『もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろう』
夏目漱石『こころ』より
今年は、『こころ』が発表されてからちょうど百年目に当たるそうです。
『こころ』は、数ある小説の中でもとりわけ好きな作品です。特に今回初めて知ったのですが、これの連載が終了したのがまさに今日、八月十一日なんだそうです。
この日は、自分にとって、ある意味とても長く、とても思い入れのある日なので、その偶然がとても感慨深いです。
『死んだ積りで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍(おど)り上がりました。然し私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるように云って聞かせます。すると私はその一言(いちげん)で直ぐたりと萎(しお)れてしまいます。しばらくして又立ち上がろうとすると、又締め付けられます。何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴りつけます。不可思議な力は冷(ひやや)かな声で笑います。自分で能(よ)く知っている癖にと云います。私は又ぐたりとなります。
波瀾(はらん)も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思ってください。』
『私がこの牢屋の中(うち)に凝(じつ)っとしている事がどうしても出来なくなった時、又その牢屋をどうしても突き破る事が出来なくなった時、必竟(ひつきよう)私にとって一番楽な努力で遂行出来るものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。』
この描写に、私はすごく共感します。
何故、人は自殺するのか?
例えば。
一人の人間がある人間に一つ、小石を投げつけたとします。その程度なら、致命傷にはなりえないとしても。
百人が、それぞれ小石を持って、同時に一人の人間に投げつけたら?
『自分一人がしてることは、人を苦しめるような行為じゃない』。でも、そう思う人が数百人集まったら?
当然それは相手に対する致命傷になりかねません。
人が自ら命を絶つまでには、それぞれさまざまな思いがあるだろうし、本当の理由は遺された人間がいくら考えても憶測に過ぎません。
『こころ』では、『先生の遺書』という形で、先生が何故自殺をするに至ったか描写されていますが、殆どの場合、そこまで余裕のある『死』というのはなかなか無いのではないかなあ、と私は思っています。
自分だったらですね。いろんなことが積み重なって、臨界点を超えたある瞬間。『死にたい!』『死んじゃえ!』『死んでもいいかなぁっ』って、衝動的に高い所から飛び降り、というのが一番可能性高い気がします。いや、今、死にたいとかまでは思い詰めてませんけど。でも、人間、いつ、何がきっかけで爆発するか分からないわけで。(そう思うんなら、心に余裕があるときにちゃんと『遺書』書いておいた方がいいのかな)
ただ、突発的な自殺に見えても、遺された人間が『多分、これが原因で?』と推測できる要因は今の時代、多々残ってしまうと思うんですけれど。
本人が何も言わなくてもね。情報は残りますから。
私一人が消えても誰も困らないし、日々、いろいろ『嫌んなっちゃうなあ』と思うことはありますけど、今の所、大過なく過ごせている、ささやかで小さな、この自分の世界を、私は愛しいと思っているので、昔ほど『思い詰める』ということは無くなったのですが。そして、それを壊す権利は、私が意図的に誰かを傷つけていない以上、誰にも無い、と思うのですが。もっと『生きていること』を普通に楽しみたい、と、切に願います。健康で、ご飯が美味しくて、寝る前に少しだけ趣味の時間でリフレッシュができれば、それだけで幸せ。ただ、それだけなのですけれども。
再度書きますが、『このまま消えちゃってもいいかなあ』というところまで、一人の人間が思い詰めるに至る原因については、本当に人それぞれでしょう。
でも、私にも言えますが、自分が投げている小さな石が実は、その人にとって、崖っぷちに立っている背中を押してしまう、最後の石だったかもしれない、ということは、いろいろな人が考えていく必要があると思うのです。実生活においても、仮想世界においても。
特に、ネットへの書き込みは消えないですからね。匿名で話していても、人が命を絶つほどの事態になったら、追及はされると思うのですよ。
☆重い話題だけではなんですので、水瓶座(カミュ先生)に関する話題も一つ。今日八月十一日はこんな日だそうです。
今回の満月は「スーパームーン」! 1年の中で、月が一番大きく見え、月のパワーも大きくなると考えられているタイミングです。
今回の満月が起こる場所は水瓶座。いつでも未来を見つめ、博愛主義的な精神で社会やコミュニティーがよくなることを理想とする革新的な星座です。この満月は、常に新しいものを追い求める水瓶座エネルギーで、心の深いところから「よりよい自分」への変化や改革が促されます。スーパームーンのパワーもプラスされて、いつもより自由にさまざまな発想を得ることができ、自分や他人を縛る思い込みや悪い習慣を捨てられる絶好の日となります。(ネット占い。水瓶座のあなたへ)
でも、この月が見られるベストな時間って、十一日の未明(午前三時頃)だそうで。起きていられるかっというのと、起きてても台風で見えません、という悲しい事態。
でも、『水瓶座』というキーワードを目にするだけで、心浮き立つ私。大丈夫。まだ、大丈夫。
いろいろと、気分の浮き沈みはあっても、水瓶座!という響きに反応する力があるのですから、自分の中におけるカミュ先生の占める割合のなんと高いことよ…と、しみじみ感じます。けど、そういう自分を客観的に見ている自分も居ます。
しかし。先日の水瓶座流星群のときも曇りで、まあ、あれは晴れていても、観測はかなり難しかったと思うのですが。今回は、よりによって台風とは…。ただ、訳あって、日記だけは今日、『八月十一日』にUPしたかったんです。たとえ、台風が来てても来なくても。
『こころ』と併せて。
そして、雲の上にはいつでも月があって、星があると考えると、空っていいなと思います。
と、いうことで、今回、本当は、日記だけで終わりにしようかと思ったのですが、久しぶりにサガカミュ書いたので、一緒にUPすることにしました。サガと仔カミュの組み合わせはやっぱりいいなあ。
水瓶座流星群日記で、『更新待ってます』ってコメントくださったG様、いつもありがとうございます。すごく励まされました!そして、その他の方々にも。今後、何回更新出来るか分からないので、お伝えしておきます。
『ありがとうございました』。
さて。サガカミュですが。サガは年上の落ち着きで、小さいカミュの怯えとかを優しく包み込んでくれるといい。でもって、成長していくにつれ、カミュ先生の方でも、憧れであり、目標でもあったサガの苦しみや二面性に気づき、でもそれを丸ごと受け止めて、信頼し合う仲間になる、とか考えると、十二宮戦における先生の立ち位置とかも何となく納得がいくのです。
カミュ先生が、偽教皇の正体を知っていたかどうかについて、知っていた・知っていない、では二次創作の書き方が変わると思います。基本的にうちでは、『知っていた』んじゃないか、でもだとしたら何故黙っていたのか?その辺に焦点を当てて、想像で書いていますので、ご了承ください。
見えない真実
『あれは、いつ頃のことだっただろう…』
サガは、傍らで規則正しい寝息を立てているカミュをそっと見つめながら回想に耽っていた。
***
「…っ。サガ?!」
