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中川八洋『山本五十六の大罪』より

山本五十六が、連合艦隊司令長官として、自ら立案し実行し全責任を負う作戦は、三つある。パール・ハーバー奇襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島攻略戦、である。この三海戦の、山本五十六の成績は、それぞれ「戦果ゼロ」「大敗北」「大敗北」である。

しかも、ミッドウェー作戦の「大敗北」には、軍法会議で裁かれるべき山本五十六の海軍刑法上の「犯罪」が複数存在し、死刑に相当する。少なくとも、将官の階級剥奪と軍籍剥奪と勲章剥奪の、三つの加罰は最低限なされておくべき、それほどの「重犯罪」だった。山本五十六とは、海軍大将もしくは連合艦隊司令長官としては、「愚将」のタイプではなく、インパール作戦の牟田口廉也・陸軍中将やヒットラーと同種の、医学的な意味での“無法の狂将”であった。山本五十六がミッドウェー海戦で、戦場から540km後方に「敵前逃亡」したのは、インパール作戦の全面敗北に腰が抜けて率先して「敵前逃亡」した牟田口廉也・陸軍中将の事件とそっくりである。牟田口も、山本と同一の人格で、戦場に自分の女を連れ込む、女好きだった。

日本海軍は、ミッドウェー海戦の「大敗北」を不問に附し、山本五十六の「犯罪」を放置した。このとき日本は、国家としての堕落と腐敗が、極に達したのである。自国の法律に対する違反と無視が大手をふるって常態化した自体、国家の終末情況である。大東亜戦争を遂行する日本とは、倫理と法を喪失した、自国に対して“ならず者国家”であった。反倫理と無法に堕した大東亜戦争に、“戦争の大義”などあろうはずもない。

8年間の大東亜戦争の中でも特に問題なのは、その最後の3年8ヶ月を占める、太平洋戦争(対英米戦争)の方である。もし山本五十六が、対英米戦争を始める前から、無自覚と自覚の狭間で、次のような、「反日」の目的を秘め「マイナス戦果」を願い、先述した三つの“自滅の海軍作戦”を実行していたとすれば、山本五十六はどう評価されるべきか。

@「パール・ハーバー奇襲」は、“眠れる獅子”の米国を起こし怒らせ、日本への開戦を決意させること。戦果はゼロで構わない。

A「ミッドウェー海戦」は、日本が、空母4隻どころか、その軍艦をできるだけ多く喪失して、米国に太平洋の海上覇権を渡し、日本列島への猛攻撃を開始させること。

B「ガダルカナル島攻略戦」は、日本の陸・海両軍の兵力・軍艦を、無駄に大損耗させること。

以下は、この三つの仮説を検証するための、叩き台である。

山本五十六の独断専行による、パール・ハーバー奇襲の戦果は、限りなくゼロだった。なぜなら、主目標である米空母の撃沈はゼロ、従目標の戦艦の撃沈は最終的にはたったの2隻だった。航空機破壊はたったの188機で、18800機でもないし、1880機ですらなかった。米国が第二次世界大戦中に生産した新規生産の航空機数の1%にも満たなかった。こんな“貧困な戦果”をもって、「奇襲大成功」とみなすのは、笑止である。欺瞞である。

しかもパール・ハーバーでの、沈没戦艦や大破した戦艦の多くは、次の通り、サルベージされ、修理され、兵装を近代化され、より戦力を高めて現役に復帰した。山本五十六こそは、米海軍の巨大化に貢献した。これが、パール・ハーバー奇襲の、客観的な結末であろう。

ところが、日本の新聞は、逆さに報道した。戦果が理解できないとは、日本人がいかにお粗末かを示す証左であろう。戦果を正しく客観的に把握できなければ、戦争などできない。こんな誇大な新聞報道、すなわち大本営海軍部の嘘広報において、日本の大敗北と国家滅亡は、定まっていた。

ハワイ奇襲は、どうでもよい戦艦が2隻という、“寂しい戦果”になぜなったのか。この理由は、パール・ハーバー軍港の水深がせいぜい14メートルと浅く、撃沈しても撃沈にならないからである。どんなに爆弾投下や魚雷投下の命中精度が優れていようとも、こんなところでの爆撃は、軍事的にはナンセンスであった。

パール・ハーバーの水深は、山本五十六はむろん、軍令部の誰しも知っていた。だから、浅海の投下訓練が綿密かつ充分になされた。浅海用に魚雷改良もなされた。ところが、日本海軍は、沈没戦艦がサルベージされるのを想定しなかった。帝国海軍の幹部は、“軍人失格の欠陥者”ばかりだった。日本海軍では、無能な欠陥人間しか提督になれなかった。

それはともかく、このように軍事的には無意味な奇襲を、なぜ山本五十六は、やったのか。米国に対する心理的効果が抜群と妄想したのかもしれない。だが、結果は、米国は「リメンバー・ザ・パール・ハーバー」と、その後の猛反撃となった。心理的には逆効果になった。

しかも、一般米国民の不撓の精神と単細胞的に必ず反撃する習癖は、米国人と数日過ごせば誰にでもわかる。アメリカ人は一発殴られれば、勝敗にかかわらず、必ず一発は殴り返してくる。また、どんな最悪事態に陥っても、日本人のように抑うつ状態にならない。

山本五十六という、極端な“反米屋”は、2年有余も、駐米武官をしながら、「反米」というスリガラスを通してしか米国を観なかったために、米国をいっさい知らなかったのだろうか。それとも、米国滞在の体験を通じて、米国を正しく知ったから、米国を怒らせ、日本に対する全面戦争をさせるべく、ハワイ奇襲という“蚊が刺すようなチョッカイ”を出したのだろうか。恐らく、後者であろう。

ところで、旧海軍関係者は、戦後すぐ、「実は、パール・ハーバー奇襲の戦果はゼロに近いものでした」と、国民に詫びるべきだった。だが、彼らは、数多くの海戦小説や回想記を出版するばかりで、パール・ハーバー奇襲の大愚性と祖国への叛逆性を反省しようとはしなかった。むしろ逆に、1941年12月8日に、海軍自身のプロパガンダでつくられた「海軍神話」に便乗し、「虚構の海軍」を定着させることに熱心だった。事実に反する「嘘イメージの海軍」を増幅する、旧海軍関係者の性癖は、戦後50年有余を経ると、長岡市に「山本五十六記念館」をつくる、倒錯の狂気にまで発展した。

そもそも「パール・ハーバー奇襲成功」というならば、それは次の二つのうち、いずれかが達成されていなくてはならない。

A,米国太平洋艦隊の空母3隻のうち、最低2隻の撃沈。1隻についてはサンディエゴに回航されていたので、会敵も撃沈も困難で、これは免責される。

B,ハワイ諸島の占領。

Aはハワイ奇襲の最低限の目的だから、「空母2隻の撃沈」がない以上、目的達成度はゼロ点の不合格である。「空母撃沈ゼロ、奇襲は不成功、無事帰還」と報道するのが、軍事的に正しい。

この空母2隻撃沈のあとしばらくは、奇襲部隊はそのままハワイの海域をシー・コントロールしつつ、日本からの陸軍10ヶ師団以上の急派を待って、Bという、陸・海軍合同のハワイ上陸・占領を敢行するのが、戦争の常道であろう。このBなしには、あとのCとDはありうべくもなく、対終戦講和交渉も対米戦争続行も、いずれの選択肢も、日本にはない。少なくとも、「Bは不可能で実行しないが、Aだけでも、これこれの価値があるから、これこれの戦争終結の方法があるから、やることにしよう」という検討は、最低限なされていなくてはならない。だが、そのような、軍事的常識の範囲の検討は、全くなされなかった。

C,軍港サンディエゴの破壊。

D,パナマ運河の閉塞。

「山本海軍」の異常さは、“海兵隊がない”事実一つでも明白である。支那で商売する日本人居留民保護を目的とした、ミニ陸戦隊はあったが、敵の大規模攻撃下で強行する上陸作戦用、10ヶ師団規模の海兵隊を有さないとは、太平洋戦争をする最小限の軍備がないに等しい。「山本海軍」は、現代戦を全く知らない“日露戦争の化石”であった。

海兵隊なき「畸形の海軍」だったことが、無目的な“前方進攻作戦”に突き進むことになった。島嶼上陸・占領など、帝国海軍は一度も考えたこともなく、ノウハウもなく、演習したこともない。ズブの素人。それなのに、ガダルカナル島攻略などを敢行するから、惨劇と大敗北となった。

山本五十六も海軍軍令部も、そのハワイ攻撃を決定するに当たって、陸軍とのすり合わせは、決してしなかった。海軍軍令部は、ハワイ作戦の“戦争としての研究”をしていなかった。それは、山本五十六と黒島亀人、これに大西瀧治郎と源田実が加わった、「素人4人組」の赤提灯談義から生まれた、素人作戦だった。このため、ハワイ奇襲の目的すらはっきりしなかった。6隻の空母を率いた、指揮官の南雲忠一・海軍中将は、何しにハワイに行ったのか、定かに理解していなかった。

「第2撃」である、石油タンク群と高い修理能力をもつ巨大な海軍工廠とを攻撃・破壊してこなかったのは「愚の極みだ!」などの議論があとで起こったこと事態、ハワイ攻撃が無計画奇襲だった証左の一つだろう。しかも「第2撃」の問題より、「ハワイを占領し、この石油を接収して帝国海軍に供する」との策が、まったく検討されていなかった方が問題であった。

