「しあわせストーカー日記」
※著者の希望により、公開にあたって文字使い・表現の一部を修正しております。内容そのものは応募時と変更ありません
1.すべてが嘘でありますように
今年の桜は咲くのが遅いと、ここのところ毎日のように耳にしていた。 起き抜けにつけた昼下がりの情報番組でもその話題はやはり上がっていて、司会のタレントを中心に出演者たちが口々に桜の開花を待ち望むコメントを発している。彼らの姿は、自分たちが情緒的な感性の持ち主だということを世間に誇示しているだけのように、私の目には映らなくもなかった。 稼働率3%程度の寝起きの脳みそでワイドショーの画面を流し見ながら、どこかで彼らが話題にしている桜の話はすべて嘘なのではないかと疑っていた。 「今日の桜の様子」と称されテレビの画面に映った薄桃色のつぼみは実はもう何日も前に撮影されたもので、今や都内各地の桜の名所で花はこぼれんばかりに咲き誇っているのではないだろうか。 昨日までは同じニュースを聞いてもそんなことは微塵も考えなかったのに、急にそんな考えが浮かんできたのは今日が四月一日だからということに他ならなかった。嘘なんて毎日のように吐いたり吐かれたりしている筈なのにエイプリルフールを意識して耳に入る言葉や起こる出来事に対して妙に疑り深くなっている自分がなんだか可笑しかった。一年の中のたった一日にだけ免罪などもらわなくても、私は三百六十四日間を日々悪びれることもなく過ごしているというのに。 寝そべっていたソファから身体を起こして、緑茶のティーパックを開けた。熱湯で淹れた熱いお茶が喉元を過ぎると、私の脳みその稼働率は5%くらいまでアップした気がした。それでもやはり頭はずっしりと重いままで、側頭部は軋む様に痛んだ。左のこめかみあたりの血管の中を粘度の高い不健康な血がどくどくと音を立てて流れていくのが分かるようだ。嗚呼、この二日酔いの不快感も嘘であったらどんなにいいだろうと、昨夜の自分の愚行を恨めしく思いながらお茶を飲み干して空になったカップに再び熱湯を注ぐ。 もっと欲を言えば、昨夜の出来事そのものがまず嘘であればいい。そんなことを考えながら、ベッドの中でまだ寝息を立てている男の子の顔をチラリと見遣った。 大学三年生だという彼は切れ長の目を持つ端正な顔立ちをしていたが、それ以外の感想については私は今も何も持ってはいない。 三杯目の湯を注ぎすっかり白湯と化したお茶を啜っていると唐突に空腹感に襲われた。いつまでもこんなところにいても仕方がないし、外に出て何か適当なものでも食べることに決めてホテルを出る準備を始める。乾燥した空気のせいでカサついた肌にファンデーションだけをおざなりにのせて自分の荷物をまとめ、ホテルのフロントに電話を掛けた。 男の子を置いてひとりで出ていく旨を告げると、確認を取るために男性に代わってくれとフロント係は言った。私は布団にくるまったままの男の子を揺り起こして押し付けるように受話器を渡す。男の子は寝惚けた声で「大丈夫です」という言葉を数回発すると、通話の終わった受話器をベッドの上に無造作に置いた。 「律子ちゃん、もう出ていくの」 薄目を開けてこちらを見上げる彼に私は精一杯の申し訳なさそうな表情を作って対応する。 「ごめんね。そろそろ仕事に行かないといけないの」 いい加減な嘘を吐いて腰掛けていたベッドから立ち上がろうとすると、男の子は私の腕を掴んでそれを制止した。 「仕事は夜からって言ってなかったっけ」 「そうだけど、色々準備もあるし」 「でも、まだ五時前でしょ。一緒にメシでも食おうよ」 「そんな時間ないかも」 「ちょっと待っててくれたらすぐ支度するから」 先程の電話に出させた所為で彼はもうすっかり目を覚ましてしまったようだ。こういう類のホテルではさまざまなトラブルや事件が多いから、フロントが在室や生存の確認を取る為に男女の両方を電話口に出させるのは分かるが、そのルールがあるおかげでこんなやりとりが発生してしまうのは本当にめんどくさい。 「急がせたら悪いからいいよ」 私は相手を気遣うような言い草で男の子の要求を完全に遮断して、顔面の筋肉運動にしか過ぎない笑顔を彼に向ける。 「冷たいね」 彼は掴んでいた私の腕を引いて、自分の身体の方に引き寄せた。 「痛い」 私の小さな悲鳴は無視されている。男の子は上に倒れ込むかたちになった私を抱きしめて乱暴に唇を寄せた。ごめん、彼の口からはそう漏れた気がしたが、なんらかの不明瞭な言葉は次に続いた長いキスの中に溶けてしまった。謝るくせに止める気は微塵も感じられない。抗うのもめんどうになり私も彼の舌に応じた。口腔内を犯されるような激しいキスの途中で、私は彼の舌が驚く程に柔らかいことに気付く。