割れたティーカップ。蹲る人影。苦しそうに喘ぐ、その人物の髪は、カミュが見ている前で徐々に色を変えていく。
「サガ…?」
囁くように問いかけると、テーブルの向こうからむくり、と人影が立ち上がるのが分かった。
「サガ…」
黒い、髪。血走ったような赤い、瞳。でもその容貌は…。
人影がス…と、カミュに歩み寄って来た。
大きな手が、カミュの細い首にかかる。
「…っ」
ギリリ…と、指先が首に食い込む。苦しい。助けて。サガ。いや、自分の首を絞めているのはまさのそのサガなのだった。
カミュはフッと、躯の力を抜いた。サガになされるがままに。サガは驚いたらしく、カミュの首から手を離した。
途端に、カミュが咳き込む。霞む目でサガを見ようとしたが、カミュはそのまま意識を失ってしまった。
気がついたら、ソファに寝かされていた。そして、心配そうに自分を見つめるサガの瞳。
「サガ…」
掠れた声でカミュが呟いた。サガが、安堵の表情を浮かべる。しかし、それはすぐに消え、変わって眉間に皺が寄った。
「カミュ…」
サガが口を開いた。けれど、言葉にならない。何故? だって、自分はさっきこの子の首を絞めたのだ。ヘタをしたら殺すところだった。そんな場合、一体何を口に出せるだろう。
「サガ…」
カミュの声は、掠れてはいたが、先ほどよりはだいぶ楽になったらしく、滑らかな発音に戻っていた。
「私は、大丈夫、だから」
その言葉にサガが目を見開いた。
「だから言って? サガがどうして欲しいのかを。私はその通りにするから」
そういってカミュは淡く微笑んだ。サガは、カミュを凝視したあとポツンと言った。
「さっきの…。私の姿を見ただろう?」
無言で頷くカミュ。
「浅ましい、姿だ。あれになったとき、私は理性を失い、ただ感情のままに行動してしまう。お前の首を絞めるなど…。どうかしていた」
カミュは黙って聞いていた。
「だが、信じて欲しい。お前を傷つけるつもりは無かった。どうかしていたんだ…」
横たわったまま、カミュがそっと、サガの頭に手を乗せた。「あれはサガだよ」
「カミュ…」
「ねえ、どうして、黙っていたの? 一人で抱え込んでいたの?つらかった…でしょ?」
「な…」
カミュは理由を訊かなかった。自分の首を絞め、なおかつ、見た目がガラリと変化してしまった自分のことについて。
「…私が怖くないのかい?」
「…怖くない。驚いたけど。だって、サガはサガだもの。私の好きなサガだもの。だから、サガが、何も言わず、一人で苦しんでいたことに気づけなかった自分がむしろ許せない」
「私はお前の首を絞めて、殺そうとしたんだよ?」
「うん。それは…怖かった。…だけど、サガに殺されるならいいか、って思ったんだ」
「何故」
サガが問うと、カミュがはにかむように答えた。
「サガは、恩人だから。サガが来てくれなかったら、私、多分、フランスで死んでいたよ。それを、救ってくれた。サガに助けてもらった命だから、サガを救えるのなら、私は死んだって構わないよ」
***
「赤毛の悪魔!」
最初にそう叫んだのは隣に住んでいた金髪碧眼の少年だった。体つきも年の割に大きく、近所のリーダー格だったと記憶している。
逃げようとするカミュを、後ろに回り込んでいた別の少年が捕まえた。
「見ろよ、こいつの眼! 兎みたいに真っ赤っか。髪にしたって、不自然なほどの色だよな。こいつ、化けモンだって、母ちゃんが言ってたぜ」
グイ、と顔を仰向けにされて、眼を覗き込まれる。
「血も赤いんかな」
ふいに、また別の少年が口を挟んできた。カミュは囚われたまま、必死でもがいた。
「悪魔なら緑の血が流れてるっていうけどな。どうだかな…。試してみるか?」
フフッと笑って、一人目の少年がナイフを取り出した。カミュが叫んだ。
「嫌! 何するの!」
騒ぎを聞きつけて、近くに居た大人がやって来た。カミュを捕まえていた少年たちはバラバラと散って行った。
けれど…。
その夜、カミュはなかなか寝付けなかった。
『悪魔の子』
『血も赤いんかな』
『緑の血が流れてるっていうぜ』
外は満月だった。ハッとしてカミュは窓辺に寄った。
赤い。
赤い満月だった。
思わずカミュは外へフラフラとさまよい出ていた。白い寝間着のまま。
外は満月のせいか、やけに明るく、そしてその月はどこか見る者の心を惹きつけてやまないような不思議な光を放っていた。
『ルナ・ロッサ』
赤い月。
でも、こんなに見事なのは初めてだ。
カミュの脳裏に昼間の台詞がフラッシュバックした。
『あんなことがあった日に、こんな月を見るなんて。なんだか、偶然じゃないみたいだ…』
少年たちにはばれなかったし、母親も知らないようだったが、カミュには秘密があった。
感情が高ぶると、自分の周りの空気を冷やしてしまう。果ては凍らせてしまうことがあるのだ。
一度、母親が不在だったときに。暖炉から火の粉が散って、たまたま傍にあった毛糸に火がつき、危うく火事になりかけたことがあった。
カミュが自分の能力に気がついたのはそのときだった。
「わ!」
覚え立ての言葉で絵本を読んでいたカミュが気がついたときは火がカーテンに燃え移ろうとしていた。
『ダメ!』
気がつくと、火は消し止められていた。否、凍り付いていた。帰宅した母親は、幼いカミュがどうやって火を消したのか不審に思いながらも無事でよかった。少しの間だけ、と思ったけど、一人にしてごめんね、と頬ずりしてくれた。
けれど。
けれど…。
あの日から。母親が、カミュを見るときの目が、どことなく怯えているように見えるのは気のせいだろうか。
『ママンが悪いんじゃない。悪いのは、僕の、この力なんだ…』
それからも、ふとしたとき、カミュの手から雪の結晶が零れ出たり、目が覚めたらベッドの下に雪が積もっていることがあった。カミュは、それらをすべて、自分のせいにして、自分を責めた。
『やっぱり僕はおかしいんだろうか…』
見た目ではなく、その力が。普通の人間ならもっていない筈の力。しかも、自分では調節できない力。
『怖い…。僕…。どうなっちゃうんだろう…』
その時。
「悪魔が居るぜ!」
声がした。
振り向くと、夜遊びの帰りなのだろう。カミュが住んでいた辺りは、家庭によっては子どもが外で何をしているのか、ほったらかしの場合も多いのだ。
「こんな夜更けに何してんだ、おチビさんよお」
年嵩の少年も複数混じっていた。怯えるカミュを遠巻きにしながら、少年たちは好き勝手なことを言い始めた。
「月に誘われて出て来たんだろう?」
「っていうか、あれ、お前の力? あんな月、初めて見るんだけど」
「ね、言った通りでしょ。髪も眼も尋常じゃない色してる奴が近所に居る、って」
「確かにな…」
グループの中で一番年上らしい少年が頷いた。
「気味が悪ィなー。こんなに赤い眼なんて見たことねーし、赤毛にしたって、ここまで、ってのはなァ」
「邪眼だぜ。こいつのおふくろさんは金髪碧眼だし」
「ホントの母親じゃねーんじゃねえのー?」
言葉がナイフになって、次々とカミュの心を切り裂いていった。どくんどくん、と心臓の鼓動が速まり、手のひらから雪の結晶が零れ落ちるのが分かった。
グッと、手を握りしめ、少年たちの目から隠すとカミュは叫んだ。
「ぼく…僕は、ママンの子だよ!」
「はっ。どうだか。まあ、仮に母親は人間だとして、あんたの父親はどうよ? どこに居るわけ? どんな奴だよ」
ドッと笑い声が起こった。カミュは唇を噛みしめた。
次々に投げつけられる言葉の暴力に、カミュが負けそうになったとき。
「その子は、お前たちと同じ、人間だ」
気がつくと、すらりとした銀髪の少年が傍に立っていた。気配をまるで感じなかった少年たちもカミュも驚いてその少年を見つめていた。
「だ、誰だ?」
「知ってどうする?」
少年が微笑んだ…ようにカミュには見えた。
「ここでは、名前など、単なる記号に過ぎない。悪いが君たちに教える名は持ち合わせていないのでね」
