉強に成りました。
有難う御座います。
ポチです。
2012/5/5(土) 午後 8:44
"大韓帝国勅令第四十一号は、その請議書が見つけ出された"というのは、『実事求是 第34回 事実無根。韓国の「独島の日」について』のことでしょうか?
2012/5/6(日) 午前 7:37 [ pur*cy*ka20*7 ]
実事求是第34回でふれられていますね。全文はここにあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/51733382.html
2012/5/6(日) 午前 9:35 [ Chaamiey ]
「日本人学校が竹島で偏向教育」韓国系米国人の訴え棄却 米ニュージャージー州
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120506/amr12050600080000-n1.htm
2012/5/8(火) 午前 4:26 [ Makoto ]
独島=甕島説については四年前にヤフーの掲示板で紹介しています。
「鬱陵島から見た竹島=独島が甕を横にした上半分の形に似ていることからdok島と呼ばれるようになり、音を取って独島と書いたとする説です。」
Re: Re:Re: 石島=独島説の秘密1 2008/ 2/ 7 0:59 [ No.16291 / 16495 ]
http://toden231.blog17.fc2.com/blog-entry-62.html
崔南善の原文では「島の形がトク(甕・かめ)のようだとして」とあるのが「甕を横にした上半分の形に似ていることから」に変わっているのは、川上健三の「竹島の歴史地理学的研究」に紹介されていた崔南善の文章を私はうろ覚えできちんと引用できなかったので、しょうがないので変わりに私なりに解釈した独島=甕島説のイメージを表現したからです。
鬱陵島から見た竹島が甕に見えるということは、鬱陵島から竹島に往復する時ずっと竹島は甕の形に見えるということであり、竹島をみた韓国人が、竹島は甕の形の島とイメージしたとしても不自然ではありません。
2012/5/8(火) 午前 7:45 [ yabutarou01 ]
そして、竹島に着いてしまえば全体を見ることはできなくなるわけですからね。竹島のイメージが鬱陵島往復の途中の印象で決まったと見るのは「方言説」よりもよほどましだと思います。
しかし、Am_I_AHO_1stさんとかhusenoyajiさんなどは今はどうしておられるんでしょうね。
2012/5/9(水) 午後 10:38 [ Chaamiey ]
忠清南道には実際に島の形が甕を横にした上半分の形をした甕島が存在します。
10・11番目の画像
http://blog.daum.net/choogal/15846440
8番目の画像
옹도(甕島)는 섬의 모양이 마치 독(옹기)과 같이 생겼다 하여 붙여진 이름인데,
옹도(甕島)は島の模様がまるでdok(陶器)と同じく生じたと言って付けられた名前なのに,
http://cafe.naver.com/eamazon/626
オングドは島の模様がかめみたいで付けられた名前だ.
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=200703080939551&code=900306
2012/5/11(金) 午前 1:15 [ yabutarou01 ]
また大正8年に朝鮮総督府が出版した「朝鮮地誌資料」にはこの島と同一の島かどうか分かりませんが、‘瓮島[獨島]’と表記している島があるのがわかります。(瓮は甕の異体字)
「朝鮮地誌資料」263コマ中181コマ
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960817
これはすなわち島の形が甕に似ていることからドクソムと呼ばれ(あるいは甕島と表記され)た島が独島と表記された事例が朝鮮半島には実際に存在していたということを意味しています。
2012/5/11(金) 午前 1:16 [ yabutarou01 ]
石島=独島説についての最古の記録は1947年の「独島」学術調査に参加した国語学者の方鍾鉉の書いた「独島の一日」というエッセイです。
私がこのことを知ったのは半月城氏のサイトに紹介されていたからです。ここには確かに方鍾鉉が石島=独島説を唱えていたことが書かれています。