「オレ様は、瀬戸内海の天皇」とばかり、独裁者然と瀬戸内海でカードや将棋の博打に興じ、愛人との逢瀬やラブレターに現を抜かし、堕落と優雅な日々を送る山本五十六は、もともと軍人として正常の域にない。しかも山本の、無計画的で衝動的な戦争のやり方は、ヒットラーの対英戦や対ソ戦を彷彿とさせる。山本五十六とヒットラーは、同種の思考、同種の人格で、共通性が強い。山本五十六には医学的な考察が不可欠と考えられる。

山本五十六の特徴は、何といっても顕著な言行不一致である。例えば、空母1隻の撃沈すらしなかったハワイ奇襲は、山本五十六の“空母至上主義”の自論に反した矛盾行為である。“空母至上主義”の旗を振り回しておきながら、山本は、戦艦ばかりを攻撃させ、空母1隻の戦果もない、手ぶら帰還を許した。山本の“空母至上主義”は、戦争・戦場の現実を想定できない小学生の「空母大好きマニア」レベルの、空疎な机上の評論であった。

米国民に心理的ショックを与え、反撃の方向ではなく、屈服の方向で、日本との外交交渉のテーブルに引きずり出すには、Bのハワイ占領後に海軍のなすべき作戦として、最小限、上記のCとDの二つが計画され、少なくとも毅然とした実行の姿勢だけは存在しなくてはならない。だが現実には、Bのハワイ占領以上に、このC/Dは、勝機どころか、実行すら簡単ではない。山本五十六が「Bは、しない」「Cは、しない」「Dは、しない」と決めていたならば、Aのパール・ハーバー奇襲など、初めからすべきでない。議論以前であろう。

山本は、「攻撃的な対米戦争計画」を真面目に検討しなかった。代わりに、「防勢的な対米戦争計画」を考えたかといえば、その逆で一顧だにせず排斥した。ハワイ奇襲とミッドウェー海戦とガダルカナル島攻略という、「攻勢作戦の中の攻勢作戦」を、“無知の蛮勇”で敢行して、「防勢的な対米戦争計画」の方はまったく放棄していた。山本の頭は、やたらにハチャメチャだった。「防勢的な戦争計画」を排除しておきながら、「攻撃的な戦争計画」そのものを練り上げる知見も見識も欠如していた。山本には、職業意識がまるでない。“戦争計画の不在”、山本には、これしかなかった。

戦争計画なくして、「世界最強の国家」米国に宣戦布告し、ハワイ奇襲を敢行してしまったのが帝国海軍であった。無計画と衝動、それが「山本海軍」だった。“ならず者の博打”と同類の思考しかできず、「国家の軍人」としての素養や責任感はひとかけらもなかった。「山師」山本五十六の脳内と人格は、徹底的に解剖されねばならない。

なお、防勢的な対米戦争計画であれば、「ハワイ奇襲もしない」「ミッドウェー海戦もしない」「ガダルカナル島攻略もしない」「ポートモレスビー占領もしない」「ブラウン環礁やクェゼリン環礁も攻略しない」。これこそが、「大提督」東郷平八郎以来の、日本海軍の正しい伝統的な海軍戦略、正統戦略であった。もし日本海軍が、1941年12月、この伝統に従って対米開戦をしていれば、勝利はないが、米国と5年以上に亘って互角に戦争を続けて不敗ではありえただろう。防勢的な戦争計画とは図1のようにまとめられる。

この図1を見れば誰しも気づくように、日本の劣勢と敗北が明らかとなった1943年9月末に定めた「絶対国防圏」と、「防勢的な対米戦争計画」とは、ほぼ一致する。すなわち、1941年12月時点で定めておくべき、正統戦略に覚醒するに、海軍は、負け戦をし続けること2年10ヶ月が必要だった。だが、この覚醒と路線転換は、時すでに遅く、自滅の敗北が定まった後だった。

日本の海軍力がぼろぼろ寸前となり、米国側の戦力は逆に、とてつもない規模に強化されてしまった後で、路線を正常化したところで何になろう。やるべきは、無意味な路線変更ではなく、米国への白旗をあげる、本当の愛国的な決断だけだった。しかも、1943年9月こそ、軍事合理的に“降伏の好機”だった。ヒットラー・ドイツも、スターリングラードの大敗北を機に、敗戦の道に転がり落ちていた。ドイツより早く白旗をあげるのは、外交的に日本が急ぐべき選択だった。イタリアにはこの9月、バドリオ政権が樹立し、ムッソリーニは北イタリアに逃亡した。日本が三国同盟を壊して、率先して英米に白旗をあげる好機は、この時だった。

栗林忠道は、最長わずか6キロメートル強の小さな孤島の硫黄島で、“後退戦法の地下坑道”を張り巡らしたが故に、超劣勢ながら、彼我の戦死・戦傷者数を同数にもっていき、「敗北したとはいえ、互角の戦い」として、世界の陸戦史に名を残した。なお、戦死と戦傷は、軍事的には、いずれも戦力の喪失だから、同数に扱う。

この栗林と対照的に、山本五十六ほか帝国海軍の将官は、一人の例外なく「後退邀撃」がわからなかった。素人以下の「愚将」や「狂将」ばかりだった。世界の戦史に、恥ずべき記録を残したトンデモ海軍、それが帝国海軍だった。

以下簡単に、太平洋戦争における、帝国海軍の「前方進攻」が、いかに愚昧で自己破滅的であったか、垣間見ておこう。

山崎保代・陸軍大佐が守備するアッツ島は、山本五十六発案のミッドウェー島攻略の一環で、1942年6月以来、占領していたが、1943年5月、米海軍等の猛攻の前に、戦死者2638名/生還者27名にて玉砕した。ミッドウェー攻略失敗と同時に撤退すべきであったに、ミッドウェーの大敗を隠蔽し、山本五十六の責任を糊塗すべく放置されていた。

山本五十六が、反米一辺倒の反米主義者であることは、無目的のパール・ハーバー奇襲を考案した事実、それを実行した事実、において余りに明らかすぎる。山本五十六が「親米」とか「知米」とかは、悪意ある歪曲で虚構である。

すでに幾人かの専門家が指摘している、五十六の反米エピソードはなんと言っても、斎藤博・駐米大使の娘と結婚した春山和典が書いた、岳父の思い出に収録された、斎藤博大使と山本五十六の対話であろう。ロンドン第二次会議の予備交渉に出発する直前の山本五十六は、岩永裕吉邸にて、斎藤博大使に、次のように語った。

「俺も軍人だからね。<どうしてもアメリカとやれ>といわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。・・・・・・俺の夢なんだがね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで<真珠湾>と<マニラ>を空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊をつぶすことは確実にできるんだよ」

「少なくとも1年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機は存在しないってわけさ。それだけの<戦争>はやって見せる」

この山本五十六の発言は、ミクロ的・マクロ的に常識を逸脱しており、軍人の発想ではないのはむろん、素人でもしない妄想の域にある。まずミクロ的な個別問題の一つは、ハワイの太平洋艦隊の空母3隻を撃沈したとして、太平洋艦隊の海軍力が「存在しない」事態がどうして生じるのか。なぜなら、パナマ運河を通って大西洋艦隊の一部がすぐ回航されてくる。

もし、太平洋の制海権を獲りたければ、ハワイを占領したあと、ハワイ以東の東太平洋に、一定規模の日本の空母機動部隊を遊弋させて、新たに回航される米海軍の軍艦を次々に撃沈しなくてはならない。

上記の山本発言をマクロ的に観察すると、山本五十六のトンデモ間違いがより鮮明となり、絶句するほかない。なぜなら、仮に「1年間の太平洋完全制覇」ができたあと、その後はどうするというのか。@米国が、1年間、太平洋の海上覇権を失ったからといって、米国は何も困らない。米国本土全体が、日本の攻撃から無傷の安全地帯だから、その経済活動にすらなんらの影響もない。むしろ、この1年間、遊休の産業施設がフル操業されるから、失業は解決し経済の大発展が生じる。実際に、パール・ハーバー奇襲のあと、米国経済のGNP/GDPの伸びは、天文学的なスピードでの急傾斜の右肩上がりだった。

そして、A山本の言う「1年後」に、米国は、再建した「新・太平洋艦隊」を、日本が北太平洋とパナマ運河を制覇している場合ですら、マゼラン海峡を通って南太平洋から展開できる。このとき、帝国海軍は何をするつもりだったのか。米国海軍と何度も何度も海戦をするほかないのである。この無限の回数の海戦で、山本には、日本が必ず勝利する目算があったのか。日本が仮に勝ち続けたとしても、石油が無くなり、日本の軍艦は必ず動かなくなる。これをどうしようと考えたのか。

山本とは、a「戦争の推移」もb「戦争の終結方法」もc「戦争後構想」も、何一つ考えていなかった。山本五十六が、戦争を博打と錯覚していたのは、喩えではなく、事実であった。

いかなる戦争も、数年か十数年先には、必ず終わりを迎える。戦争の最終章は、太平洋戦争の終わりがポツダム宣言の受諾であったように、必ず非軍事的な外交に戻る。軍隊に出番はないし、退場するときである。だから開戦を外務省主導にしておかない限り、終戦がうまくできず、勝利する場合でも勝機を失う。山本五十六とは、米国への憎悪において、米国を一度ポカリと殴ってみたかったのである。この個人的感情を、国家の亡びなど意に介せず、国家に代行させたのである。

山本五十六にかかわる、創られた虚偽話の数々は、「山本神話」と呼ばれる。それは「山本は親米だった」「山本は知米だった」だけではない。悪質な「山本は対英米協調派」「英米との海軍軍縮を支持していた」「山本は条約派」「山本は最後まで米国との妥協を求め和平を欲していた」とかの“神話=嘘”も、その一つである。