「何」
「キザな野郎だ!」
「この赤毛の知り合いなのかよ」
カミュがびっくりして、少年を振り返った。
「違う」
銀髪の少年はゆっくりと答えた。
「が、これから知り合いになる予定だ。だから、君たちの相手をしている暇は無い」
「何だ、こいつ。何言ってんだ」
「頭、おかしいんじゃねえの?」
「これから知り合う、ってどういうことだよ?」
リーダー格の少年が、それらを代弁するように銀髪の少年を睨め付けた。
「…人間は、自分が理解出来ないものに対峙すると、自動的に相手を侮蔑して己の優位性を保とうとすると聞くが、お前たちはまさにその典型だな」
「はあ? こいつ、マジでおかしいんじゃねえの?」
「私は至って正気だよ。カミュは、私が連れて行く。ずっと、この子を探していた。かけがえのない子だ。彼が、居るべき場所へ連れて行く」
えっ、と、カミュは少年を見つめた。自分は彼に名前を言っていない。それなのに、何故、彼は僕の名前を知っているんだろう…。
次に気がついたときにはギリシャ・聖域(サンクチユアリ)に居た。
そのときになって初めて、銀髪の少年は優しく『自分はサガと言うのだ』と名乗った。
***
「あのとき、サガが来てくれなかったら、私は凍気の制御を抑えられずに、あの子たちを傷つけていたかもしれない」
サガがカミュを双児宮に引き取って少しした頃、そう言ったのを聞いて、サガが不思議そうに首を傾げた。
「私はむしろ、君があそこまで力を制御出来ていたことの方が不思議だけどね。それに、暴言はあの日だけじゃない。普段から絡まれていたんだろう?」
「う…ん。そうだけど。でも、だからって、凍り付かせていいかっていったらそんなこと、ないと思う。だって、あの人たちにもあの人たちの人生があって、私がそれを狂わせていいってことにはならないんだし」
「でも、君は、聖域(ここ)に連れて来られたことで、人生が大きく変わった。ある意味、私を恨んでるんじゃないかい?」
どうして?とカミュは顔を上げた。
あのとき、サガは自分も『力』をもっているのだ、と言った。「私はね、相手に幻覚をかけられるんだよ」
そして、カミュの存在は数年だけ過ごしたフランスから消え、ここ、ギリシャへ移ったのだった。
「あのまま、フランスで成長していたら、私、いつか誰かを凍死させていたかもしれない。…逆に、本当に『悪魔』として、投獄されていたかもしれないんだもの」
もちろん、聖域に来てもカミュは目立つ存在だった。何よりも人目を惹かずにいられない、美しい髪、そして瞳。カミュが意識していなくても、血が透けているかのような赤い瞳に見つめられると、大抵の者はドギマギしてしまうのだ。
時々、それを考えるとカミュはここにも自分の居場所は無いのかと思うことがあった。
そんなカミュを気遣って、サガがギリシャ語の練習からレッスンを始めた。他の候補生からは贔屓だ、という声もあがったが、サガは気にしなかった。カミュの技は他の聖闘士はかなり違う。意思の疎通ができなければ、カミュは怯えていたずらに力を暴走させてしまうだろう。果てはそのために、せっかくの力が埋もれてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
「ミロっていう子がね。髪の毛引っ張って、『それ本物?』って言って来たの。すごく乱暴。どうしてほっといてくれないんだろう。ご飯のときも人参食べてたら、『お前やっぱり兎みたいだな』って。自分が嫌いだからって、人を攻撃するっておかしいよ。アイオロスが『お前こそ好き嫌いすんな』って言ってくれたけど…」
闘技場に通うようになってから、少しずつ聖域にも慣れて来たカミュは、一日の終わりにその日あった出来事を逐一サガに報告するようになった。
「ミロか…。あの子はなかなか社交的だからな。多分、君のことが気に入ったんじゃないかな」
「えっ。だって、ミロは私が嫌がることばかり言うんです」
「はは…。それは、君の気を惹きたいからだよ。嫌がってないで、一度きちんと話を聞いてやるといいよ」
サガが笑いながら、カミュにココアの入ったカップを渡した。サガは忙しい。教皇の補佐が主な仕事みたいで、訓練場に居るのは殆どアイオロスだ。ミロもアイオロスの弟のアイオリアもギリシャ生まれのギリシャ育ちだからよく彼に懐いているけれど、カミュはいまいち彼には馴染めなかった。かといって、他の候補生で仲良くなれそうな人物も殆ど居なかった。
『私はサガに稽古をつけてもらいたいのに…』
しかし、そう思っていたのはカミュだけではないみたいで、サガがたまに訓練場に顔を出すと、決まってアフロディーテやシュラ、デスマスクが寄っていくので、その中に割り込んでいく勇気がカミュには出せなかったのだ。
サガは、そんなカミュにも気遣いを見せて、魚座の候補生に声をかけた。
「アフロディーテ。知っていると思うけど、この子は水瓶座のカミュ。近いうちにお前の宮の隣に入るからよろしく頼む。あ、シュラもな」
そう言うサガに、デスマスクが『えー。俺には世話させないつもりかよお、サガ。ハッキリ言って、この二人より、俺の方がよっぽど面倒見はいいぞお』などと言って周囲を笑わせていた。
『ムウやシャカ、って人も最初に紹介されたけど、あんまり目にしないな…。どこで稽古してるんだろう…』
カミュがそんなことを考えていると。
「ムウもシャカも基本一人でトレーニングするのが好きだからね。特にムウはもうジャミールに行っちゃったんじゃないかな。シャカも基本、インドに居る方が多いしね」
アフロディーテが見透かしたように話しかけてきた。驚くカミュに。
「君だって、そうだろう? ここよりも、双児宮に居る時間の方が長いんじゃないの?」
「え、でも。双児宮は聖域の中にあるし…」
「だって君、もう水瓶座決定なんだろう? 何で宝瓶宮に引っ越して来ないわけ?」
アフロディーテの問いにカミュが答えあぐねていると、サガがカミュを呼んだ。
「帰るよ、カミュ」
その後ろ姿に微かに『贔屓』『お気に入り』といった言葉が風に乗って聞こえてくるのが分かった。知らず、カミュは唇を噛みしめていた。
「ねえ、サガ」
夜。
寝る前にココアを飲んでいたカミュが、サガに声をかけた。
「どうして、人と違うことをしていると、陰口を叩く人が居るんだろう? ここは、『力』をもった人たちの集合体でしょ?それでも、その中でさえ、悪口を言う人が居るのは何故?」
サガが、カミュの眼をじっと見つめた。カミュが決まり悪くなって視線を外しそうになると。
「…だから、じゃないかな」
サガがポツンと答えた。
「え?」
「限られた共同体(コミユニティ)だからこそ、些細なことで揚げ足をとったり、自分に無い能力をもつ者に嫉妬し合ってしまうんじゃないかな。…私は、そう、考えているよ」
聖闘士だって、人間だからね、と言って微笑むサガの顔はどことなく淋しげで。
「サガは…? サガも、そんな風に思ったり、するの?」
カミュが尋ねると。サガはそれには答えず、黙ってコーヒーを飲み干すと『もう寝よう』と、カミュを促した。
***
「…だから平気、です。むしろ、『完璧』と言われていた貴方にも違う一面があったんだ、っていうことが分かって、不遜かもしれないけど…安心しました」
ふふっ、カミュが微笑んだ。
「カミュ…」
「だって。貴方はいつも皆から『神のようだ』って慕われていて、もちろん、それが貴方を形作る大きな要素ではあるのでしょうけれど、でも、完璧な人間なんて居やしない。そう、教えてくれたのは貴方だったから」
いつか、どこかで無理が出るのではないか、心配だった、と言ったあと、少し決まりが悪そうにカミュは付け足した。
「生意気なこと言って、ごめんなさい」
サガは、横たわったままのカミュを黙って見つめてしばらく動かなかった。