昨夜は酔っていて気が付かなかったのだろうが異性の肉の弾力をこんなにも瑞々しく感じたのは初めてのことだった。 「舌、すごく柔らかいね」 唇を離した後でそう告げると、彼はきょとんとした顔をしている。意外な指摘を受けて面食らったような表情だ。こんな感想をわざわざ伝えてくる女なんてそういないのかもしれない。薄く開いたままの彼の唇の奥には朱鷺色の口内が続いていた。小ぶりな唇から覗く口腔に思春期未満の少女の性器を連想した。少し紫がかって見えるこの淡い桃色は、太陽の光の下ではもっと鮮やかで健康的な色味に映るかもしれない。彼が女だったらこれと同じ色の性器を下半身に持っていたのだろうか。 「気持ちいい」 私はあの新鮮な柔らかさを再び求めて舌を絡めた。彼の方はもう飽きてしまったのかおざなりに舌を動かしながら、私の服の下に手を入れていた。下着をずらされ指で乳首を弾かれると小さく声が漏れた。彼は上体を起こし、私を下に組み敷く。左右の鎖骨がくっきりと浮き上がった細身の体躯が美しい。その上に繋がる小さな顔は改めて見てもやはり文句なく整っていた。いきり立つ獣相手にこんな美辞麗句を並べても仕方がないが、私は彼の器量に惚れ惚れしていた。だけれども、その整った容姿を冷静に認識し分析している私は同時に、自分がちっともこの男の子に心を動かされていないことにも気が付いている。私は自分が彼を好きになっていないことをとても不思議に思う。こんなに素敵な見た目の異性とセックスしていて、どうして相手のことを好きになれないのかは自分でもよく分からなかった。容姿に優れた異性と交接する度に私は決して少なくない優越感を覚えるが、それはいつも機微のない満足に終わる。 私は見栄えの良い異性と交接することが単純に嬉しい。しかし、それは例えば、知性のない成金が大理石の床をやたらと有難がったり、教養のない小金持ちがステイタスのために絵画を蒐集することと似ているように思う。それが人工石でも贋作でも、見抜く審美眼を持ってはいないのに、美しい見栄えで、どうやら価値のあるものらしいということだけで、私は一過性の満足を得るためにそれらに飛びついてしまう。 すべやかな肌を持つ彼は、私が感じた限り脳みそもつるりとして皺一つない印象だった。若さというものは素晴らしい。 愛撫を続ける男の子の頭を見下ろしながらこんなことばかり考えている私は、彼のことを馬鹿にしているのかもしれない。もう成人している男性を「男の子」なんて呼ぶこと自体、相手を軽んじている気がする。飲み屋に通うオッサンがホステスを「女の子」と呼んで愛でるように、決して自分と相手を対等に扱ってはいない感覚。「男の子」はオモチャみたいだ。 私の恥丘を滑り降りていった彼の指がじめっとした体液をすくい、クリトリスに触れる。バターを湯煎しているゴムヘラのように溢れた体液を左右にかき回していく。クリトリスの硬さには芯が感じられなかった。溶けていくバターのような、よく噛んだ後のガムのような、奇妙な硬度を保っている。男性器だったら挿入には不十分な硬さで、彼にこねくり回されているうちに少し痛みを覚えた。もしも私が彼のことを好きだったら、この生殖器官ももっと硬度を増すのだろうか。そんなに単純な話ではないかと思いながらも、今でさえ私は充分に濡れていることを思うと、刺激に律儀な反応をしている自分が浅ましく思え余計に気持ちが萎えた。 男の子の下腹部に目を遣ると、ソフトビニール人形の質感に似た性器がぴょこりと直立していた。そののっぺりとした肌色は彼が持つ朱鷺色の口内と比較すると随分とつまらない色味をしている。いかにも二十歳そこそこの男の子の身体に付いていそうな、元気でチープな生殖器。 「ゴム」 避妊を促すと、彼は私の性器から目線をベッドのヘッドボード付近に向けた。 「もう無い」 「……フロントに電話すればいいじゃん」 「めんどくさい」 「えー、やだよ」 そう言いながらも、私は別に抵抗はしなかった。断片的にしか再生されない記憶ではあるが、昨夜だって私は自分の臍の中に精液が溜まっているのを見た気がする。私の外に出してくれるのであればそこまでうるさく言う必要はないように感じた。 彼が私の中に入って、私はいつも通りの違和感を覚える。皆が気持ち好いというこの摩擦運動に私はあまり快感を覚えない。喉仏にごく弱い力でフローリング掃除用のコロコロ・ローラーをかけられているのと何の変わりも無い。そんな無意味なことは勿論したことが無いが、求める相手がいるのであれば私は快く自分の喉元を差し出すだろう。そして、今と同じように声帯をローリングされて苦しいようなもどかしいような感覚を味わいながら、歪な鳴き声をあげる。 ふいに、男の子の動きが止まった。 「中に出しちゃた」 彼の言葉に頭の中が真っ白になった。男の子は悪びれる様子も無い。 