‘この島(獨島)の名前は「石島」の意から来たのではないかと考えられる。これは"Dok seom"あるいは"Dol seom"の二とおりに呼べるが、ここで問題は、この獨島の外形が全部石(岩)でできているようにみえるということと、また「石」をどこの方言で"Dok"とするのかを解決すれば、この石島という名称がほとんど近い解釈になろうというものである。’
www.han.org/a/half-moon/hm095.html
この「独島の一日」の全文の日本語訳が以前ネット上に存在していました。確かカプリさんの竹島メモであったと記憶していますがなぜか今は見れません。
「独島の一日」の全文の日本語訳には半月城氏が引用した文章のすぐ前の部分に驚くべき文章が書かれていました。大体このような文章であったように記憶しています
2012/5/11(金) 午前 1:17 [ yabutarou01 ]
‘独島の名前の由来は何かと考えれば、まず思い浮かぶのは島の形が甕(Dok)に似ているので"Dok seom"と呼ばれそれが独島と書かれるようになったということであろう。
しかし独島は甕の形をしていないので、この説は誤りであろう。’
今年の1月に創論社から出版された金学俊著・保坂祐二監修の『独島研究』の187・188ページには方鍾鉉が1947年に発表された「独島訪問記」で石島=独島説を唱えた一方で、
‘また、独島が「水甕(ムルトク)」のように中が空いている形状なので、「トク(甕)」という言葉がついた可能性も提示した。’
と書いてあるのを見れば、私の記憶はそれほど外れていないはずです。
すなわち方鍾鉉は石島=独島説と同時に甕島=独島説も唱えたのであり、国語学者としての知識によって最初に思い浮かんだのは甕島=独島説の方であり、独島は甕の形をしていないと考えたので代替案として石島=独島説を唱えたが、実際には竹島=独島は甕の形をしている。
しかも方鍾鉉は竹島=独島が甕の形であることを知らずに甕島説を唱えて、石の島であることを知った上で石島説を唱えた、ということです。
2012/5/11(金) 午前 1:19 [ yabutarou01 ]
大韓帝国勅令第四十一号の請議書については、既に詳しく議論済みだったのですね。
鬱陵島の範囲と鬱島郡の範囲は事実上同一で良いと思います。独島が鬱陵島の範囲から大きくはみ出していることについて韓国の学者が何ら関心を示してこなかったのは、地図上に現れた于山島が独島と同一であること疑いを持っていなかったからなのでしょう。鬱陵島の範囲は200里とか400里、それと別に独島があると説明すればそこだけ見れば特に矛盾はありません。(鬱陵島の範囲内には大于島とか小于島などが含まれていて、それらを含めての鬱陵島であることは明らかですから、彼らの独島についての見解がかなり奇妙であることは少し調べればすぐに分る程度のものです。)
于山島≠独島がほぼ証明された状況の下では、鬱陵島(鬱島郡)の範囲が勅令第四十一号の前後で変化がないということは、石島が独島であるという主張も殆ど成立しないということです。
韓国による領有権の主張が証明できない以上、1905年より前に竹島の帰属について日本がどう考えていたかに関係なく、1905年以降の日本の竹島に対する正当な権原が確認されるというだけのことになります。
2012/5/12(土) 午後 0:27 [ pur*cy*ka20*7 ]
水声社から今年三月に出版された『テクストの解釈学』の一番最後の部分に池内敏氏の「竹島」/独島と石島の比定問題問題・再論」と題された論文が載っています。
これは「竹島/独島と石島の比定問題・ノート」
(pdf)
http://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/4-2_%E6%B1%A0%E5%86%85.pdf
に対して反論を提議した金秀姫氏に対する再反論として書かれたものです。
「再論」では金秀姫氏が新資料として『民国日報』1962年3月19日の記事を持ち出しています。以下の記事です。
巨文島西島里に住む今年八十三歳の金允三老人は(・・・・・・)二十歳(一八九五年)であった夏に千石積みほどの貿易船五〜六隻で元山を経て鬱陵島に到り、その鬱蒼とした木々を伐り、筏をつくった。晴れた日には東側の海のなかにぼんやりと島が見えた。年をとった船乗りにあれは何かと尋ねた。「あの島はトルソム(石島=独島の別称)で、わが三島(巨文島)に住む金致善(今から一四〇年前)爺さんの時から、いつもその島で多くのアシカを捕まえて行くと教えてくれた。