「サガ…? サガ。やっぱり何か気に障ること、言っちゃった?あの、サガ…」
すると、サガの手がおずおずと、カミュの額に触れた。乱れかかる赤毛をそっと梳るとサガは囁いた。
「ありがとう…。…これから先、私のどんな姿を見てもお前はもう驚かないね?」
ほっとしたような表情になって、カミュはこくん、と頷いた。
「私が、フランスで、周りから非難されたのは、凍気を操る人間なんて居ない。だから『悪魔だ』ってことにされたからでしょう? でも、聖域(ここ)では、『異能』が『当たり前』で、そして、そうでなければ生きていけない。そんな場所も同時に存在するんだ、って知ってから…」
カミュが、サガの手に頬ずりをした。
「ここを、教えてくれた貴方に。ここに連れてきてくれた貴方に、心から感謝している。世界は、自分が知っている世界だけじゃないんだ、ってことを教えてくれた貴方に」
カミュが、まだ怠さの残る躯を起こして、ソファの片隅に座るサガに寄り添った。そうして、その頬に両手を添えて、囁いた。
「だから、私はサガのもの、です。私はずっと、貴方の背中だけを見つめ、貴方を目標としてきました。そんな私に、貴方のために出来ることがあるならば、言ってください。貴方のことが大好き…だから」
そう言うと、カミュは恥ずかしそうに顔を逸らした。けれど、その手はサガの豊かな髪をゆっくりと撫で続けていた。
慈しむように、いたわるように、心を込めて。
「カミュ」
その手を取って、サガは自分の頬に押し当てた。
「好きだよ…。私も。ずっと、お前が好きだった。でも、お前にだけ好意を示すわけにはいかなかった。けれど、『ギリシャ語を教える』なんていう名目でお前を双児宮に留め置いたのだから、他の候補生たちには、つらく当たられたこともあったかもしれないね」
すまない、と謝るサガに。
「そのお陰で、今日、貴方の一面を知ることができました」
カミュが答えた。
「あの姿を見ても、お前は私を好きだと言ってくれるのかい?」
「あれも、サガです。二面性のない人間なんて居ない、って教えてくれたのはサガでしょう?」
いたずらっぽくカミュが笑った。
「サガ…。私なんかが頼りになるのか分かりませんけど、何かあったらぶつけてくれていいんです。いつも『神のようだ』って言われ続けて、そうして、私生活でもそんな風に振る舞うのは苦しいでしょう?」
私がかつて囚われていた、『自分がおかしいのではないか』という思い込みから解き放ってくれた本人が、今度は逆に二面性に苦しんでいる、なんて矛盾している。そう言ってカミュが、サガの頬にそっと触れた。
「私の前では、ありのままのサガで居てください。かつて、私にありのままの自分でいいんだ、って貴方が言ってくださったように…」
どこまでも、ついて行きます、と、カミュがサガの肩口に顔を埋めた。
サガは、そっと、まだ少年らしい華奢な躯をしているカミュをそっと抱きしめた。
「私もだ…。初めてお前を見たときから、お前を他の誰にも渡したくない、と直感で感じていた。お前は、私の宝だ、カミュ」「では、離さないでください…。貴方の行くところへ、どこへでも、連れて行ってください…」
この時点で、カミュは、サガの計画を知らない筈だった。
しかし、何かを察知してはいたのだろう。どこまでも、透みきった眼で自分を見つめるカミュに、サガが静かに言った。
「地獄への道のりになってもか?」
「聖闘士としての道を選んだときからもとより『死』は常に我らが傍にある。そう教えてくださったのは…?」
「私だ。やっぱり物覚えがいいな、お前は」
「貴方こそ」
カミュは、サガに躯をあずけたまま言った。
「サガ…。見てください。月が…。満月だ」
腕の中にカミュを抱いたまま、サガも空を振り仰いだ。
カーテンの隙間からくっきりと晴れ渡った空に月が見えた。
「ああ…。赤い月、だな…」
そう言ってから。
「お前に、似ている…」
カミュが目だけで微笑んだ。
「貴方に出会ったのも、こんな月の夜でした…」
カミュがサガの胸に縋り付いた。
「あのときからずっと…。私は貴方が好きでした…」
カミュを抱く腕に力を込めて、サガも囁いた。
「私もだ…。あのときから、ずっと、お前を、愛していた…」
「サガ…」
***
サガは、窓の外を見た。あいにく今夜は曇っていて、月も星も見えない。ただ、それは確実にそこに在るのだ。雲に隠されて、見えないだけで。
いくつもの戦いを経て、再びこの世に生を享けた。
それはまさに、女神のなす奇蹟。
『このつかの間の命を。カミュ。お前を慈しみ、愛おしみ、愛すると誓おう。つらい思いをさせすぎてしまった。それが、私に出来る、せめてもの償い…』
「…サガ…?」
不意にカミュが目を覚ました。見つめすぎてしまったかもしれない。
「どうか、しましたか?」
サガは、カミュを安心させるように微笑むと、シーツをかけ直した。
「なんでもないよ…。そう。なんでもないから。…おやすみ。カミュ」
「…おやすみなさい」
カミュが目を閉じた。かと思うと、直ぐにまた赤い瞳をサガに向けて。
「サガ。手を握ってください」とせがんだ。
ふふっとサガが笑った。
「子どもみたいなことを言う…」
「嫌なんだ。次に目覚めたら、これは全部夢で、貴方はやっぱりどこかへ行ってしまってて、まだタルタロスの中で永遠に彷徨い続けているんだ、って気持ちになるのが」
「カミュ」
だから、手を離さないで…と言うカミュを、サガは強く抱きしめる。
「夢じゃない。夢じゃないよ、カミュ。済まない…。お前には本当につらい思いをさせた。でも、ここは聖域で、私もお前もちゃんと存在しているから…。だから…。ゆっくりおやすみ…」
サガは、カミュの傍に寄り添いながら、月のない空を見続けていた。
『雲で隠れて見えなくても、確実にその上には月も星も在る。真実、というものも、同じようなものなのかもしれない…』
そして、カミュに視線を落とした。
『けれど、再び手にしたこの宝石を、二度と再び手放すことは無い…』
強く、自分に言い聞かせながら、サガはしばし、空を睨み続けていた。
夏目漱石『こころ』より
今年は、『こころ』が発表されてからちょうど百年目に当たるそうです。
『こころ』は、数ある小説の中でもとりわけ好きな作品です。特に今回初めて知ったのですが、これの連載が終了したのがまさに今日、八月十一日なんだそうです。
この日は、自分にとって、ある意味とても長く、とても思い入れのある日なので、その偶然がとても感慨深いです。
『死んだ積りで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍(おど)り上がりました。然し私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるように云って聞かせます。すると私はその一言(いちげん)で直ぐたりと萎(しお)れてしまいます。しばらくして又立ち上がろうとすると、又締め付けられます。何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴りつけます。不可思議な力は冷(ひやや)かな声で笑います。自分で能(よ)く知っている癖にと云います。私は又ぐたりとなります。
波瀾(はらん)も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思ってください。』
『私がこの牢屋の中(うち)に凝(じつ)っとしている事がどうしても出来なくなった時、又その牢屋をどうしても突き破る事が出来なくなった時、必竟(ひつきよう)私にとって一番楽な努力で遂行出来るものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。』
この描写に、私はすごく共感します。
何故、人は自殺するのか?