「はあ? ふざけんなよ」 自分でも驚く程の大声で私は彼を怒鳴りつけていた。なぜ、よく知りもしないこの男の子を信用してしまったのだろう。私の罵声を浴びた彼は面食らった顔をしている。こんなことをして、笑って済まされるとでも思っていたのだろうか。信じられない。最悪だ。殺してしまいたい。冷静に処理できない感情に支配され、私が先の言葉に続く罵倒を口にしかけた瞬間、男の子はばつが悪そうに言った。 「嘘だよ」 私は鬼の形相をしているのだろう。彼は私の顔から目を逸らしてそっぽを向いている。 「ちょっと驚かせようと思っただけ。嘘だから、安心して」 それが本当ならばさっきの私の怒りの面相を彼の記憶から消してもらいたいところだが、そういわれた所で相手を罵倒した手前こちらの怒りも「嘘だよ」と弁解するわけにもいかない。 「ごめんね」 謝罪を受けても私はまだ半信半疑だった。不貞腐れたように背を向けて枕に顔を埋めていると、彼は私の背中を揺すった。 「続き、していい?」 男の子は自分の性器を右手で押さえながら申し訳なさそうに言った。本当にまだ途中のようだった。こんな気まずい状況でも中断をすることができない彼の若さを不憫に思いながら、私は単なる穴ぼこと化して男の子が終わるのを待った。この情けなさを吸い取ってくれる掃除機が欲しいと願った。 ひとりでシャワーを浴びて下腹部にかけられた精液を流し、やはりひとりでホテルを出た。エントランスを抜けて数秒もするとあの男の子とのことを遠くに感じた。もはや、さっきまでの出来事も嘘だったかのように思えた。「嘘だ」私は口の中だけで呟く。すると少し気持ちが軽くなって、私の唇からは小さな笑いが漏れた。 ごてごてしたホテルが乱立している路地は入り組んだ迷路のようだ。自分がここにたどりついたルートなんてまったく覚えてはいない。何度も路地の角を曲がった挙句にセックス・トイズと露出狂の為にあるかのようなけばけばしい色のランジェリーを売る店の前に二度も出てしまった時には、もうこの下品な欲望の渦巻くエリアから抜け出せないのではないかと絶望的な気持ちになった。やっとのことで大通りに出てセンター街へと向かう横断歩道で信号待ちをしていると、街路に植えられた桜の木が目に入った。 枝に付いたつぼみはほころんでいるものもあったが、多くはただ薄桃色に膨らんでいるだけの様子で見頃まではまだ時間の要るようだった。さっき見たテレビの中で言われていたことが嘘ではないことが今目の前で証明されている。私はなんだか無性に悲しい気分になった。 春が来たというのに毎日は色褪せたままだ。私は無為に過ぎていく時間に罪悪感と焦燥感を覚えながらも、それらを凌駕する無気力に心を支配されて日々を送っている。私が生きていることが嘘ならば、それが一番いい。 信号を渡ってセンター街を歩いている間中ずっと、目に入るものすべてを「嘘」だと思いながら歩いていた。通りを往来する人々の群れが人間にみえるのは嘘で本当は地球を侵略しに来たネズミ星人の群衆だとか、街角に立っているおばさんがアンケートのキャッチのバイトをしているというのは嘘で本当は秘密結社の人さらいだとか、この通りにバスケットストリートというダサい名前が付いたというのは嘘だとか。 ファーストフード店のオーダー待ちの列で私の前に並んでいたのは可愛らしい女子高生の二人組だった。少女たちは身体を揺らすように始終笑いながら楽しそうにおしゃべりをしている。片方のショートヘアの少女が恋人とのほほえましい出来事をのろけるたびに、ボブヘアの少女は鈴が転がるように笑った。私はボブヘアの少女の後頭部を見下ろしながら、その笑顔が嘘であればいいと思った。彼女はショートヘアの少女の恋人と寝ていて、友人の恋人の汗の匂いも知っている。友人が目を細めて話す彼の口癖についても頭の中でその様子をしっかり再生できるから、今彼女の顔にある笑みとは裏腹に内心冷や汗をかいていてくれればいい。そして幾ばくかの優越感と、何も知らずに彼氏を共有されている友人への哀れみに浸って悦に入っていてくれたりしたらいい。 そんな下らない「嘘」をいくつも勝手にでっち上げてみたところで少しも愉快な気分にはならなかったが、私はただ理由もなく目に入るものや起こる出来事すべての中に偏執的に嘘を見出しては勝手に暴いていくということを続けていた。 だから私は当然、彼を見つけた瞬間にも、これは嘘だと思った。 私を辟易させる喧騒と雑音で溢れた夕方五時のファーストフード店で、胸を高鳴らせるような出来事なんて起こる筈がないのだから。 私の目が彼をとらえた瞬間、目の前でポップアップ式の絵本が開かれ空中に真っ赤なばらの花が飛び出したかのような鮮やかな衝撃が全身を走った。 