ビルマでの戦い:終戦知らぬまま死線4カ月「何のため…」

毎日新聞 2014年08月16日 11時57分(最終更新 08月16日 12時25分)

終戦後もビルマの密林をさまよった神田敏彦さん。その体験に長男孝さん(後ろ)も耳を傾けた=福岡県宇美町で、須賀川理撮影
終戦後もビルマの密林をさまよった神田敏彦さん。その体験に長男孝さん(後ろ)も耳を傾けた=福岡県宇美町で、須賀川理撮影
家族に見送られ出征する当時20歳の神田敏彦さん(旧姓留守、前列右から2人目)=1939年、本人提供
家族に見送られ出征する当時20歳の神田敏彦さん(旧姓留守、前列右から2人目)=1939年、本人提供

 ◇福岡・宇美町の94歳・神田さん、初めての証言集

 福岡県宇美町の神田敏彦さん(94)は69年前の夏、ビルマ(現ミャンマー)で運命をともにした多くの同僚を銃弾と病、飢えで失い、終戦を知らぬまま4カ月密林をさまよった。終戦翌年に帰国すると、故郷の街は空襲で傷ついていた。「日本を守るためビルマまで行ったのに。何のための戦争だったのか」。この夏、ぬぐえぬ疑念を初めて証言集に寄せた。【平川哲也】

 色あせた写真に、軍服姿の青年を囲む家族が見える。「万歳で送り出され、出征したのを覚えとります」。20歳から6年間を過ごした海外の戦場を振り返った。

 佐賀県川上村(現佐賀市)生まれ。1939年、福岡県久留米市にあった陸軍の部隊に入営した。翌年に通信兵として中国へ渡った。41年の日米開戦を機に、部隊は戦場を求めるように南進する。行き先はビルマだった。

 部隊には43年、中国に物資を送る連合国軍のルートを断つ命令が下る。日本を離れて3年、戦局は悪化の一途をたどっていた。時を経るごとに物量の差も明白になった。歩兵銃の弾の装てんは5発まで。一方、敵は陸と空から砲弾を無尽蔵に放ち、後退が続いた。同期の通信兵は肩を撃たれて絶命し、神田さんは指だけ切って後方部隊に渡した。マラリアの高熱に倒れる同僚も後を絶たなかった。

 やがて補給が尽き、飢えた。草葉をむさぼり、沢の水を飲んだ。行動をともにした100人以上が終戦間際には十数人まで減り、神田さんは銃と受信機などを捨てた。竹を切り、護衛用のやりとした。「生きて帰る」。それだけを胸に、密林から密林を逃げた。

 終戦から間もなく、大本営は戦闘停止の命令を出している。しかし神田さんにその命令が届いたのは、45年12月、捕虜になってからだった。「なぜ戦闘停止命令が届かなんやろ。結局は無視されていたんか」。逃避行中に息絶えた同僚の顔が浮かぶ。伸びたひげをかきむしった。

 ビルマでは投入された将兵の6割にあたる約18万5000人が死亡したとされる。故郷・佐賀の駅に降り立って空襲の傷痕を目にし、疑念は再びこみ上げた。「日本を守るためビルマに行ったのに、こげな地方まで空襲が及んでいたか」

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