例えば。
一人の人間がある人間に一つ、小石を投げつけたとします。その程度なら、致命傷にはなりえないとしても。
百人が、それぞれ小石を持って、同時に一人の人間に投げつけたら?
『自分一人がしてることは、人を苦しめるような行為じゃない』。でも、そう思う人が数百人集まったら?
当然それは相手に対する致命傷になりかねません。
人が自ら命を絶つまでには、それぞれさまざまな思いがあるだろうし、本当の理由は遺された人間がいくら考えても憶測に過ぎません。
『こころ』では、『先生の遺書』という形で、先生が何故自殺をするに至ったか描写されていますが、殆どの場合、そこまで余裕のある『死』というのはなかなか無いのではないかなあ、と私は思っています。
自分だったらですね。いろんなことが積み重なって、臨界点を超えたある瞬間。『死にたい!』『死んじゃえ!』『死んでもいいかなぁっ』って、衝動的に高い所から飛び降り、というのが一番可能性高い気がします。いや、今、死にたいとかまでは思い詰めてませんけど。でも、人間、いつ、何がきっかけで爆発するか分からないわけで。(そう思うんなら、心に余裕があるときにちゃんと『遺書』書いておいた方がいいのかな)
ただ、突発的な自殺に見えても、遺された人間が『多分、これが原因で?』と推測できる要因は今の時代、多々残ってしまうと思うんですけれど。
本人が何も言わなくてもね。情報は残りますから。
私一人が消えても誰も困らないし、日々、いろいろ『嫌んなっちゃうなあ』と思うことはありますけど、今の所、大過なく過ごせている、ささやかで小さな、この自分の世界を、私は愛しいと思っているので、昔ほど『思い詰める』ということは無くなったのですが。そして、それを壊す権利は、私が意図的に誰かを傷つけていない以上、誰にも無い、と思うのですが。もっと『生きていること』を普通に楽しみたい、と、切に願います。健康で、ご飯が美味しくて、寝る前に少しだけ趣味の時間でリフレッシュができれば、それだけで幸せ。ただ、それだけなのですけれども。
再度書きますが、『このまま消えちゃってもいいかなあ』というところまで、一人の人間が思い詰めるに至る原因については、本当に人それぞれでしょう。
でも、私にも言えますが、自分が投げている小さな石が実は、その人にとって、崖っぷちに立っている背中を押してしまう、最後の石だったかもしれない、ということは、いろいろな人が考えていく必要があると思うのです。実生活においても、仮想世界においても。
特に、ネットへの書き込みは消えないですからね。匿名で話していても、人が命を絶つほどの事態になったら、追及はされると思うのですよ。
☆重い話題だけではなんですので、水瓶座(カミュ先生)に関する話題も一つ。今日八月十一日はこんな日だそうです。
今回の満月は「スーパームーン」! 1年の中で、月が一番大きく見え、月のパワーも大きくなると考えられているタイミングです。
今回の満月が起こる場所は水瓶座。いつでも未来を見つめ、博愛主義的な精神で社会やコミュニティーがよくなることを理想とする革新的な星座です。この満月は、常に新しいものを追い求める水瓶座エネルギーで、心の深いところから「よりよい自分」への変化や改革が促されます。スーパームーンのパワーもプラスされて、いつもより自由にさまざまな発想を得ることができ、自分や他人を縛る思い込みや悪い習慣を捨てられる絶好の日となります。(ネット占い。水瓶座のあなたへ)
でも、この月が見られるベストな時間って、十一日の未明(午前三時頃)だそうで。起きていられるかっというのと、起きてても台風で見えません、という悲しい事態。
でも、『水瓶座』というキーワードを目にするだけで、心浮き立つ私。大丈夫。まだ、大丈夫。
いろいろと、気分の浮き沈みはあっても、水瓶座!という響きに反応する力があるのですから、自分の中におけるカミュ先生の占める割合のなんと高いことよ…と、しみじみ感じます。けど、そういう自分を客観的に見ている自分も居ます。
しかし。先日の水瓶座流星群のときも曇りで、まあ、あれは晴れていても、観測はかなり難しかったと思うのですが。今回は、よりによって台風とは…。ただ、訳あって、日記だけは今日、『八月十一日』にUPしたかったんです。たとえ、台風が来てても来なくても。
『こころ』と併せて。
そして、雲の上にはいつでも月があって、星があると考えると、空っていいなと思います。
と、いうことで、今回、本当は、日記だけで終わりにしようかと思ったのですが、久しぶりにサガカミュ書いたので、一緒にUPすることにしました。サガと仔カミュの組み合わせはやっぱりいいなあ。
水瓶座流星群日記で、『更新待ってます』ってコメントくださったG様、いつもありがとうございます。すごく励まされました!そして、その他の方々にも。今後、何回更新出来るか分からないので、お伝えしておきます。
『ありがとうございました』。
さて。サガカミュですが。サガは年上の落ち着きで、小さいカミュの怯えとかを優しく包み込んでくれるといい。でもって、成長していくにつれ、カミュ先生の方でも、憧れであり、目標でもあったサガの苦しみや二面性に気づき、でもそれを丸ごと受け止めて、信頼し合う仲間になる、とか考えると、十二宮戦における先生の立ち位置とかも何となく納得がいくのです。
カミュ先生が、偽教皇の正体を知っていたかどうかについて、知っていた・知っていない、では二次創作の書き方が変わると思います。基本的にうちでは、『知っていた』んじゃないか、でもだとしたら何故黙っていたのか?その辺に焦点を当てて、想像で書いていますので、ご了承ください。
見えない真実
『あれは、いつ頃のことだっただろう…』
サガは、傍らで規則正しい寝息を立てているカミュをそっと見つめながら回想に耽っていた。
***
「…っ。サガ?!」
割れたティーカップ。蹲る人影。苦しそうに喘ぐ、その人物の髪は、カミュが見ている前で徐々に色を変えていく。
「サガ…?」
囁くように問いかけると、テーブルの向こうからむくり、と人影が立ち上がるのが分かった。
「サガ…」
黒い、髪。血走ったような赤い、瞳。でもその容貌は…。
人影がス…と、カミュに歩み寄って来た。
大きな手が、カミュの細い首にかかる。
「…っ」
ギリリ…と、指先が首に食い込む。苦しい。助けて。サガ。いや、自分の首を絞めているのはまさのそのサガなのだった。
カミュはフッと、躯の力を抜いた。サガになされるがままに。サガは驚いたらしく、カミュの首から手を離した。
途端に、カミュが咳き込む。霞む目でサガを見ようとしたが、カミュはそのまま意識を失ってしまった。
気がついたら、ソファに寝かされていた。そして、心配そうに自分を見つめるサガの瞳。
「サガ…」
掠れた声でカミュが呟いた。サガが、安堵の表情を浮かべる。しかし、それはすぐに消え、変わって眉間に皺が寄った。