彼は、階段を上がって真っ直ぐのところに見えるふたり掛けのテーブル席にひとりで腰かけ、少しだけ上げた顔の下に片手をついて、退屈そうに携帯電話の画面を操作している。そのすっきりとした輪郭の中には、神様がうんと時間をかけて選び抜いたかのような美しい顔のパーツがそれぞれ収められていた。 「夢で一度、会ったことがありますよね?」 「はあ?」 「いやいや、ごめんなさい。ずっと夢に見ていたような理想のタイプの方だったので思わず声を掛けてしまいました。良かったら一緒にお茶でもどうですか?」 「うるせーよ、死ね!」 彼を視界に認めながら私は頭の片隅で、以前にそんな馬鹿馬鹿しいナンパを仕掛けてきた男とのやり取りを思い出していた。あの時のナンパ男が言ったセリフはもちろん糞みたいな冗談だが、私は今、自分の視線の先にいる彼に対してそんな糞の足しにもならないような戯言を半ば本気で言ってしまいたい衝動に駆られていた。 一目惚れというのは、幾夜も幾夜も夢見てきた理想的な姿かたちにある日突然出逢ってしまうということなのかもしれない。 私はばらに吸い寄せられる蜜蜂のように、空席だった彼の隣のテーブルに席を取った。 ほんの三十センチの距離を隔てたところに彼がいた。自分の左サイドの視界はばら色の靄がかかっているように淡くぼやけていた。視界の端にいる彼はまだ携帯電話の画面を操作している。意を決して両の眼球だけを左に動かすと、彼の細くて長い指が画面の上をなめらかに滑っているのが確認できた。 私の目は確かに彼の姿を捉えているはずなのに、なぜだか彼の存在が現実にあるものだという確信が持てなかった。それ程に彼は、私が夢見た通りの理想の容姿をしていた。何も、世界一の美形が目の前に現れたとは言わないが、その目鼻立ちや彼を取り巻く雰囲気は、その一つ一つをミクロン単位で分解し検分していったとしても、おそらくすべて私が欲していたものに当てはまるのではないかと感じられた。 わくわくするおとぎ話の世界に突然に放り込まれたようだった。私にはもはや店内にいる派手な色に髪を染めた女子高生の集団も色とりどりの小さなお花が寄り集まってお喋りに興じているように感じられたし、ぼろぼろの身なりで空を見つめる浮浪者さえもとぼけた笑いをまわりに振りまくコミカルな道化のように見えた。 バッグから鏡を取り出し、自分のメイクを確認するふりをして彼の姿が映るように鏡を左側にゆっくりと傾ける。丸い鏡面は月蝕のように少しずつ彼の姿を映していく。綺麗、と私は胸の内で呟いた。彼の姿をこの目が捉えているというだけで嬉しくて涙が溢れそうだった。美しいものはどうしてそれだけで、私の気持ちをこんなにも満たしてくれるのだろう。 彼の年齢は私とそう変わらないように思える。もしかしたら幾らか年上なのかもしれないが、その繊細な顔立ちにはまだ少年の面影が残っているように感じられた。 硬い鏡面の奥に映る彼の姿に人差し指でそっと触れてみる。彼の頬に私の指先が重なった瞬間、これは夢ではなく現実だということを私はしっかりと信じた。今日私が見てきた他の何が嘘であっても、これだけは絶対に本当のことであって欲しいと願った。 そのまま、私はしばらくこの美しい男を映す魔法の鏡に見入っていた。いくら眺めていても飽きるということが無いように思える彼の美しい顔立ちや細い体躯をうっとりと眺めていると、不意に彼の姿が鏡の中から消えた。私はあわてて魔力を失った鏡を自分の顔に近づけ、目に入ったゴミを探すような仕草を始める。左側に座っていた彼がソファーから立ち上がる気配を感じた。私の不審な行動に気が付き警戒でもしたのだろうかとびくびくしていると、彼は荷物をそのままにして席から離れ、私のテーブルの前を通ってすぐ右にある通路の奥へと進んで行った。そこには男女共用のお手洗いがひとつある。 顔を正面に向けたまま聴覚だけで彼の動向を追う。後方からお手洗いのドアを閉めたようなガチャンという音が聞こえた。どうやら警戒はされていなかったことに安堵を覚え束の間緊張から解かれた私が、テーブルの上に置かれたままになっていた彼の携帯電話を手に取るまで、そこに五秒程の間隔もあったのか否かは定かではなかった。 それは殆ど無意識の行動だった。こういった行動をとる時によく自身の良心と邪心の葛藤が起こるという話を聞くが、私の内面においてそんな摩擦が起こる気配はまったく無かった。彼の携帯電話にタッチするとすぐに待ち受け画面が表示された。ロックはかかっていなかった。素早く画面を操作して登録されている持ち主のプロフィールを表示させ、私は自分の携帯電話にそのデータを飛ばす。興奮している脳みそとは裏腹に私の動作や表情筋は至極冷静で、私は誰に見つかることも咎められることもなく素早くその作業を終えることができた。 