2012/5/13(日) 午前 5:01 [ yabutarou01 ]
__いま、その金致善氏の曾孫金哲修氏(五十七歳)が長村部落に健在である__一行数十人は元山などの地で明太などを積んだ船を鬱陵島に置き、筏を二日漕いで約二百里になる「トルソム」に到着した。島がことごとく岩でできていて、人は誰ひとりとしていなかったという。
トルソムは大きな島二つとたくさんの小さな島からなっていて、大きい島のあいだに筏を置いておいて十日あまり留まりながら、アシカ(海狗=オットセイ)も捕ったし、ワカメやアワビなども採った。
そして鬱陵島に再び戻り、釜山や対馬へ行って日本人に売ったがアシカをたいへん好んだという。アシカの肉を食べ、皮を履き物などにして履いたともいう。
以上が引用文ですが、あからさまにおかしい部分があります。それは全羅道では岩を方言で「トク」と呼んでいたはずなのに全羅南道巨文島の船乗りがなぜ独島を「トルソム」と呼んでいるのかという点です。
半月城=朴 炳渉氏の論文にはこのようにあります。
2012/5/13(日) 午前 5:02 [ yabutarou01 ]
勅令41号に記載された石島であるが、この呼称名は1900年に欝陵島で多数を占めた江原道や慶尚道の呼称名である돌섬[Dol seom]であった可能性もある。しかし、地名は先住者の命名を継承する場合が一般的なので、欝陵島でもまず先住者の事情を考慮すべきである。近代に入って海禁政策を犯して欝陵島に居住した島民140名は、李奎遠『欝陵島検察日記』などによれば、全羅道出身者が最も多く115名を占めた。その中には前述の全羅道の石島近くにある三島(巨文島)から3グループ49人が、初島から2グループ33人、合計82人が含まれていた。出身地近くの石島を독섬[Dok seom]と呼ぶ彼らは、欝陵島でも遅くとも1899年には漁業などをとおして広く知られた石や岩だらけの竹島=独島を독섬[Dok seom]と呼び、それが「石島」と筆記されたようである。それが勅令41号に石島として記述されたと考えられる。やがて독섬[Dok seom]は筆記名が石島から独島に変化したとみられる。
2012/5/13(日) 午前 5:04 [ yabutarou01 ]
韓末期の竹島=独島漁業と石島(pdf)
http://www.kr-jp.net/ronbun/park/parkBS-1107j.pdf
1895年に全羅南道巨文島の船乗りが「トルソム」と呼んでいたのなら1900年の勅令41号に「石島」と記載されるのは不自然ではありませんが、その後「独島」と書かれ、독섬[Dok seom]と呼ばれるようになった理由を全く説明できません。
2012/5/13(日) 午前 5:05 [ yabutarou01 ]
はあー、「トルソム」ですか。確かに、それじゃあ「ドクト」にはなれないですね。『民国日報』を探し出せないのは残念ですが。
2012/5/13(日) 午後 7:48 [ Chaamiey ]
こちらの動画に『民国日報』の記事があります。
독도강치의 증언, 1905년 일제의 독도 침탈 비사(秘史) (3/4)
http://www.youtube.com/watch?v=QU5EFILK9Js
7分37秒の竹嶼は北側に峰があるように見え、12分36秒の竹嶼は国会図書館所蔵の大東輿地図の于山島にそっくりです。
11分23秒から半月城大先生が日本語で語っていらっしゃいます。
2012/5/14(月) 午後 9:32 [ yabutarou01 ]
韓国政府は1953年に日本政府に対する口上書のなかで慶尚道方言で「トク」は石という意味で独島とは石島という意味であると主張していましたが、恐らく1990年以降、韓国の学者は石を「トク」と呼ぶのは全羅道方言であると主張を変えました。
これは石を「トク」と呼ぶ地域についての研究が進んだからであると考えて間違いありません。半月城氏の主張は研究が進んだ後の認識を反映しているといえます。
『民国日報』の記事の書かれた1962年当時の研究水準では石を「トク」と呼ぶ地域として全羅道は想定されなかったのだと考えられます。
そのため全羅南道巨文島の船乗りが鬱陵島に行った話を1962年当時の韓国の主張に合わせて鬱陵島だけでなく竹島/独島にも行った話に潤色しようとして、巨文島では石を「トク」と呼ぶにもかかわらず、巨文島の船乗りが石島の意味で「トルソム」と呼ぶという、おかしな話になってしまったと考えられます。
2012/5/14(月) 午後 9:37 [ yabutarou01 ]