「カミュ…」
サガが口を開いた。けれど、言葉にならない。何故? だって、自分はさっきこの子の首を絞めたのだ。ヘタをしたら殺すところだった。そんな場合、一体何を口に出せるだろう。
「サガ…」
カミュの声は、掠れてはいたが、先ほどよりはだいぶ楽になったらしく、滑らかな発音に戻っていた。
「私は、大丈夫、だから」
その言葉にサガが目を見開いた。
「だから言って? サガがどうして欲しいのかを。私はその通りにするから」
そういってカミュは淡く微笑んだ。サガは、カミュを凝視したあとポツンと言った。
「さっきの…。私の姿を見ただろう?」
無言で頷くカミュ。
「浅ましい、姿だ。あれになったとき、私は理性を失い、ただ感情のままに行動してしまう。お前の首を絞めるなど…。どうかしていた」
カミュは黙って聞いていた。
「だが、信じて欲しい。お前を傷つけるつもりは無かった。どうかしていたんだ…」
横たわったまま、カミュがそっと、サガの頭に手を乗せた。「あれはサガだよ」
「カミュ…」
「ねえ、どうして、黙っていたの? 一人で抱え込んでいたの?つらかった…でしょ?」
「な…」
カミュは理由を訊かなかった。自分の首を絞め、なおかつ、見た目がガラリと変化してしまった自分のことについて。
「…私が怖くないのかい?」
「…怖くない。驚いたけど。だって、サガはサガだもの。私の好きなサガだもの。だから、サガが、何も言わず、一人で苦しんでいたことに気づけなかった自分がむしろ許せない」
「私はお前の首を絞めて、殺そうとしたんだよ?」
「うん。それは…怖かった。…だけど、サガに殺されるならいいか、って思ったんだ」
「何故」
サガが問うと、カミュがはにかむように答えた。
「サガは、恩人だから。サガが来てくれなかったら、私、多分、フランスで死んでいたよ。それを、救ってくれた。サガに助けてもらった命だから、サガを救えるのなら、私は死んだって構わないよ」
***
「赤毛の悪魔!」
最初にそう叫んだのは隣に住んでいた金髪碧眼の少年だった。体つきも年の割に大きく、近所のリーダー格だったと記憶している。
逃げようとするカミュを、後ろに回り込んでいた別の少年が捕まえた。
「見ろよ、こいつの眼! 兎みたいに真っ赤っか。髪にしたって、不自然なほどの色だよな。こいつ、化けモンだって、母ちゃんが言ってたぜ」
グイ、と顔を仰向けにされて、眼を覗き込まれる。
「血も赤いんかな」
ふいに、また別の少年が口を挟んできた。カミュは囚われたまま、必死でもがいた。
「悪魔なら緑の血が流れてるっていうけどな。どうだかな…。試してみるか?」
フフッと笑って、一人目の少年がナイフを取り出した。カミュが叫んだ。
「嫌! 何するの!」
騒ぎを聞きつけて、近くに居た大人がやって来た。カミュを捕まえていた少年たちはバラバラと散って行った。
けれど…。
その夜、カミュはなかなか寝付けなかった。
『悪魔の子』
『血も赤いんかな』
『緑の血が流れてるっていうぜ』
外は満月だった。ハッとしてカミュは窓辺に寄った。
赤い。
赤い満月だった。
思わずカミュは外へフラフラとさまよい出ていた。白い寝間着のまま。
外は満月のせいか、やけに明るく、そしてその月はどこか見る者の心を惹きつけてやまないような不思議な光を放っていた。
『ルナ・ロッサ』
赤い月。
でも、こんなに見事なのは初めてだ。
カミュの脳裏に昼間の台詞がフラッシュバックした。
『あんなことがあった日に、こんな月を見るなんて。なんだか、偶然じゃないみたいだ…』
少年たちにはばれなかったし、母親も知らないようだったが、カミュには秘密があった。
感情が高ぶると、自分の周りの空気を冷やしてしまう。果ては凍らせてしまうことがあるのだ。
一度、母親が不在だったときに。暖炉から火の粉が散って、たまたま傍にあった毛糸に火がつき、危うく火事になりかけたことがあった。
カミュが自分の能力に気がついたのはそのときだった。
「わ!」
覚え立ての言葉で絵本を読んでいたカミュが気がついたときは火がカーテンに燃え移ろうとしていた。
『ダメ!』
気がつくと、火は消し止められていた。否、凍り付いていた。帰宅した母親は、幼いカミュがどうやって火を消したのか不審に思いながらも無事でよかった。少しの間だけ、と思ったけど、一人にしてごめんね、と頬ずりしてくれた。
けれど。
けれど…。
あの日から。母親が、カミュを見るときの目が、どことなく怯えているように見えるのは気のせいだろうか。
『ママンが悪いんじゃない。悪いのは、僕の、この力なんだ…』
それからも、ふとしたとき、カミュの手から雪の結晶が零れ出たり、目が覚めたらベッドの下に雪が積もっていることがあった。カミュは、それらをすべて、自分のせいにして、自分を責めた。
『やっぱり僕はおかしいんだろうか…』
見た目ではなく、その力が。普通の人間ならもっていない筈の力。しかも、自分では調節できない力。
『怖い…。僕…。どうなっちゃうんだろう…』
その時。
「悪魔が居るぜ!」
声がした。
振り向くと、夜遊びの帰りなのだろう。カミュが住んでいた辺りは、家庭によっては子どもが外で何をしているのか、ほったらかしの場合も多いのだ。
「こんな夜更けに何してんだ、おチビさんよお」
年嵩の少年も複数混じっていた。怯えるカミュを遠巻きにしながら、少年たちは好き勝手なことを言い始めた。
「月に誘われて出て来たんだろう?」
「っていうか、あれ、お前の力? あんな月、初めて見るんだけど」
「ね、言った通りでしょ。髪も眼も尋常じゃない色してる奴が近所に居る、って」
「確かにな…」
グループの中で一番年上らしい少年が頷いた。
「気味が悪ィなー。こんなに赤い眼なんて見たことねーし、赤毛にしたって、ここまで、ってのはなァ」
「邪眼だぜ。こいつのおふくろさんは金髪碧眼だし」
「ホントの母親じゃねーんじゃねえのー?」
言葉がナイフになって、次々とカミュの心を切り裂いていった。どくんどくん、と心臓の鼓動が速まり、手のひらから雪の結晶が零れ落ちるのが分かった。
グッと、手を握りしめ、少年たちの目から隠すとカミュは叫んだ。
「ぼく…僕は、ママンの子だよ!」
「はっ。どうだか。まあ、仮に母親は人間だとして、あんたの父親はどうよ? どこに居るわけ? どんな奴だよ」
ドッと笑い声が起こった。カミュは唇を噛みしめた。
次々に投げつけられる言葉の暴力に、カミュが負けそうになったとき。
「その子は、お前たちと同じ、人間だ」
気がつくと、すらりとした銀髪の少年が傍に立っていた。気配をまるで感じなかった少年たちもカミュも驚いてその少年を見つめていた。
「だ、誰だ?」
「知ってどうする?」
少年が微笑んだ…ようにカミュには見えた。
「ここでは、名前など、単なる記号に過ぎない。悪いが君たちに教える名は持ち合わせていないのでね」
「何」
「キザな野郎だ!」
「この赤毛の知り合いなのかよ」