隣のテーブルの上に彼の携帯電話を戻した直後、後方からドアの開くような音が聞こえた。再び元のところに戻ってきた彼は、ソファーに掛けることなく置きっぱなしにしていた黒いリュックサックとテーブルの上のトレイをひょいと持ち上げて一階に降りる階段の方へと向かった。私は去って行く彼の後姿に舐めるような視線を送りながら、あの時に躊躇せずに自分の携帯電話にデータを移しておいて良かった、と心の底から思った。彼が私の隣からいなくなってしまったことへの寂しさや名残惜しさを感じながらも、私の中にはこれが二人の別れではないという確信めいた気持ちがあった。今、自分の携帯電話の中に記録されている彼へとつながる十一の数字の羅列と十数文字の英数字の組み合わせは、きっとまた私と彼を巡り合わせてくれる筈だと信じていた。 彼の姿を完全に見送った後、隣のテーブル席へと移動した。まだ温もりの残るソファーの上で携帯電話の画面を開き彼へとつながるデータを表示させる。私はたまらない気持ちになって、冷たい液晶画面に口付けをした。 あおいちゃんを待っている間、頭の中で何度も彼の姿を反芻していた。 つい今しがたの記憶の中から彼の顔や身体の様々なパーツを選び取り、その一つ一つを脳内で優しく愛撫するように再生していく。知性を感じるクールな目元、形の良い高い鼻、口角のあがった薄い唇と、あくびをした時にのぞいたチャーミングな八重歯、なめらかで長い指、その爪の根元の半月もきれいな形であったことも思い出され、やがて私の心の目が彼のすべやかな肌の皮下組織にまで入り込もうとする頃、前方から私を現実に引き戻すあおいちゃんの声がした。 「律子ちゃん、待たせてごめんなさい」 春らしいシフォン素材のブラウスに身を包んだあおいちゃんは、私に謝ると向かいの席に腰を下ろした。 「ううん。急に呼び出したのに来てくれてありがとう」 「大丈夫ですよ。祐一の家にいたから渋谷近かったですし」 「彼氏さん、祐天寺だったっけ」 「はい。もうずっと半同棲気味なんですけどね」 「そうなんだ。上手くいってていいなあ」 「うふふ、おかげさまで……」 久しぶりに会ったあおいちゃんの近況報告を聞きながら、しかし私の心はここにあらずの状態だった。あおいちゃんが語る祐一君とののろけ話に愛想良く相槌を挿みながら、私はずっと彼女にどのタイミングで「彼」のことを話すべきかを考えていた。 恋に落ちたばかりの私の高鳴る心音のビートに任せて話を始めたら、制御不能のマシンガントークにも陥りかねないので慎重に切り出し方を考えあぐねていると、祐一君の話をしていたあおいちゃんは急に何かを思い出したような顔をして、「いいものを見せてあげます」と悪戯っぽく笑った。 彼女のポーチの中からもったいぶって取り出されたのは、小さな透明のビニールバッグだった。彼女は割れものを扱うようにそれを静かにテーブルの上に置く。コトリと音を立ててテーブルの上に置かれたその中には、根元から引っこ抜かれた人間の歯が一本入っていた。 「何これ、おもちゃ?」 「本物の歯ですよ。祐一の親知らずです。可愛いでしょ?」 あおいちゃんはピンと立てた右手の人差し指を顎に当てて、上目遣いで私に微笑みかける。 「今日、祐一が歯医者さんで抜いてきたんです。持って帰るかどうか聞かれてなんとなく持ち帰ったらしいんですけど、結局どうしていいか分からないから捨てるなんて言うので私がもらっちゃいました」 「持っていても仕方ないんじゃないの」 「祐一の口の中に二十六年も存在したパーツを簡単に廃棄処分するなんて、そんな残酷なこと私は絶対許しませんよ」 「そう。でも、これどうするの?」 「大切に保管して、毎日眺めるとか、かな」 「ふーん」 「ちょっぴり血が付いてるところがいいんだなあ」 あおいちゃんは恍惚の表情でビニールバッグの上からうっすらと血の色の残る親知らずの根元をなぞっている。私はその光景を目にしながら、こんな風に好きな人の身体を持ち歩くことの出来るあおいちゃんに徐々に妬みに近いうらやましさを感じ始めていた。あおいちゃんの目には祐一くんの親知らずの少し虫歯が食っている部分さえも、琥珀の美しさを以って映るのだろう。今の私にはそれがなんとなく分かる。そう、思い出した。恋をするとその瞬間から、宝石箱を開いたかのように目に映る世界はキラキラと輝き出すのだ。 「あおいちゃん、私ね、好きな人が出来たの」 「そうなんですか」 「そうなんですか、って、それだけ?」 「だって、律子ちゃんて年がら年中、何々君がかっこいいだとか何々さんとヤリたいだとか言ってるじゃないですか」 あおいちゃんはトレイの上のジュースにストローを差し込みながら薄ら笑いを浮かべている。オレンジ色の液体があおいちゃんの口に吸い込まれていくのを私は黙って眺めていた。 