毎日新聞に、おなじみの統計が出ている。日中戦争と太平洋戦争の「戦死者」230万人のうち、140万人(60.9%)は「戦病死」だったという話だ。その原因は「日本軍が補給を軽視したからだ」とよくいわれれるが、それは本当だろうか。
「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々蜻蛉も鳥のうち」という歌は、輜重輸卒(補給兵)を軽視するものとして有名だが、これは日露戦争のときの歌だ。第2次大戦では、補給は重要な任務として位置づけられ、教育も行なわれていた。しかしインパールやガダルカナルなどでは、8割が餓死したといわれている。それはなぜだろうか?
その答は、ある意味では単純である。補給にとって重要なのは補給兵ではなく補給物資であり、補給物資を調達するために必要なのは金だ。したがって「一般的なイメージとは異なり、兵站補給業務の中心は輸送ではなく計画であり、その意味において輜重兵ではなく軍や師団の経理部こそが兵站補給の担い手であった」。(本書p.43)
いくら補給部隊や輸送船を充実しても、予算がなければ戦えない。さらにいくら予算があっても、それで買う物資がなければ戦えない。物資が足りないのに、無理な作戦を強行したことが餓死の原因だ。たとえばインパールについていえば、物資量を定量的に計算すれば、作戦を維持するだけの物資がないことは明白で、作戦は実行されていなかっただろう。
これは日米戦争になぜ負けたのかという問題と同じで、定量的に考えれば勝てる可能性はなかったのだから、開戦したこと自体がまちがいで、あとはどうやっても勝てなかった。したがってこれは、なぜ定量的に考えられなかったのかという問題に帰着する。
それは本書もいうように、日本兵が優秀だったからだろう。「必勝の信念」さえあれば、物資の不足は人力で補えるという甘えが上層部にあったと思われる。山本七平も、このように「『可能か・不可能か』の探究と『是か・非か』という議論とが、区別できなくなる」ことが日本軍の欠陥だと指摘している。
これを朝日新聞の大野博人論説主幹(当時はオピニオン編集長)の次の言葉と比べると、日本軍との類似性は一目瞭然だ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし、3月11日以後もそれは現実的だろうか。 脱原発について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで3月11日の事故が起きなかったかのようではないか。冒頭の二つの問いに戻るなら、まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。放射線の健康影響評価やエネルギーの環境リスクと便益は、定量的な比較の必要な問題である。それをできるかできないか考えないで「覚悟を決めれば」不可能が可能になるという朝日新聞のような非科学的な発想が、前の戦争で日本を滅ぼした元凶なのだ。
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