だが、「山本神話」の中でも本当に危険な神話は、語られない方にある。山本が帝国海軍きっての「親ソ・反米の巨頭」加藤寛治を継ぐ「艦隊派」に属していた事実の隠蔽は、まさしくこの「危険な神話」の筆頭だろう。二枚舌、三枚舌の曲者だった山本五十六は、日本にいるときは「条約派」の演技に精を出す“隠れ艦隊派の悪”だったが、こんな明らかな事実が戦後マジックショーのごとく消された。山本五十六自身も、自分の実像を消す、煙幕の達人で忍者のようだった。

日本では「条約派」を演技する山本五十六が、実は「艦隊派」である正体を露わにしたのは、1930年のロンドン海軍軍縮条約交渉においてであった。野村実は、「財部・海軍大臣の指示により山本五十六は、全権の若槻礼次郎に意見開陳した。・・・・・・斎藤博はその状況を、『日本全権団員の息の根を止めるような猛烈果敢さがあった』と述べる」と歯に衣を着せているが、山本五十六は、「第二の加藤寛治」となって、元総理の若槻礼次郎全権の胸倉をつかんで、暴行寸前で、艦隊派の強硬路線の受け入れを迫ったのである。

山本五十六が、ただひたすら、米国と戦争することだけを念じていたことは、ハワイへの奇襲部隊の出撃の時期も、その証拠である。もし、僅かでも対米戦争を避けようと思うならば、ハル・ノートを受け取り、それを読んだ上で、政府の再検討を経た上で、ハワイへの南雲・機動部隊を出撃させていたはずである。だが、山本五十六は、ハル・ノートがワシントンで日本側に手渡される前に、奇襲部隊の出撃を敢行して、ハル・ノートが、過激案の方であろうと、穏健案の方であろうと、対米戦争の決意が政府部内で揺るがないよう、既成事実を作るべく急ぎ出撃させた。

南雲忠一・海軍中将ひきいる空母6隻の機動部隊の出撃は、ハル・ノートが手渡されるワシントン時間の11月26日以降で充分だったし、数日をあわてる必要などなかったが、ワシントン時間の11月25日、野村/来栖両全権がハル・ノートを受領する「23時間前」に、択捉島の単冠湾から慌しく出撃させた。月明かりから、この日しかなかったというのは詭弁で、軍事合理性もない。山本五十六の対米戦争にかける執念は、なにか物の怪にとり憑かれたかのように、常軌を逸していた。

1920/30年代の、艦隊派・条約派の分別は、出世を争う「派閥」や「人脈」が実態であった。条約派は、山梨や堀などの少数を除き、1934年には「条約の破棄」に賛成しており、その仮面の下は“反条約派”であった。本当の親英米派の山梨勝之進/左近司政三/堀悌吉らは、背後で加藤寛治が操っていた「反米、親独」の大角岑生・海軍大臣によって、1933〜4年に追放された。「親英米」=「条約派」は、海軍の中ではもはや存在できない異分子になっていた。

山本五十六の対米観もまた、佐藤鐵太郎/加藤寛治の直系で「反米」の極みだった。が山本は、日頃は、歌舞伎俳優の如き名演技力を発揮して、それを隠すことに努力した。二枚舌に長けた人物でもあった。山本五十六が出世街道を登りつめたのは、永野修身や豊田副武らの枢軸派と合体していただけでなく、海軍内で、山本五十六を、条約派とか親英米派とかに誤認したものが誰もいなかったからである。

山本五十六は、先に述べた、1934年の斎藤博大使との懇談で、対米戦争を決意している反米派だから、「親米派=条約派」であろうはずもない。1940年3月頃には、さっそくパール・ハーバー奇襲を構想する、筋金入りの“反米屋”であった。

山本が、1940年9月の三国同盟締結に黙して賛成したのも、この三国同盟で、米国の海軍力の半分を大西洋に振り向けさせ、「対米3倍の絶対優位」の海軍力格差のもとで、米国と戦争する腹積りだったからである。山本としては、自分の対米戦争の決意をどう隠し続けて、いつのタイミングでそれを表に出すかの政治的計算において、1939年までは、海軍の組織外では「条約派」「親米派」と誤解されるよう、偽装の言葉を選び続けた。

1937年7月、支那からの英米追放を目的とした、反英米イデオロギー一色の日支戦争が始まったが、米内・海軍大臣を筆頭に、海軍全体は積極的にこの戦争の拡大を推し進めていく。つづく1937年12月、揚子江に浮かぶ米海軍の小さな砲艦パネー号に対する日本の第三艦隊の艦載機による爆撃は、「誤爆」を演技しての、海軍に昂揚する“英米戦争開始への勝鬨”であり、“宣戦布告ごっこ”だった。パネー号爆撃は、海軍省トップが、「親ソ・反米」の米内光政大臣と「反米・虚無主義」の山本五十六次官だったからおきた事件だった。実際にも、爆撃を命じたのは山本五十六であったろう。

帝国海軍が全体として対英米戦争の意思をしっかと固めて、海軍内の不動のコンセンサスとし、その準備を始めた本格的スタートは、第二次近衛内閣誕生の直後、1940年8月の出師準備発動であった。海軍にとって不可逆となった対米戦争を、「パール・ハーバー奇襲で開戦する」との開戦方法に関しては、山本五十六の及川・海軍大臣への書簡をもって、その合意形成がスタートした。

山本五十六は、1941年9月11日から20日にかけて海軍大学校で、ハワイ攻撃の図上演習を実施した。海軍全体としての「ハワイ作戦=開戦時の最初の攻撃地点」最終決定は、10月19日であった。この図上演習は、それへのデモンストレーションを兼ねていた。

もう一度、噛みしめてもらいたいことがある。海軍は、1940年9月に日独伊三国同盟に賛成したのは、それが対英米戦争にプラスだと歓迎したからである。海軍が、三国同盟に反対した形跡は、海軍大臣の吉田善吾が鬱病になった以外、なに一つない。そればかりか山本五十六は、三国同盟締結からたった3ヶ月で、及川大臣宛の書簡という形で、“三国同盟を前提にしたパール・ハーバー奇襲”を決心した。

「此のたびはたった三日でしかもいろいろ忙しかったので、ゆっくりも出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですがかんにんして下さい。・・・写真を送ってね。さようなら 十二月五日夜 五」

パール・ハーバー奇襲の発案者で最高指揮官の山本五十六が、まさに奇襲が始まろうとするほぼ2日前、戦艦「長門」から、東京で別れたばかりの愛人の河合千代子に書き送った手紙である。愛人をもっていたことを問題にしているのではない。自分の部下である、当時世界最大で世界初の空母機動部隊が、未曾有の任務を帯びて、択捉島から出撃、すでに9日以上も波濤を長駆し、一路オアフ島めざして南下している、まさにその最中に、このような手紙を書く山本五十六の人格を問題にしているのである。

1942年のミッドウェー作戦の時は、もっとひどく、その出撃の2週間前、山本五十六は、肋膜炎の河合千代子を、医者つきで呉に呼び出し、5月14日/15日/16日/17日の4晩も旅館に一緒に泊まっている。さらに、5月25日/26日/27日に、次の手紙を、東京に帰った千代子に書き送っている。

「また明日にでも書き足します御機嫌よふ」

「うつし絵に口付けしつつ幾たびか千代子と呼びてけふも暮しつ」

「お乳も腕も背中もお尻もいやになったというほど丸々と肥って下さい」

ミッドウェー作戦への呉からの出撃は、南雲忠一の「機動部隊」が5月27日、山本の「主隊」が5月29日であったから、この3番目の手紙は、南雲の機動部隊の出撃の直前に書いている。剣を抜く、まさにその時、指揮官が女に現を抜かすとは、戦場の勝利など期待する方がもはや無理。

さて、大海戦の最中のこれらの恋文は、@山本の対米戦争構想や、A山本のハワイ奇襲作戦立案趣旨とまったく無関係だろうか。@については、1934年から次のように述べるのが常だった。斎藤博・駐米大使に1934年、そう語っている。次の1940年9月のも、山本の“本心中の本心”であろう。

「それは是非やれと言われれば、はじめ半歳か一年の間は随分と暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てぬ」

対米戦争は、日本が敵の首都ワシントンの占領も米国の諸都市への爆撃もできないから、アメリカ国民の戦意喪失がおこるまで戦争は終わらず、この米国民の戦意喪失は、日本がアメリカと無期限戦争ができるか否かにかかっている。「2年3年の戦争」もできないなら、「日本は完全に敗北します」との答えになるはずである。それを「随分と暴れて見せる」では、その後の刑務所暮らしを前提にした、暴力団かやくざの殴りこみの言い草で、国家の命運を預かる軍人の語り口ではない。

ところで、Aの問題、対米戦争の開始が、なぜパール・ハーバー奇襲でなくてはならないかは、山本五十六が1941年早々、及川古志郎・海軍大臣へ送った手紙で明らかにされている。ハワイ奇襲をすれば、米国民が“へこむ”ので、対日反撃が怯んでできなくなると、山本はいう。「奇襲成功で、日本の勝機ばかりか、太平洋の西4分の1全域の制海権が定まる」かのごとく、考えている。

軍人的見識のひとかけらもない、ただ言葉で誤魔化したこんな稚拙な手紙を見て、及川・海軍大臣が山本の解任をしなかった事に、帝国海軍の驚くべき質的劣化と無責任の蔓延が現れている。

「開戦劈頭 敵主力艦隊を猛撃撃破して米国海軍および米国民をして救ふべからざる程度に その志気を阻喪せしむること是なり・・・不敗の地歩を確保し依りてもって東亜共栄圏も建設維持しうべし」