カミュがびっくりして、少年を振り返った。
「違う」
銀髪の少年はゆっくりと答えた。
「が、これから知り合いになる予定だ。だから、君たちの相手をしている暇は無い」
「何だ、こいつ。何言ってんだ」
「頭、おかしいんじゃねえの?」
「これから知り合う、ってどういうことだよ?」
リーダー格の少年が、それらを代弁するように銀髪の少年を睨め付けた。
「…人間は、自分が理解出来ないものに対峙すると、自動的に相手を侮蔑して己の優位性を保とうとすると聞くが、お前たちはまさにその典型だな」
「はあ? こいつ、マジでおかしいんじゃねえの?」
「私は至って正気だよ。カミュは、私が連れて行く。ずっと、この子を探していた。かけがえのない子だ。彼が、居るべき場所へ連れて行く」
えっ、と、カミュは少年を見つめた。自分は彼に名前を言っていない。それなのに、何故、彼は僕の名前を知っているんだろう…。
次に気がついたときにはギリシャ・聖域(サンクチユアリ)に居た。
そのときになって初めて、銀髪の少年は優しく『自分はサガと言うのだ』と名乗った。
***
「あのとき、サガが来てくれなかったら、私は凍気の制御を抑えられずに、あの子たちを傷つけていたかもしれない」
サガがカミュを双児宮に引き取って少しした頃、そう言ったのを聞いて、サガが不思議そうに首を傾げた。
「私はむしろ、君があそこまで力を制御出来ていたことの方が不思議だけどね。それに、暴言はあの日だけじゃない。普段から絡まれていたんだろう?」
「う…ん。そうだけど。でも、だからって、凍り付かせていいかっていったらそんなこと、ないと思う。だって、あの人たちにもあの人たちの人生があって、私がそれを狂わせていいってことにはならないんだし」
「でも、君は、聖域(ここ)に連れて来られたことで、人生が大きく変わった。ある意味、私を恨んでるんじゃないかい?」
どうして?とカミュは顔を上げた。
あのとき、サガは自分も『力』をもっているのだ、と言った。「私はね、相手に幻覚をかけられるんだよ」
そして、カミュの存在は数年だけ過ごしたフランスから消え、ここ、ギリシャへ移ったのだった。
「あのまま、フランスで成長していたら、私、いつか誰かを凍死させていたかもしれない。…逆に、本当に『悪魔』として、投獄されていたかもしれないんだもの」
もちろん、聖域に来てもカミュは目立つ存在だった。何よりも人目を惹かずにいられない、美しい髪、そして瞳。カミュが意識していなくても、血が透けているかのような赤い瞳に見つめられると、大抵の者はドギマギしてしまうのだ。
時々、それを考えるとカミュはここにも自分の居場所は無いのかと思うことがあった。
そんなカミュを気遣って、サガがギリシャ語の練習からレッスンを始めた。他の候補生からは贔屓だ、という声もあがったが、サガは気にしなかった。カミュの技は他の聖闘士はかなり違う。意思の疎通ができなければ、カミュは怯えていたずらに力を暴走させてしまうだろう。果てはそのために、せっかくの力が埋もれてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
「ミロっていう子がね。髪の毛引っ張って、『それ本物?』って言って来たの。すごく乱暴。どうしてほっといてくれないんだろう。ご飯のときも人参食べてたら、『お前やっぱり兎みたいだな』って。自分が嫌いだからって、人を攻撃するっておかしいよ。アイオロスが『お前こそ好き嫌いすんな』って言ってくれたけど…」
闘技場に通うようになってから、少しずつ聖域にも慣れて来たカミュは、一日の終わりにその日あった出来事を逐一サガに報告するようになった。
「ミロか…。あの子はなかなか社交的だからな。多分、君のことが気に入ったんじゃないかな」
「えっ。だって、ミロは私が嫌がることばかり言うんです」
「はは…。それは、君の気を惹きたいからだよ。嫌がってないで、一度きちんと話を聞いてやるといいよ」
サガが笑いながら、カミュにココアの入ったカップを渡した。サガは忙しい。教皇の補佐が主な仕事みたいで、訓練場に居るのは殆どアイオロスだ。ミロもアイオロスの弟のアイオリアもギリシャ生まれのギリシャ育ちだからよく彼に懐いているけれど、カミュはいまいち彼には馴染めなかった。かといって、他の候補生で仲良くなれそうな人物も殆ど居なかった。
『私はサガに稽古をつけてもらいたいのに…』
しかし、そう思っていたのはカミュだけではないみたいで、サガがたまに訓練場に顔を出すと、決まってアフロディーテやシュラ、デスマスクが寄っていくので、その中に割り込んでいく勇気がカミュには出せなかったのだ。
サガは、そんなカミュにも気遣いを見せて、魚座の候補生に声をかけた。
「アフロディーテ。知っていると思うけど、この子は水瓶座のカミュ。近いうちにお前の宮の隣に入るからよろしく頼む。あ、シュラもな」
そう言うサガに、デスマスクが『えー。俺には世話させないつもりかよお、サガ。ハッキリ言って、この二人より、俺の方がよっぽど面倒見はいいぞお』などと言って周囲を笑わせていた。
『ムウやシャカ、って人も最初に紹介されたけど、あんまり目にしないな…。どこで稽古してるんだろう…』
カミュがそんなことを考えていると。
「ムウもシャカも基本一人でトレーニングするのが好きだからね。特にムウはもうジャミールに行っちゃったんじゃないかな。シャカも基本、インドに居る方が多いしね」
アフロディーテが見透かしたように話しかけてきた。驚くカミュに。
「君だって、そうだろう? ここよりも、双児宮に居る時間の方が長いんじゃないの?」
「え、でも。双児宮は聖域の中にあるし…」
「だって君、もう水瓶座決定なんだろう? 何で宝瓶宮に引っ越して来ないわけ?」
アフロディーテの問いにカミュが答えあぐねていると、サガがカミュを呼んだ。
「帰るよ、カミュ」
その後ろ姿に微かに『贔屓』『お気に入り』といった言葉が風に乗って聞こえてくるのが分かった。知らず、カミュは唇を噛みしめていた。
「ねえ、サガ」
夜。
寝る前にココアを飲んでいたカミュが、サガに声をかけた。
「どうして、人と違うことをしていると、陰口を叩く人が居るんだろう? ここは、『力』をもった人たちの集合体でしょ?それでも、その中でさえ、悪口を言う人が居るのは何故?」
サガが、カミュの眼をじっと見つめた。カミュが決まり悪くなって視線を外しそうになると。
「…だから、じゃないかな」
サガがポツンと答えた。
「え?」
「限られた共同体(コミユニティ)だからこそ、些細なことで揚げ足をとったり、自分に無い能力をもつ者に嫉妬し合ってしまうんじゃないかな。…私は、そう、考えているよ」
聖闘士だって、人間だからね、と言って微笑むサガの顔はどことなく淋しげで。
「サガは…? サガも、そんな風に思ったり、するの?」
カミュが尋ねると。サガはそれには答えず、黙ってコーヒーを飲み干すと『もう寝よう』と、カミュを促した。