「泣きそうなの」 ふいに私は、あおいちゃんにそう訴えかけた。 それは彼を見た瞬間から私の中に生まれていた衝動だった。彼を取り巻く空気に触れた瞬間から、私は切なさとも感激ともつかない感情に支配されていた。どうして彼にそんな感情を覚えるのかはっきりとした理由は分からなかったが、出会った瞬間から私が彼に心を動かされていたのは紛れもない事実だった。圧倒的な芸術作品を目の当たりにしたような気分だった。もちろん、自分には審美眼がないことは充分承知している。彼がひとつの絵画であるとしたら、それは多くの人の心は動かさないかもしれない。無名な作家の凡作なのかもしれないし、有名な作家を真似た贋作なのかもしれない。だが、彼に関しての世間的な評価や価値なんて全くどうでもいいことだった。私は彼に心を動かされた。私は無教養で、芸術なんて全く語ることも出来ない人間だけど、自分の心の動きくらいはきちんと感じとれる。自分が心を動かされたものを信じることくらいは出来る。私は彼を見つけた瞬間に、彼を信じてしまった。 「彼に恋をした瞬間から、ずっと泣きそうなの。まだ出会ったばかりで、相手のことを何も知らないのに、こんなに思い詰めるなんて自分でも馬鹿らしいと思うんだけど、気持ちが溢れて止まらないの」 あおいちゃんはストローに口を付けたまま、私の話を真剣に聞くべきなのか茶化すべきなのかを考えている様子だ。 「私の彼への想いはね、あおいちゃんの祐一君への気持ちと同じだよ」 私がそう言った瞬間、あおいちゃんの目に光が宿ったのが分かった。自分でもあざといことを口にしたなと思うが、女は、共感でしか動かない生き物だ。自分の中に相手と共通するものを見つけなければ、他人の行動や感情を理解することが出来ない。女は自分のために泣き、自分のために怒る。私は自分のために、あおいちゃんの力を借りたかった。今日彼女をここに呼び出した本当の理由は、彼女にこの恋の協力を頼みたかったからだった。 「それで、相手はどんな人なんですか?」 私の言葉は功を奏したようだ。あおいちゃんはさっきまでの態度と打って変わって、身を乗り出すような格好で私に質問をした。 「千塚さんていうの。千塚貴之さん。ついさっき、このお店の中で見掛けた人なの」 「……ついさっき? エイプリルフールか何かですか?」 「下らないこと言わないで。今日、世界中の何が嘘だったとしてもこれだけは本当よ、私、千塚さんが好き!」 頭の上に疑問符が浮かびそうな程困惑した表情で首を傾げるあおいちゃんに向かって私は一気にまくし立てる。私、好きな人が出来たの。今ここで出会った人。千塚さんていうの。ううん、まだ喋ってもいないよ。名前? 相手のスマホから直接データ盗んで知った。うん、そう、エイプリルフールってことにしておいて、その部分は。ねえ、そんなことよりも千塚さんのこと聞いて! 嗚呼、それはそれは素敵な人でね、右目の下に小さな涙ぼくろがあって、それがなんとも言えず魅力的なの。あの小さなほくろは千塚さんの繊細で美しい顔立ちをさらに引き立てるための肝心なチャームポイントだわ。まさに画竜点睛! 千塚さんの目元にほくろを作るプログラムを組んであったDNAにマジ感謝。あああもう千塚さんの涼しげな目元を思い出したらなんだか涙が出てきちゃった。それでね、千塚さんは八重歯もチャーミングで……。 最初こそ困り顔をしていたあおいちゃんは、私の話が跳躍して展開するにつれ時折相づちを挟む意外は真面目な面持ちで静かに話を聞き続けてくれた。やはり、あおいちゃんに声を掛けて良かった。私がこんなことを話したくらいで一歩引いていったりいちいち驚いたりつまらないお説教をしたりする人間を前にしていたら、私は千塚さんへの恋心に水を差された気分になって不条理にブチ切れてしまっていたかもしれない。 「それで、律子ちゃんは千塚さんとどうなりたいんですか?」 私の冗長で散漫な説明が一通り終わるとあおいちゃんはそう尋ねたが、こちらの目を射抜くような彼女の視線は既に返ってくる答えを推定しているようだった。 「私ね、千塚さんが欲しいの」 あおいちゃんは短く「なるほど」と言って頷く。おそらく私の答えは彼女が予想していた通りだったのだろう。彼女は再び先程と同じようにピンと立てた右手の人差し指を顎に当てて、何かを思案するように斜め上を見上げた。百人の女の子がいたらその半数以上から反感を買いそうなぶりっ子っぽいポーズは愛らしく幼い顔立ちのあおいちゃんにはよく似合うが、彼女が無意識にとるこの仕草は自身の優れた容姿を自覚した上でのものであり、あと三歳も年を重ねたらあおいちゃんは老練の上に成り立つこの無邪気な振る舞いをやめるであろうことも私は知っている。 