そればかりか、余りのバカバカしさに思わず失笑する、この一文には、寒気がする妄想も立ち込めている。が、無教養なのか、及川たち海軍首脳には、行間を読む基礎知力がない。ハワイの米艦隊を撃破したら、なぜ「米海軍や米国民の士気が阻喪する」のか、さっぱりわからない。首都ワシントンと大都市ニューヨークを爆撃で丸焼けにしたところで、米国民の士気が下がるはずもない。ハワイ全島が占領されたとしても、士気が下がる理由などない。いわんや、ハワイ全島の占領ではなく、軍港一つが奇襲されただけなら、反撃と復讐の士気が上がっても、どうして下がるのか。「米国の士気阻喪・・・」は、痴呆と化していた海軍トップを説得するために流した、山本五十六一流の、計画的な嘘ではなかったか。山本は、米国が、阻喪どころか、逆上して、猛然と日本に襲ってくることを、実は正確に予測し期待していたと思われる。

1941〜2年の弱い米海軍力ならば、その対日攻勢攻撃に、日本はたやすく邀撃撃破ができる。日本が海軍力の対米絶対優位であったからである。山本が及川に、「決戦部隊を挙げて之を邀撃し一挙に之を撃滅す」と書いているが、これは100パーセント可能だった。及川も熟知していた。不可能なのは、この邀撃・撃滅したはずの米海軍力に、日本は「帝都その他の大都市を焼尽するの策に出でざるを保し難く」、と書いている箇所である。この箇所は、論理的にも、「ハワイを攻撃して、まず米国を逆上させ、1年半を経たあと以降、日本の東京とその他の大都市を焼尽せしめる」と読めないだろうか。及川への山本の手紙の、この箇所は、私には、そうとしか読めない。

もし日本がハワイ攻撃をせずに、東南アジアやマリアナ諸島の島嶼の要塞化に重点を置けば、5年以上は米国海軍力を撥ねつけるし、西太平洋の海上覇権を米国は5年以上は手にすることができない。米国の士気の阻喪は、このとき初めておきる。山本五十六は、対米不敗のこの確実な方法に軍令部や海軍全体が選択できないよう、「“海戦主義”→日本の海軍力の漸減→日本の邀撃力の喪失→米国の対日無差別爆撃」が発生するよう、パール・ハーバー奇襲を考案・決行したと素直に考えた方が理にあっていないか。河合千代子は、次のように、回想している。

「私と二人きりになると、勝つ見込みはさらさらなしと言い切っていました」

“日本の敗北”、そして“日本の大都市の焼尽・廃墟”。これがハワイ奇襲に秘めた山本五十六の真意だったとすれば、「山本五十六の太平洋戦争」とは、“ニヒリズムの敗北主義”と“ポスト・モダン的な廃墟主義”の複合から産まれた、畸形と倒錯の戦争だったことによる。

目的不明のパール・ハーバー奇襲作戦も、大敗北となったミッドウェー作戦も、その立案を、軍令部はしていない。軍令部の指導の下にあるべき、連合艦隊司令長官の山本五十六と先任参謀の黒島亀人が、“下剋上のクーデター”で軍令部を簒奪し、両名が私的に策定したからである。“山本五十六と黒島亀人の下剋上”、それが「1941〜2年の日本海軍」だった。

1931年、満州で石原莞爾たちが、陸軍参謀本部を無視して、下剋上で敢行した満州事変の、その海軍版であった。パール・ハーバー奇襲とミッドウェー海戦は、「海軍の満州事変」であった。だが、満州事変は、日本に新たな資源と経済力をもたらし、またソ連軍を北満州から撤兵させ、国益に合致するものだったが、広大な太平洋を戦場とする対米戦争は、国富を蕩尽し、まっしぐらに亡国の道を転落する、国家叛逆の愚行であった。山本/黒島コンビの“海軍ハイジャック”は、「負の満州事変」となった。

ミッドウェー海戦とガダルカナル島争奪戦が惨憺たる結末となったのは、山本の妄想と黒島の妄想の複合産物だからである。山本五十六は、日頃の女遊びと博打がたたったのか、判断力は老化し知見は劣化というより涸渇し、このため計画は杜撰をきわめ、発想すべては現実に唾するものとなった。黒島亀人とは、海軍内部では精神分裂症として広く知られ、大作戦の立案の知識も才能も皆無の、人格低劣な欠陥軍人であった。

しかし、山本五十六は、「狂人」黒島亀人を重用し、連合艦隊司令部の参謀長より「上席」に扱って、筆頭側近にした。山本五十六もまた人格に重大な障害をもち、同病同士で意気投合したのではないか。精神医学的にいえば、山本はサイコパス系の人格破綻者であったろう。“蛮勇の暴挙”であるパール・ハーバー奇襲の決断を、山本五十六の博徒性に短絡させる史家が多いが、何か奇矯なこじつけにも見え説得性が乏しい。

日本の亡国も意に介さない、山本の“国益忘却病/国家不在病”は、“常軌を逸した名声慾”とともに、サイコパス系の異常人格なしに発症するだろうか。分裂症の人格もまた、国家や国益を認識できないから、山本と黒島とは、類似の病める人格において、相互接着が起きたといえる。山本と黒島の間を結合させた、この“相互接着のフェロモン”は、「日本国を呪詛し、日本人を大量殺害したい狂気のルサンチマン」といってもよい。

黒島は3歳の時、父親がシベリアに出稼ぎに行き、その地で事故死したので、父なしとなった。しかも、母親はこれを機に実家に追い返され、両親のいない“孤児”となった。亀人の養母・養父は、子がなかった父の妹とその夫であった。これで、精神に何らかの障害が発生しなかったとすれば奇跡であり、通常は起こらない。また黒島は高木惣吉と似て、小学校卒であり、旧制中学に入っておらず、中学4年間分の学力は独学である。

山本五十六も、会津で斬首という非業の死を遂げた、長岡藩家老の山本帯刀を「想像上の父」として、戸籍上だけの養子になったため、血塗られた戊辰戦争の悲話だけが、この“擬制の父子”をつなぐ絆であった。しかも、戊辰戦争で戦い敗れ、長岡城の炎上に涙を飲んで、生涯をルサンチマンに生きた実父からも、五十六は、毎日のごとく、無念と復讐の話ばかりを聞かされていた。山本が、日本国を祖国と見倣せない、愛国心なき“祖国喪失の病気”に冒されても不思議ではない。

山本と黒島の人格から共通して滲み出るものは、同胞の日本人への憎しみであり、国家への呪いであろう。両名が、日本国の勝利を確実にする作戦を決して考えなかったのは、合点がいく。山本の博打病が、ニヒリズムからなのは、多くのギャンブル中毒症患者の症例において自明。博奕好きは、麻薬患者とともに、軍人にしてはならず、山本の海軍大将への起用は、帝国海軍の人事が不敗の極にあったことを示している。

黒島を寵愛する山本五十六の度合いは尋常ではなかったが、その特殊関係を示すエピソードを一つ。反町栄一の『人間山本五十六』によれば、1942年11月、黒島の何らかの重大なミスに怒る三和義勇・作戦参謀に対して、山本五十六は、問題と責任がある黒島の方を肩入れする不公正な弁護をしたあげく、黒島を批判したのは許さないと、この直後、12月1日、真に作戦参謀の才に恵まれていた三和参謀の方を馘首した。

黒島亀人の人格の異常性は、戦後、宇垣の『戦藻録』第六巻を抜き取り紛失させた事件でもよくわかる。米軍に押収される前に、ガダルカナル攻略戦における、自分の責任問題になる部分を証拠湮滅したのである。黒島には、重度の分裂症の当然の症状において、日本国は存在しなかったし、帝国海軍も存在しなかった。自分のみが地球上に実在するすべてであった。このような人物に、国家の命運を左右する、パール・ハーバー奇襲作戦とミッドウェー作戦とガダルカナル攻略戦の作戦立案を丸投げ的に任せた山本五十六が、死刑に処されるべきに、異論など、どこに存在できよう。

山本五十六は、自分の作戦への批判をいっさい認めなかった。次のは、ミッドウェー作戦の出撃に際し、1942年5月25日、「大和」の最上甲板に張った天幕における、各艦隊の司令長官や参謀長に対する、山本五十六の訓示である。

「もし、本作戦に疑義ある者は直ちに申し出られたい。即刻、退艦を命ずる」。

海軍の特徴は、組織内部で、自由な言論が禁止状態だったことで、これはハワイ奇襲作戦でも同じだった。ハワイ奇襲の図上演習は、海軍大学校と戦艦「長門」で、2回行った。このいずれでも、山本五十六は、ハワイ奇襲作戦の実行そのものを批判したり反対したりするのを絶対に許さなかった。たとえば、9月11日〜20日の海軍大学校でも、ハワイ奇襲作戦に反対の声をあげたものがいたが、問答は許さずと激怒したという。10月11日の旗艦「長門」での演習の途中、各級の指揮官50名を前にして、「私が連合艦隊司令長官である限り、ハワイ作戦は必ずやる」と、作戦中止の意見は聞かない“問答無用”を言い渡した。

しかも、山本は、上官や上部組織に対しても、天性の“ならず者”らしく“脅し”の乱発で、下剋上的に、独裁的に、押え込むのが常であった。たとえば、パール・ハーバー奇襲作戦に関して、黒島亀人を使って、「もし軍令部が了解しないならば、司令長官を辞任する」と脅した。すでに9月6日の御前会議の後で、そのような人事が不可能なことを知った上での、“博徒”山本らしい“暴力団の凄み”であった。やくざが若い組員を使ってやる脅しと寸分も変らない。