***
「…だから平気、です。むしろ、『完璧』と言われていた貴方にも違う一面があったんだ、っていうことが分かって、不遜かもしれないけど…安心しました」
ふふっ、カミュが微笑んだ。
「カミュ…」
「だって。貴方はいつも皆から『神のようだ』って慕われていて、もちろん、それが貴方を形作る大きな要素ではあるのでしょうけれど、でも、完璧な人間なんて居やしない。そう、教えてくれたのは貴方だったから」
いつか、どこかで無理が出るのではないか、心配だった、と言ったあと、少し決まりが悪そうにカミュは付け足した。
「生意気なこと言って、ごめんなさい」
サガは、横たわったままのカミュを黙って見つめてしばらく動かなかった。
「サガ…? サガ。やっぱり何か気に障ること、言っちゃった?あの、サガ…」
すると、サガの手がおずおずと、カミュの額に触れた。乱れかかる赤毛をそっと梳るとサガは囁いた。
「ありがとう…。…これから先、私のどんな姿を見てもお前はもう驚かないね?」
ほっとしたような表情になって、カミュはこくん、と頷いた。
「私が、フランスで、周りから非難されたのは、凍気を操る人間なんて居ない。だから『悪魔だ』ってことにされたからでしょう? でも、聖域(ここ)では、『異能』が『当たり前』で、そして、そうでなければ生きていけない。そんな場所も同時に存在するんだ、って知ってから…」
カミュが、サガの手に頬ずりをした。
「ここを、教えてくれた貴方に。ここに連れてきてくれた貴方に、心から感謝している。世界は、自分が知っている世界だけじゃないんだ、ってことを教えてくれた貴方に」
カミュが、まだ怠さの残る躯を起こして、ソファの片隅に座るサガに寄り添った。そうして、その頬に両手を添えて、囁いた。
「だから、私はサガのもの、です。私はずっと、貴方の背中だけを見つめ、貴方を目標としてきました。そんな私に、貴方のために出来ることがあるならば、言ってください。貴方のことが大好き…だから」
そう言うと、カミュは恥ずかしそうに顔を逸らした。けれど、その手はサガの豊かな髪をゆっくりと撫で続けていた。
慈しむように、いたわるように、心を込めて。
「カミュ」
その手を取って、サガは自分の頬に押し当てた。
「好きだよ…。私も。ずっと、お前が好きだった。でも、お前にだけ好意を示すわけにはいかなかった。けれど、『ギリシャ語を教える』なんていう名目でお前を双児宮に留め置いたのだから、他の候補生たちには、つらく当たられたこともあったかもしれないね」
すまない、と謝るサガに。
「そのお陰で、今日、貴方の一面を知ることができました」
カミュが答えた。
「あの姿を見ても、お前は私を好きだと言ってくれるのかい?」
「あれも、サガです。二面性のない人間なんて居ない、って教えてくれたのはサガでしょう?」
いたずらっぽくカミュが笑った。
「サガ…。私なんかが頼りになるのか分かりませんけど、何かあったらぶつけてくれていいんです。いつも『神のようだ』って言われ続けて、そうして、私生活でもそんな風に振る舞うのは苦しいでしょう?」
私がかつて囚われていた、『自分がおかしいのではないか』という思い込みから解き放ってくれた本人が、今度は逆に二面性に苦しんでいる、なんて矛盾している。そう言ってカミュが、サガの頬にそっと触れた。
「私の前では、ありのままのサガで居てください。かつて、私にありのままの自分でいいんだ、って貴方が言ってくださったように…」
どこまでも、ついて行きます、と、カミュがサガの肩口に顔を埋めた。
サガは、そっと、まだ少年らしい華奢な躯をしているカミュをそっと抱きしめた。
「私もだ…。初めてお前を見たときから、お前を他の誰にも渡したくない、と直感で感じていた。お前は、私の宝だ、カミュ」「では、離さないでください…。貴方の行くところへ、どこへでも、連れて行ってください…」
この時点で、カミュは、サガの計画を知らない筈だった。
しかし、何かを察知してはいたのだろう。どこまでも、透みきった眼で自分を見つめるカミュに、サガが静かに言った。
「地獄への道のりになってもか?」
「聖闘士としての道を選んだときからもとより『死』は常に我らが傍にある。そう教えてくださったのは…?」
「私だ。やっぱり物覚えがいいな、お前は」
「貴方こそ」
カミュは、サガに躯をあずけたまま言った。
「サガ…。見てください。月が…。満月だ」
腕の中にカミュを抱いたまま、サガも空を振り仰いだ。
カーテンの隙間からくっきりと晴れ渡った空に月が見えた。
「ああ…。赤い月、だな…」
そう言ってから。
「お前に、似ている…」
カミュが目だけで微笑んだ。
「貴方に出会ったのも、こんな月の夜でした…」
カミュがサガの胸に縋り付いた。
「あのときからずっと…。私は貴方が好きでした…」
カミュを抱く腕に力を込めて、サガも囁いた。
「私もだ…。あのときから、ずっと、お前を、愛していた…」
「サガ…」
***
サガは、窓の外を見た。あいにく今夜は曇っていて、月も星も見えない。ただ、それは確実にそこに在るのだ。雲に隠されて、見えないだけで。
いくつもの戦いを経て、再びこの世に生を享けた。
それはまさに、女神のなす奇蹟。
『このつかの間の命を。カミュ。お前を慈しみ、愛おしみ、愛すると誓おう。つらい思いをさせすぎてしまった。それが、私に出来る、せめてもの償い…』
「…サガ…?」
不意にカミュが目を覚ました。見つめすぎてしまったかもしれない。
「どうか、しましたか?」
サガは、カミュを安心させるように微笑むと、シーツをかけ直した。
「なんでもないよ…。そう。なんでもないから。…おやすみ。カミュ」
「…おやすみなさい」
カミュが目を閉じた。かと思うと、直ぐにまた赤い瞳をサガに向けて。
「サガ。手を握ってください」とせがんだ。
ふふっとサガが笑った。
「子どもみたいなことを言う…」
「嫌なんだ。次に目覚めたら、これは全部夢で、貴方はやっぱりどこかへ行ってしまってて、まだタルタロスの中で永遠に彷徨い続けているんだ、って気持ちになるのが」
「カミュ」
だから、手を離さないで…と言うカミュを、サガは強く抱きしめる。
「夢じゃない。夢じゃないよ、カミュ。済まない…。お前には本当につらい思いをさせた。でも、ここは聖域で、私もお前もちゃんと存在しているから…。だから…。ゆっくりおやすみ…」
サガは、カミュの傍に寄り添いながら、月のない空を見続けていた。
『雲で隠れて見えなくても、確実にその上には月も星も在る。真実、というものも、同じようなものなのかもしれない…』
そして、カミュに視線を落とした。
『けれど、再び手にしたこの宝石を、二度と再び手放すことは無い…』
強く、自分に言い聞かせながら、サガはしばし、空を睨み続けていた。
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