私も目の前にいるこの女の子のように可愛くしたたかに生まれたかったと、羨望と嫉妬と惨めさの入り混じった感情が自分の中に突如として渦巻く。私が彼女のように整った顔立ちをしていたら、あの時千塚さんに正面から声を掛けていたかもしれない。いや、容姿の問題を無視してもきっとそのストレートな方法があの場面では最もまともな彼へのアプローチであったことは自分でもよく分かっている。千塚さんのプロフィールデータを自分の携帯電話に送信している間も頭の片隅ではその正攻法を考えないではなかったが、昨日から着替えていない洋服とアイラインも引いていないぼやけた顔であの美しい千塚さんの目に私が映ってしまうことが情けなく申し訳なく感じて私は彼に声を掛けることをやめたのだった。 私は最高の状態で千塚さんと出会いたかったし、彼の隣に腰かけた時にはもう半ばそうすることを決めてさえいた。いや、本当はそれよりももっと早く、彼の姿を両の目で認めたその瞬間には既に、私は千塚さんと最高の状態で出会った上で、彼を手に入れたいと願っていた。それにもかかわらず、飢えた獣が獲物を見つけたからと喜び勇んで迂闊に近づいてしまってはみすみすそれを捕り逃してしまいかねない。私はその時、獲物を狩れるような爪も牙も持ってはいないひ弱な獣だったのだ。女にとって自身を引き立てるためのファッションは爪であり、自らを美しく加工する丁寧な化粧は牙に他ならない。私は今日の夕方千塚さんに出会うまで、爪を研ぎ牙を磨くことをしばらく忘れていた。負け戦覚悟のそんな貧弱な姿で獲物を狩りにいく勇気は私には無い。狙った獲物を捕り逃してしまう可能性の高い行為は極力避けたかった。千塚さんの連絡先を盗み取った瞬間にはそれをこれからどう使うかなど具体的には考えていなかったが、私が手に入れた十数の英数字たちはきっと私と千塚さんを繋いでくれると思った。あの時獲物を捕らえることが出来なかった私にとって、彼の連絡先を知ることは獲物の棲家を把握することと同義なのではなかっただろうか。 棲家さえ分かれば、獲物の動向を知ることはだいぶ容易になるだろう。いずれ捕らえられる機会が必ずやって来る。そう気付いた時、私は自分の爪を鏡のように磨いて牙をナイフのように尖らせ、いつか千塚さんの棲家に奇襲を仕掛けることを決意していた。 もっとも、奇襲という大仰な響きに反して私の頭に浮かんだその方法はせいぜい先程入手した千塚さんの電話番号に直接電話を掛けてみるとか、手元にある情報からなんとか千塚さんの住所を割り出して引っ越しそばを持って彼の自宅を尋ねてみるだとかの陳腐なアイデアばかりだった。 だから私は、自分の身の回りでこの手の問題にもっとも力を貸してくれそうなあおいちゃんに声を掛けたのだった。 「どうやったら、私は千塚さんと近づけると思う?」 縋るような眼差しでそう尋ねた私にあおいちゃんはこともなげに答えた。 「運命を仕掛けましょう」 そう言うと、彼女はオレンジジュースの乗ったトレイをテーブルの端に片付け、自分のバッグの中から薄型のノートパソコンを取り出した。祐一君の親知らずが入ったビニールバッグはテーブルの上に出されたパソコンの横に丁寧に並べられる。 あおいちゃんがパソコンを起動させている間、私は、彼女が恋人の親知らずを手に入れたのと同じように自分もいつか千塚さんの口内から抜かれた親知らずを所有できることを夢想した。 千塚さんの親知らずはきっと私の親指の先程の大きさで、生まれたての赤ん坊のように無垢な白さに輝いている。千塚さんの親知らずを手にした私はそれを掌の上で充分に愛でた後、好奇心のままに自然と舌を這わせるだろう。彼の親知らずを口の中に入れて、飽きるほど舌で転がし、その触感を楽しんでいるうちに感極まって、私は、ごっくん! と喉を鳴らしてそれを飲み込んでしまう。食道は歓喜に満ちて躍動しながら千塚さんの親知らずを胃へと運び、妄想を繰り広げる脳みそはたちまちの内に千塚さんの親知らずを受け入れた胃の断面図に占拠される。淡い黄金色のシャンパンにきめ細やかな泡が立ち上るように千塚さんの親知らずは消化液でゆっくりと溶けていき、私の胃の中では、今まで自分の身体に入れたどんな食品とも比べ物にならない上品で優雅な消化が始まる。そして千塚さんの親知らずの成分を十二指腸はうきうきしながら分解し、小腸は最大限の歓迎を以て栄養素を吸収していく。 ついに千塚さんの親知らずが私の身体の一部になった瞬間に、もう私はほとばしるイメージを自分の内だけに秘めておくことが出来なくなって、パソコンに向かって作業を開始しているあおいちゃんに向かってこのキュートな心象風景を一気にまくしたてた。一度、心音のビートのままに愛と欲情を語ることを己に許可した私は、きっともう自分を止めることが出来ない。 