旧海軍関係者は、戦後、常識の欠如をより露呈した。山本五十六の言動はことごとく、連合艦隊司令長官としてはあるまじき異常を極めたものだが、彼らには、それが認識できない。海軍の正常な意志決定過程は、@山本が自分の参謀たちを引き連れ、A軍令部において、B「軍令部・連合艦隊」合同研究会を何日も何週間も開いて議論と分析を尽くして決定すべきであり、これ以外であってはならない。だが、山本は、a瀬戸内海の戦艦「長門」でのんびりカードにうち興じ、b自分の参謀長である宇垣纏すら軍令部に派遣しなかった。山本にとって、軍令部は心理的には下部組織だった。山本五十六が、「オレ様は海軍の天皇」「オレ様は海軍の独裁者」との、狂った妄想に生きていたのは間違いない。

ミッドウェー島攻略作戦の時も、山本は、渡辺安次・参謀を軍令部に派遣して、「山本は、了解なきときは辞任する」と、同じ手口の脅しをさせた。ハワイ奇襲よりひどい、素人目にも出鱈目の極み、ミッドウェー島攻略作戦を、永野修身はまたしても了解した。永野修身は、軍令部総長が勤まらない、愚鈍と無責任を絵に画いたような人物だった。

ミッドウェー島は、攻略後どうやって、維持できるのか。兵站輸送の海上交通路は、どうやって、維持できるのか。兵站輸送の海上交通路は、どうやって確保するのか。こんな無意味で馬鹿げた作戦を認可するとは、軍令部はすでに“木偶の集団”だった。一国の海軍軍令部としては機能不全をきたしていた。「帝国海軍と日本国をつぶした“A級戦犯の海軍大将”といえば、山本五十六と永野修身だ」は、明白に過ぎる公理である。

そもそも、山本五十六の“ならず者性”は、パール・ハーバー奇襲の了解を、海軍の公式の意志決定システムを無視し、まず、及川古志郎・海軍大臣に私信を送ることから始めていることでも、糾弾されねばならない。日本国の国家存亡を左右する、開戦時の大規模戦力投入という重大作戦を、「私信一通でこっそり了解をとろう」と発想したのは、山本五十六が、連合艦隊のすべての艦艇と将兵とを自分の“私的所有物”だと考えていた証拠である。

しかも、この及川大臣への私信には、トンデモない騙しがある。山本五十六は初めからハワイに出撃する気などさらさらないのに、さもネルソンや東郷平八郎のごとく、桶狭間の織田信長のごとく、戦場で先頭に立って先陣をきると、次のような嘘をついている。実際には、それを部下の南雲忠一にさせた。南雲・中将の空母6隻を掩護するためにも、戦艦「長門」はその先頭に配置されなくてはならないが、自分が危険にさらされる臆病から、山本は「敵前逃亡」した。

「小官は本ハワイ作戦の実施にあたりては航空艦隊司令長官を拝命して攻撃部隊を直率せしめられんことを切望するものなり」。

海軍の嘘戦果発表のワースト・スリーは、「ミッドウェー海戦」「台湾沖航空戦」「フィリッピン沖海戦」である。1942年6月のミッドウェー海戦の大嘘報道は、山本五十六が創った“世紀の虚報”だが、その後の帝国海軍の堕落を徹底させたターニング・ポイントになった。米空母は2隻を撃沈したとか、日本の空母喪失は空母1隻の撃沈にとどまったとか、これらのおぞましき捏造は皆、山本の命令である。

山本五十六は、ヒットラーによく似ている。独裁者たらんと欲する近似性もあるが、“同胞の大規模な戦死・戦災死”“祖国の敗北”“祖国の廃墟”などで表象される何かにおいて、言いしれぬ共通性がある。

ヒットラーは、ユダヤ教徒殺し/ジプシー殺しのほか、ドイツ人の大量戦死・戦災死に狂奔した。ヒットラーにとって、「戦争の勝利」など関心がなかったし、「戦争の帰趨」にすら関心があったかどうか、定かでない。ヒットラーのこの特性は、「日本男児の大量戦死」を目的とした、“死神の戦争”を実行した山本五十六にも通底している。山本とヒットラーの両手からは、地獄からの使者かのように、血の臭いが漂う。

すなわち、両名とも、初めから、国家の大敗北と“廃墟”を、蜃気楼の彼方に幻視して、その方向にひたすら国家と国民とを誘い込まんものと、無目的で終わりなき“砂漠の彷徨”的な“祖国なき戦争”を開始したのではないか。ヒットラーは“ドイツ国の廃墟”と“ドイツ人の絶滅”を、山本五十六は“日本国の廃墟”と“日本人の絶滅”を、意識と無意識の狭間で、希求したのではないか。

もし山本五十六が、1945年8月、冥界より蘇って、B29の焼夷弾で焦土となった東京を見たら、何と言っただろう。ミニ原爆一つで酸鼻な荒涼と化した広島の黒い焼跡を見たら、何と言っただろう。嘆いただろうか。昭和天皇と国民に土下座して、対英米開戦の責任を詫びただろうか。

山本五十六はそんなことはしなかっただろう、とほとんどの日本人はなんとなく直感する。なぜなのか。山本はほんの一瞬ニヤリとほくそ笑んだに違いない、と想像する日本人も少なくないだろう。なぜ、そう直感するのだろうか。

オーストリア人のヒットラーにとって、ドイツは“祖国”ではなかった。ドイツは、移民した“外国”にすぎなかった。これと似て、戊辰時代の長岡藩に彷徨う山本五十六にとって、仮象の長岡は1940年代に入っても炎上し続けており、かくも「祖国」を焼き尽くす薩摩・長州の明治政府が創り育てた近代新生の「大日本帝国」は、“祖国”ではなく“外国”だっただろう。呪うべき“瞼の敵国”だっただろう。

ヒットラーにとって、祖国ではない、外国のドイツが野となろうと山となろうとどうでもよかった。同様に、山本五十六にとって、「敵国の日本国」が焦土と化すのは、「賊軍」の汚名に泣き落城した長岡の、その長岡藩の悲哀と屈辱を日本国民に追体験させることであり、心地良い復讐ではなかっただろうか。“日本の廃墟”、とりわけ薩長が徳川幕府から奪って創った日本国の首都である“東京の廃墟”は、山本五十六が童児の頃より妄執的に描いた“歓喜の光景”ではなかったか。

山本五十六は、太平洋戦争中ずっと、不可解にも東京から遠く離れていた。東京を憎悪していたからだろう。連合艦隊司令部を瀬戸内海においたし、1942年8月からはトラック島においた。ここに、最初は戦艦「長門」、次に戦艦「大和」、最後に戦艦「武蔵」を旗艦とし、カードに耽り将棋をさし手紙を書いて過ごす優雅な生活をしていた。赤道に近いトラック島は酷暑でも、「大和」は冷房完備で、さんご礁の美しい景色の中で、毎日、冷えたパパイヤを数個も食べていた。愛人をトラック島に呼び寄せようともした。

山本が戦争らしい体験をしたのは、たった1回しかない。死ぬその日、ブーゲンビル島の上空での米軍のP38十六機に追われ撃墜された時の、ほんの数分間だけだった。この飛行は、彼の計画的自殺行であったろうから、無理心中させられた部下は浮かばれない。ただ、“日本人の大量殺人”を祈願してきた山本五十六にとって、本懐の最期であったと言える。

連合艦隊司令長官になってからの、東京から絶えず距離をとった“逃避”は、山本五十六にとって逃避ではなかっただろう。“敵国”である大日本帝国に対する、怨念と復讐の情炎を、遠方より燃やすべく、一定の地理的距離が必要だったからではないのか。瀬戸内海の戦艦「長門」「大和」も、トラック島の戦艦「大和」「武蔵」も、山本にとって“瞼の長岡城”だったのではないか。

「大和」や「武蔵」に坐乗して、「長岡藩の藩主」とか「長岡藩の山本帯刀」になったつもりの山本五十六は、対英米戦争の形で、米国に日本国を焼き尽くさせ、日本国に対する戦争をしていたとの仮説は、真実から果たしてかけ離れているだろうか。<「山本五十六の太平洋戦争」は、「第二戊辰戦争」だった>という仮説を一笑に附すのは、相当に難しいのではないか。

ミッドウェー海戦の大敗北のあと、山本五十六は、この大敗北の責任を取るどころか、3000名を越える戦死者を慰霊することもなく、さらなる日本の若者を大量に“無駄な自殺出撃”をさせる、明らかな狂気を実行しようとした。呉工廠の朝熊・水雷部長に対して、「特殊潜航艇を1000隻、半年以内で作ることができないか」と尋ね、「艇1000隻は1年半あれば可能」、しかし「魚雷と発射管が間に合わない」と答えると、山本五十六は、次のように指示したという。

「魚雷は要らん。頭部爆装でよい」。

つまり、1942年時点で山本は、二人乗り特殊潜航艇1000隻の「特攻」で、2000名の若者に、戦果など全く期待できない戦法での自殺を強いる、そのような兵器の生産を命じた。山本五十六が1943年4月に死んだあと、頭が利口そうには見えない嶋田繁太郎・海軍大臣ですら、「必死隊は認めず」と、直ちにこのトンデモない計画を中止させた。

しかも、この1000隻特殊潜航艇による山本構想の「特攻」は、南方の島々から出撃するのであり、1945年の沖縄戦における「回天」特攻と同じである。沖縄「回天」の無惨な戦果が示しているように、島の洞窟からであれば安全に出撃できるなどとは、飛行機のない鎌倉時代人の考えである。出撃も基地も直ちに必ず発見され、凄まじい艦砲射撃にあって基地ごと完全に破壊される。整備士その他の基地要員の数が特攻隊員の10倍だとすれば、この2万人もまた、そのほとんどが瞬時に戦死する。

山本五十六にとって、日本人男児を大量に“無駄死”させることが、死者数ができるだけ多くなる戦法ばかりを計画したことからしても、“快楽”だったのではないか。山本五十六の対米戦争目的は、日本人を大量に殺す“快楽殺人”だったと推定する視点は、突飛だと言えるだろうか。

山本五十六の“快楽殺人”が実際に実行されたのが、ミッドウェー海戦の大敗北と、その後の措置である。前者では、4隻の空母とともに三千数百名が戦死したが、「戦死させた」というべきだろう。後者では、この海戦でかろうじて生還したものを、大敗北を知っているからと“口封じ”すべく、山本五十六は直ちに彼らの「殺害」を冷酷・沈着に実行していった。

まず、空母4隻から生還した第一級のパイロットたちには、上陸もさせず、休息も与えず、バラバラにして次々に遠方の前線に配属させた。海戦の勇者である戦傷パイロットに対しても、病院に隔離して、家族にはむろん、友人の海軍軍人とすら面会謝絶を徹底させた。

無傷で生還した空母パイロットの配属先は、必死に至らしめる、新たな戦場に転属させたし、それ以外にも杉田一次が、次のように、むごい措置だったと、その一端を書いている。

「機動部隊の生存者を九州各地に隔離し、下士官、兵は家族との面会も許されないまま、やがては南方に転属させられた。空母「赤城」艦長の青木泰二郎大佐は救助され生還したが、責任を問われて予備役に編入された」

“零戦の天才パイロット”坂井三郎も、“部下殺し”の残忍な山本五十六を告発している。1942年の初期マレー作戦で、台湾の台南海軍航空基地の「中攻」隊のうち、1機が被弾して敵地に不時着し、マレー半島の現地人に保護されたあと救出された6名の搭乗員に対して、「捕虜になった」と認定して、山本五十六は「5月上旬」と指定した「死刑」の“自爆”を命じた。

かくして、6名が乗る「中攻」1機は、ラバウル基地から東ニューギニアのラエ基地に飛び、そこから敵の高角砲陣地にめがけて「自爆=自殺」した。このように、山本五十六は、パイロットの命を“虫けら”としか考えなかった。国家の財産である中型爆撃機1機など“ちり紙”としか考えなかった。

日本として、ガ島を米国側に渡さない方が望ましい。だが、問題は二つある。第一は、この島は、米海軍・米海兵隊と、熾烈な争奪戦をして、日本の海軍力と陸軍部隊に多大な損耗の犠牲を強いるだけの戦略的価値があるのか否か。第二の問題は、島嶼攻略戦の知見がまったくない、そのための軍備もない、兵員や兵站を輸送する能力が超弱劣な「山本五十六海軍」で、実際にこの争奪戦に勝利できるのか。また、いったん攻略しても、いつまで維持できるのか。

だが、山本と黒島は、ガ島攻略に、海軍力をかなり集中的に投入し奪還作戦をやることにした。理由は、この争奪戦で日本側が壮烈で悲劇的な大敗北をすれば、ミッドウェー海戦大敗北の責任問題が立ち消えになるからであった。実際に、山本五十六は、ガ島争奪戦における敵陸上部隊や敵輸送船団の撃滅・撃沈に最高の艦砲攻撃能力のある、戦艦「大和」も「武蔵」も、出撃させなかった。できるだけ敗北する方が良いと意識していた証左である。

ガ島攻略に失敗すれば、その責任は海軍ではなく、陸地占領であるから陸軍の失敗に帰せられる。自分のミッドウェー敗北問題がうやむやになる。つまり、山本五十六と黒島亀人が立案したガ島攻略には、初めからその大敗北が計画されていた。その上、ミッドウェー海戦の敗北を知る、生き証人「一木支隊」の抹殺もできる。ミッドウェー敗北の“口封じ”に、陸海の将兵をどんなに殺しても良いと執念を燃やす山本五十六が、このように考えなかったと、どうやれば断定できるのだろう。

話をもう一度、ミッドウェー海戦に戻す。「ミッドウェー島/アッツ島/キスカ島の同時占領」は、軍事的には無価値だが、国民から大喝采を浴びやすいショーとして、つまり「神話的提督」にならんとする、山本五十六個人の私的な名誉欲には効果抜群の、ローマのコロセウムのような“壮大な舞台”だった。底なしの名声欲に溺れた山本五十六の天職は、軍人ではなく、映画俳優が最適だったろう。

山本の異常な名声欲は、ハワイから凱旋する南雲忠一・海軍中将の機動部隊をわざわざ小笠原諸島まで「出迎え」るべく、自分が坐乗した旗艦「長門」を出動させたことでも、一目瞭然。帰投時の南雲への拍手喝采を「横取り」するためだった。「成功はオレのもの、失敗は部下の責任」の、山本五十六の処世術には冷酷な峻絶さがあった。そして、この横取り策は大成功し、山本のみ叙勲された。

さて、ミッドウェー島は、ハワイから空爆される距離にあり、ハワイを占領しない限り、その占領維持は困難である。また、日本側の太平洋作戦にとって戦略的価値がない。アッツ島・キスカ島占領には多少の価値はあるが、このために空母2隻を割いてまでミッドウェー島占領と同時に、この時期に占領しなくてはならない理由など、むろん皆無だった。

そもそも、インド洋作戦をしていた南雲機動部隊を太平洋に呼び返してまでの、ミッドウェー島攻略は、その価値がなかった。一方、インド洋作戦は、英国の援蒋ルートの切断だから、国民党の支那を降すのに、決定的な価値があった。しかし、大喝采を浴びたい一念の山本五十六の邪念一筋が、ミッドウェー海戦を強行させたのである。

「大敗北」となった以上、山本五十六は直ちに軍法会議で、処刑か、もしくはそれに準じる処分を受けなければならない。ミッドウェー海戦の敗北は、日本海軍史上、最悪・最低のスキャンダラスな不詳事件だから、連合艦隊司令長官の辞任で済むレベルではなかった。だから、死刑相当の「犯罪者」となった山本五十六は、生還した最優秀なパイロットすら“口封じ”すべく、戦死し易い戦場に配属したり、あらん限りのさらなる犯罪的処置を講じて、ミッドウェー海戦大敗北の事実の隠蔽工作に精を出した。

「山本五十六の犯罪」のもうひとつは、ミッドウェー海戦敗北の原因究明の研究を禁止したことであろう。敗北の研究なくして、その後の海戦で勝利を手にすることはできず敗北が恒常化していく。だが山本は、その後の太平洋戦争がいかに日本の敗北の連続になろうとも、「そんなこと、オレの知ったことではない」の方針を貫いた。

海軍の資料の中から、戦後、「ミッドウェー海戦の敗因に関する研究論文」が一本も見付からないのは、終戦時に焼却されたのでなく、初めから一つとしてないからである。この種の研究論文を1942年11月に書き上げた杉山利一・海軍中佐は、次のように回想している。

「・・・11月頃までかかって、ミッドウェー作戦の戦訓をつくった。これを80部ぐらい刷って各部に配布したところ、福留繁・軍令部第一部長から、誰に頼まれてこの研究をやったのかということで、猛烈に叱られたことを記憶する。この戦訓は直ちに回収させられた」。

上記に挙げた、ほんの僅かな事実だけでも、山本五十六という人物が、軍人としても、人間としても、正常でなかったのは明らかだろう。山本に軍人の匂いがしないのは、山本が、一般通念上の、国家の命運を賭けた“外交の代替としての戦争”をしていなかったからである。「自分の名声」こそが、「日本国の敗北」「日本国の廃墟」「日本人の大量戦死」とともに、山本五十六の四大戦争目的の第一番目で、“戦争勝利”など山本の辞書にはなかった。また、上記の福留繁の行動が示すように、山本以外の、帝国海軍の将官も、“戦争の勝利”など興味がなかった。福留にとって海軍は、市役所と同じで、出勤し、出世するところでしかなかった。この異常は、すべての海軍将官に共通していた。

さて、日本のミッドウェー海戦の大敗北について、米国は隅々まで熟知しており、世界中も報道によって知るところだった。ミッドウェー敗北を外国に対して隠すことなど無意味。つまり、山本五十六が、全海軍に命じて上記のような「防諜」措置をとったのは、自国民に対して、この大敗北を秘密にしたかったのである。このことは、山本の病的な心理を明らかにする。

山本五十六の心理において、“敵”は米国でなかったという事実である。山本にとって、日本国こそが、昭和天皇こそが、陸軍こそが、日本国民こそが、欺くべき“敵”だった。だから、山本は、ミッドウェー海戦の後も、連合艦隊の編成表に、米国も世界も周知している、撃沈され海の藻屑となった空母「赤城」「飛龍」を幽霊にして配備していた。太平洋戦争は、山本の“私的な戦争”であった。

山本五十六にとって、日本は“唾棄すべき敵国”だから亡国しても気にもならないが、自分が「東郷やネルソンと並ぶ大提督」という神話に包まれたいという、私的欲望だけは完遂したかった。山本の心底に潜む、この“腐った狂気の野望”を透視し共鳴したのが、分裂症からのニヒリズムと錯乱に犯され、国家の存続にも、戦争勝利という軍事合理性にも無縁だった黒島亀人であった。ミッドウェー島攻略作戦のすべてが、山本五十六と黒島亀人の二人だけで立案された事実は、生まれながらに“アナーキズムの虚無”に蝕まれた山本五十六の、ニヒルなその「国家不在」病を鮮明に裏付けている。

太平洋戦争は、「山本五十六による、山本五十六のための、山本五十六の戦争」であった。太平洋戦争に日本の国益も日本の国家も不在だったのは、山本五十六の“私人の戦争”だったからである。

山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、現場指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、“卑怯”の二文字を絵に描いた、史上最低の高級軍人だった。連合艦隊司令長官でありながら、空母6隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日々を過ごしていた。

しかも、パール・ハーバー奇襲は、山本五十六本人の発案である。自分が陣頭指揮を執るからと、海軍全体の了解を得たものである。ところがいざ出陣になると、山本は、「公約」を破り捨て、“率先垂範の指揮”という海軍伝統をも無視し、カード三昧の日々であった。

1942年6月のミッドウェー海戦の場合はもっとひどく、山本五十六の指揮官としての臆病ぶりは、日本の戦史にも世界の戦史にも、こんな武将は前例がない。山本は、世界史上、“最悪・最低の狂将”だった。山本五十六を「スーパー臆病」と断定してよい理由は、以下の通り。

第一は、ミッドウェー島攻略戦の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦「大和」に坐乗しているにもかかわらず、空母4隻の前方2kmにいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母4隻よりはるか後方540kmに「逃亡=職場放棄」していた事実。

第二の理由は、4隻の空母の、3隻が轟沈していくとき、山本五十六は、「遊び人」らしく将棋を指していた事実。前代未聞の「職務放棄」。

この「職場放棄」と「職務放棄」は、海軍刑法第44条、もしくは第38条の定めに従って、山本五十六の罪は死刑である。

空母は、団子のように固めてはならず、原則1隻ずつで陣形を組む。バラバラが基本である。仮に複数空母をまとめるとしても、敵の航空攻撃の射程圏内に入るときは、決して2空母以上はしてならず、この場合、2空母を進行方向に縦列にする。ところが、ハワイに出撃した南雲の6空母陣形は、平時の観艦式のつもりなのか、あってはならない最も危険な陣形であった。たまたま、敵の空母部隊の攻撃がなかったのが幸運であった。

ミッドウェー海戦における南雲の4空母の機動部隊もまた、この観艦式タイプの2列の団子形であり、戦場の現実がわからない、素人の陣形である。空母機動部隊の戦闘陣形も知らない山本五十六の、その“空母主義”など、現実から遊離した観念のレベルであった。山本にとって空母は、“豚に真珠”であった。空母を十全に働かせるには、戦艦「大和」こそ、これら空母の先頭にいて防空と通信の二大任務を果たしていなくてはならない。

実際にもミッドウェー海戦で、山本五十六が率いる直率の部隊には戦艦が3隻もあった。空母4隻のはるか後方でブラブラしていた役割不明の「警戒部隊」には戦艦が4隻もあった。これだけでも7隻である。南雲・機動部隊にこれを加えれば、戦艦はすべてで9隻も現場にいたのである。空母4隻を守る戦艦は、ちゃんと出撃していた。

閑話休題。女と博奕の生涯であった山本五十六の正体は、頭が極度に劣化した無能人間で、高いIQを必要とする大海軍の指揮官の適性がなかった。それを示すエピソードを挙げておこう。

米内光政/山本五十六/井上成美/大西瀧治郎/豊田貞次郎の五人が揃いも揃って、常軌を逸した“バカ・アホ・間抜け”であることを示した「水ガソリン事件」である。米内や山本らは、H2OにはCが含まれていると信じた。彼らは、小学校4年生の水準すらなく、その頭は異常であった。

もう一つの事例は、ミッドウェー海戦にも通ずるもので、米内/山本/大西ら、当時の海軍の出世街道を走る連中は、「兵器における、攻撃と防御の不可分性」が理解できない、度外れの欠陥軍人だった問題である。米内光政の渡洋爆撃や大西瀧治郎の重慶爆撃の時、いずれにも、護衛戦闘機がなく、これらの爆撃機の被害は甚大であった。ミッドウェー海戦で、空母4隻のそれぞれに2隻ずつ、計8隻の護衛戦艦をつけなかった山本とは、このような爆撃機に戦闘機をつけない米内らと同じ、「防御不要」という、非軍人的発想をしていたからである。

戦後、「大艦巨砲主義」が悪玉に仕立て上げられたため、山本五十六や大西瀧治郎の「航空主兵主義」が何か時代の先駆け的な、優れた軍備への切り替えをしたように誤解されている。だが、山本五十六は、一度も操縦桿を触ったこともない、航空のズブの素人だった。山本の「航空主兵」は、正しくは“戦闘機不要論”と一緒になった、“爆撃機万能論”のことで、歪なものだった。だから、制空権は取れず、敵への損害がほとんどない、負け戦しかなりえなかった。

ミッドウェー海戦の敗因は、山本五十六を庇うために奥宮正武らが考案した、弁解用の創り話「魔の5分間」などでは、もちろんない。最大の主因は、軍人にあるまじきレベルの、“山本五十六の怯懦”にある。第二の原因は、偵察機の情報をインテリジェンスして、敵空母の位置を正確に推算する能力に欠けていたからである。第三の原因は、空母の運用が稚拙で実践から乖離した素人のそれでありすぎたことだろう。

“山本五十六の怯懦”とは、山本が自分の命を惜しんで、戦艦「大和」の通信傍受隊が敵空母の位置を1日以上も前にキャッチしているのに、それを南雲提督が率いる空母機動部隊に知らせなかった事件である。“無線封止”を解けば、自分が乗艦している「大和」の位置を敵に知られて攻撃される可能性があると、山本は、自分の命大事と戦々恐々として、それを避けたのである。

次に、山本五十六は、味方空母を敵の艦爆隊攻撃から護衛する戦艦「大和」などの戦艦部隊を南雲空母機動部隊の前方に展開しなかった。東郷平八郎が敵艦隊の前面にでて艦橋に自ら立ったのとはまるで異なっていた。山本は、自分の命を惜しんだ。しかも、空母機動部隊より、はるか後方、なんと約540kmも離れた、絶対安全圏に「大和」を位置させ、その司令長官室で将棋を指していた。

何のために、山本五十六は、ミッドウェー海戦に出撃したのか。その必要はまったくなかった。むしろ、山本五十六という疫病神が出かけて、指揮を混乱させたから、4隻の空母喪失という大敗北になったと、戦闘記録は無言で行間に語っている。

山本の臆病は、ガダルカナル島作戦における、米海軍の提督たちと比較するともっとはっきりする。山本は、将兵激励のため、ガ島に一度も足を運んでいない。一方、米国側は、ニミッツ提督が1942年10月に、ハルゼー提督が同11月に、ノックス海軍長官すら1943年1月に、現地部隊の将兵の激励に訪れている。そもそも、山本の人格には、“死闘の激戦”が繰り広げられている「戦場の将兵激励」という発想がない。

臆病の問題以上に、もっとトンデモない、もっと本質的な問題が山本にはある。ガ島での、日本の陸軍部隊の損害は死者2万人を越え、この2万人のうち餓死が1万5千人以上だったが、これらの陸軍の将兵の死を聞いた山本が、手を合わせたとか、涙ぐんだとかの、そのような記録も回想も皆無である。山本は唯物論的な無神論者だったという指摘は多いし、これは事実であった。3千名を越えるミッドウェー海戦の部下の死に対しても、山本は葬儀はおろか弔意も表していない。

山本にとって、戦死であれ、餓死であれ、大量死亡こそは、嬉々として楽しむ“快楽”であったろう。自分の手を血で汚さない“快楽殺人鬼”、これこそが山本五十六という人間の真像であろう。

ミッドウェー海戦における山本の問題はもう一つある。4隻の空母を撃沈されたとき、戦闘はまだ終了したわけではなかった。日本側には、アリューシャン列島に展開している小型空母が2隻あり、これをミッドウェー海域に呼び戻し、まだミッドウェー海域にある改装空母2隻と戦艦11隻をこの護衛につけて再編成し、「大和」を旗艦として山本五十六が指揮すれば、米海軍に最後に残る手負いの空母2隻を撃沈することなど容易だった。

なぜ山本五十六は、「退却」の名目で、慌てふためき「敵前逃亡」したのか。それは「職務放棄」ではないか。山本は、恐怖に震えていた上に、指揮する自信がなかった。空母機動部隊の発案はしたが、実戦のできない“口舌の徒”にすぎない自分の真像がばれるのが怖かった。

山本は、その後しばらくして、戦艦「大和」をつれて、トラック島に逃げ込んだ。ミッドウェー海戦大敗北のほとぼりが冷めるのを待つことにしたのである。山本の頭と行動には、「自己保身」以外、何もなかった。

戦争の最中、山本五十六は、連合艦隊司令長官なのに、自分が指揮を執るべき、当然の任務を「逃避」する「職務放棄」に徹した。この山本流の「職務放棄」「職場放棄」は、海軍全体のモラールを一気に低下させていた。まず、ハワイ奇襲からふり返ってみよう。

南雲たちが、最小限の仕事を終えるとさっさとハワイから一目散に帰還した最大の理由は、指揮を執るべき山本五十六が、瀬戸内海の戦艦「長門」で、のんびり優雅に過ごしていたからである。

山本五十六に関して、糾弾の手を姑息に引っ込めてならないのが、ガダルカナル島攻略での、山本五十六の「敵前逃亡状態」=「職務放棄」の問題である。山本は、自分が坐乗する戦艦「大和」がガ島の目の前のトラック島にいるのに、一度もガ島に出撃しなかった。山本五十六の怠惰と戦場恐怖症は、異常の一語に尽きる。山本は軍人ではない。

死と直面する、ガ島に投入された駆逐艦など小艦艇の指揮官の間に、山本五十六への怨嗟は大きなものになっていた。「大和」が、就役後であれば「武蔵」とともに、出撃して艦砲射撃すれば、米海軍はまだ日本に及ばないレベルだから、戦況は一変したのである。しかし、「天皇」になったつもりの山本五十六は、1941年12月から43年2月の1年3ヶ月間、決して戦場には行かなかった。山本への海軍内の怨嗟は、爆発しようとしていた。山本にとって、「戦死の形での自殺」しかない事態は最終段階にあった。

山本五十六は、海軍戦略に無知で素人にすぎた。山本五十六の知見は、@旅順港奇襲封鎖とA日本海海戦の、日露戦争のままだった。それ以上の知識は何もなかった。1941年の山本の時計は、40年前の1904〜5年で止まっていた。戦争の帰趨は、第一次大戦の英独海軍間のジェットランド沖海戦を境に、「艦隊決戦」では決しない新時代に入ったことを、山本五十六は知らなかった。戦争は陸上の取り合いであり、太平洋を制するのは、太平洋の戦略的要衝の島々の争奪戦であることを自覚することがなかった。

島々の確保が戦争の帰趨を決する以上、敵の上陸阻止と味方の上陸支援こそが、海軍の主目的となる。だが、“時代錯誤のアナクロ人”山本五十六には、@島嶼の要塞化、A島嶼への敵の上陸阻止、B島嶼への味方の上陸支援、など現代海軍の基本任務は、チンプンカンプンだった。ガダルカナル島攻略戦の、惨憺たる敗北は、戦艦「大和」を出撃させない“山本の怯懦”に加え、“山本の無知”こそが主因だった。

山本五十六の“航空主兵主義”も未熟で、飛行機マニアの中学生だった。空母重視の軍備方針を貫きながら、空母をどう運用するのか、空母の戦闘陣形はどうあるべきか、などについて無知だった。ミッドウェー海戦の大敗北は、山本五十六の“空母音痴”と“航空機音痴”が原因である。

航空機の時代が来ると認識し、支那での渡洋爆撃や重慶爆撃という、敵本土の航空基地や都市攻撃の実験をしたから、このような帝国海軍の運用方法では、効果が全くないことがわかっていた。しかし、山本は戦果の分析には全く関心がなかった。軍人ではなく、狂気の冥界に生きる博徒だった。また、日米戦争をすれば、かつての南京や重慶のように、日本の都市が米国の航空爆撃に晒され防空対策が急務となるが、山本は日本本土の防空に警鐘を鳴らし策を提唱することもなかった。

奇怪なことに、敗戦の後、旧海軍関係者が、声を大にして、米国に負けた理由として、「大艦巨砲主義が原因」を合唱したのには驚くほかない。なぜなら、日本は、米国より早く、“戦艦無用論”に立ち、戦艦の建造を即座にやめた海軍国である。日本の最後の戦艦は「武蔵」で、1942年9月に就役した。このときをもって、日本は、戦艦建造とは永遠に無縁となった。

なお、戦艦「武蔵」で、山本五十六にはトンデモない行動がある。その司令長官室その他の司令部部分を、「第二の天皇」を自認していたのか、皇居の何か特別な部屋のように広大で絢爛たる調度品で飾るべく、完成直前、大改造する追加工事を強行した。この改造は、駆逐艦1隻の建造費になった。この改造がなければ、就役は1942年6月であった。戦争中に主力軍艦の就役を3ヶ月も遅らせた山本とは、心理的には、実は戦争していなかったからである。

一方、米国は、戦艦を、空母とともに重視し続けた。去りゆく米国戦艦の、最後の雄姿は、1991年の湾岸戦争で、ペルシャ湾からイラクの標的に向けて、トマホーク巡航ミサイルを撃ちまくっていた。太平洋戦争中にも、米国は、新規の戦艦を10隻も建造し就役させている。サウスダコダ型4隻、アイオワ型4隻、アラスカ型2隻である。米国は、島嶼確保が、太平洋戦争の帰趨を決定する要素であると的確に把握していて、艦砲射撃の有効性を知っていた。

日本の「戦艦軽視」が、米国の「戦艦重視」に負けたのである。帝国海軍は、現代海戦における戦艦の運用法を知らなかった。戦艦は、@空母の護衛とA島嶼攻略の艦砲射撃に不可欠で、この活用なしには、米国との太平洋争奪戦において勝利も不敗もありえない。永野修身にしろ、山本五十六にしろ、米内光政にしろ、海軍の将官たちは、日常、政治的なうごめきばかりにすべての頭と時間を使って、自分たちの職務である“海軍の現代的戦争”について、関心もなかったし研究もしなかった、そのツケである。

山本五十六は、部下の死を悼むということは全く無かった。ミッドウェー敗戦から還ったあと、当然にすべき、三千余名の戦士の魂を鎮め追悼する式典すら行っていない。戦艦「大和」の長官室で、一人密かに鎮魂の祈りを捧げたこともない。ミッドウェー海戦のあと、当然にあるべき小さな仏壇すら長官室にはなかった。石膏でできたような山本五十六の冷酷残忍の人間性は、どうして形成されたのだろうか。

山本五十六は、戊辰戦争における敗者「長岡藩」に代わって、勝者「薩長の新政府」に対して、復讐の戦争を、大東亜戦争を活用して“合法的”に遂行していたのではないか、との仮説のみ説明がつくように思える。

実父の高野貞吉は長岡藩で奮戦し、会津に転戦し負傷した。貞吉は、郷里に戻っても、賊軍が背負っていく老残の寂しい人生から解放されることはなかった。山本五十六が32歳のとき、旧長岡藩の家老・山本帯刀こそは、藩兵を率いて会津に転戦し敗北し、その地で斬首となった、旧長岡藩では伝説の若き武将である。

しかも、家名しかない空無な山本家を「家督相続」する儀式の日として、長岡城落城の日をわざわざ選んだのは何故だろうか。またこの日は、長岡の城下町は薩摩兵らによって焼かれた日でもある。さらに、山本姓となった五十六が、結婚相手として選んだのは、炎上する鶴ヶ城に無念の涙を飲んだ旧会津藩の藩士の三女であった。

山本五十六は、産まれも壮年となっての生き様も家庭も、何もかもが、戊辰戦争の敗者側の「賊軍」のそれであった。「山本五十六は、長岡藩そして会津で散った山本帯刀の恨みを晴らすべく、たった一人で、戊辰戦争の勝者が創った国家を軍隊もろとも紅蓮の炎のなかで破壊し焼き尽くす、国家叛逆の復讐戦として対米戦争をした」という仮説は、精神医学的には、成り立ちえよう。

ところで、長岡市は、1945年8月1日夜、米軍の焼夷弾に丸焼けになった。これこそは山本五十六が祈祷し念願していた“廃墟”の実現であり、長岡市はもし恨むならば、山本を恨むべきである。

新潟県長岡市にある「山本五十六記念館」は、面妖な展示館である。山本五十六とは、コミュニスト近衛文麿と相違して、ソ連に通謀したわけではないし、アジア共産化を考えたこともないが、結果としては、近衛とともに、大東亜戦争と通じて、東アジアの共産化にもっとも貢献したワースト・ツーである。「スターリンと毛沢東に奉仕し、原爆の報復など日本人大量殺害を招いた、日本史上最悪・最凶の軍人」と断定してよい。

そんな人物を記念する「館」とは、いわば“悪魔を讃える館”で、このような怪奇な建造物は、中国共産党が歴史の捏造として建設した「南京大屠殺遭難同胞記念館」と同じ性格が背後にある。日本という国家に唾する、反日行為を奨励する「反日の館」、それが「山本五十六記念館」である。

山本五十六の長男である山本義正が、『父 山本五十六』を出版した行為も、これは義正が父親譲りの破廉恥さをDNAで有していない限り不可能なことである。「山本五十六の大犯罪」において、われわれ健全な日本国民は、山本義正の、このような厚顔無恥の出版行為を断固として糾弾しなければならない。

なぜなら、明らかなソ連の脅威も、明らかな米国の高い軍事力/高い戦闘能力も、ともに認識できず、軍人として劣等極めた山本五十六の、その対英米戦の妄執によって、南方での陸軍の累々たる死者や満州へのソ連軍侵攻が発生したのである。日支戦争の責任は、海軍・陸軍折半である。が、1941年12月8日以降の太平洋戦争は、海軍が決定し陸軍はそれに引きずられただけだから、その責任と罪のすべては海軍のみにある。そして、この海軍の暴走を独裁的に牽引したのは山本五十六だから、太平洋戦争の罪を一身に負うべき軍人の筆頭は山本五十六である。このことに、異論を挟むことはできまい。

日支戦争を除く、太平洋戦争での日本人将兵の死者総数は、200万人前後であろう。米軍の空襲や原爆投下の被害者やシベリア抑留で死んだ、さらに数十万人の被害者がこれに加わる。山本義正は、「父親の大罪」を贖うべく、静かにこれら250万人以上という厖大な被害者を弔い続けるべきである。それなのに、親子関係の情をもって父親の大犯罪を糊塗せんとする、狡猾な山本義正の『父 山本五十六』を出版する手口は、スターリンの娘が書いた『スベトラーナ回想録−父スターリンの国を逃れて』と酷似している。

太平洋戦争という“亡国の愚行”によって、“250万人以上の死者”をもたらした張本人は、日本という国家にとって「重犯罪人」ではないのか。それを逆立ちさせ、軍人を祀るかごとき「山本五十六記念館」は、直ちに破壊され焼却され撤去されなければ、日本人の倫理が冒涜される。国家の存続に義務を負う健全な国民の“愛国の精神”が腐食する。

山本五十六は、顕彰されるべき硫黄島の栗林忠道・陸軍中将とは対照的に、最も恥ずべき最も唾棄されるべき日本史上最悪の軍人である事実を、日本国民は未来永劫に記憶にとどめよう。「大敗北の提督」など、記念館ともども、祖国から抹殺されないとすれば、国防の根本が否定され、日本の国家の未来が危うい。

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