「素敵ですね」 あおいちゃんは作業の手を一旦休め、瞳を輝かせて私の欲望に同調する。 「私も祐一の親知らずごっくんしたいです。でも、飲み込んじゃったらもう眺めることは出来なくなるから、ちょっともったいないかもしれないですね」 「確かにそうだね。じゃあ私、千塚さんの親知らずを手に入れたら、しばらくはキャンディーみたいに毎日舐めたり口の中で転がしたりするだけにしよっと。嗚呼、だけど私、舐めるだけで我慢できるかな」 「たぶん、律子ちゃんは出来ないと思いますよー」 想像力に欲望を刺激されるままに千塚さんの親知らずに想いを馳せる中で私の頭に一抹の不安がよぎった。千塚さんの口の中には果たしてまだ親知らずが抜かれずに生えているのだろうか。もしも、彼が既にすべての親知らずを抜いてしまっていたら、私は湧きあがるこの衝動にどう始末をつけたら良いのだろう。私はたちまちに心配でたまらなくなり、どうか、千塚さんの親知らずがまだ彼の口の中にありますように、私に再び出逢う時まで無事でありますように、痛みに疼くことがありませんようにと、千塚さんの口腔内の健康を両手を組んで祈った。
2.IDOLING FOR LOVE
まなこはぐしゃぐしゃに泣いていた。 これから私にされることを予感しているのだろう。それが楽しいことでないのは、この薄暗い密室で彼女の身体がコンクリートの冷たい台の上に拘束され、その顔の前にナイフがかざされていることが教えてくれている。 私が彼女の身体の端々に刃先を当てるたびにまなこは泣き叫んで、それが、当たり前だがいつも聴いているまなこの声と同じなので私は分かっていても我慢ができなくなってしまう。ぎゃあぎゃあ喚くまなこの声をこれ以上聞くのに耐えられなくて私は自分の聴覚をサイレントモードに切り替えた。 ナイフをまなこの薄い胸へと滑らす。カラフルな生地を何枚も重ねて作られたミニドレスの胸元が縦に裂け、ナイフの刃先はその間をもぐり込んでまなこの身体を傷つけていく。肋骨の間を深く刺すとまなこは大きく身体をのけぞらせた。その様子が可笑しくて私は思わず口元を緩ませる。鯉のように間抜けにぱくぱくと開くまなこの涎まみれの口にナイフを差し込み、何度も何度もFUCKするみたいに出し入れする。まなこが咳き込む度、噴出する粘性を持った赤い液体でその顔は醜く汚れていく。私は舌の切れ端とどろどろの赤い唾液にまみれたナイフを引き抜いて彼女の青白い喉元を突き刺し、まなこはそれにより絶命した。 千塚さん、あなたが好意を抱いている女の子がいるということを知った所為で、私はついついこんな想像をしてしまいます。その相手が例え、自分と何の面識もない年端のいかない中学生であっても。 「見つけましたよ。このSNSのアカウント、千塚さんものです。彼のメールアドレスから登録されていますね」 あおいちゃんがそう言って画面をこちらに向けたノートパソコンを私はひったくるように自分の方に引き寄せた。 運命を仕掛けると言ったあおいちゃんが最初にやったことは、あらゆるSNSの友人検索機能を使い千塚さんのアカウントの有無を確認することだった。私が千塚さんの携帯電話から入手したプロフィールには、彼の電話番号とモバイルのメールアドレスが入っていた。それを元にあおいちゃんが「Linx」というSNSでかけた検索で千塚さんのアカウントはあっけなく見つかった。 Linxは一時期、社会現象を起こす程流行ったSNSだったが今では人気も下火になり惰性で登録をしているだけで全く使われていない「死んだアカウント」も多く、以前のような活気はなくなっている。しかし、本名の登録が義務付けられていない気楽さから一部の人の間ではまだ匿名性のある情報交換のツールとして重宝されているらしい。千塚さんのアカウントは「生きていた」。彼がLinxへ最後にログインしたのは一時間前で、最終の更新は二日前だった。 あおいちゃんに私の隣に移動してもらい、ふたりでパソコンの画面を覗き込んだ。千塚さんのプロフィール画像には顔写真ではなくロゴマークのようなものが使われていた。ファッションブランドかなにかのものだろうか。私には見覚えのないものだったが、優しいパステルピンクの使われたそのロゴマークには大変に可愛らしい雰囲気があり、繊細な顔立ちの千塚さんにぴったりの中性的なセンスが感じられた。 たったの数分前には無機質な英数字の羅列のみだった彼の情報が、今目の前に視覚に訴えるかたちとなって現れ、多分な意味とイマジネーションを含んだ言語となって広がっている。早く千塚さんのことを色々知りたいという期待と、なんだか知るのが怖いような緊張とが入り混じる中、高揚した気分で私はパソコンの画面の中の千塚さんのプロフィールをゆっくりと目で追っていった。 「三十四歳なんですね」 千塚さんの生年月日を目にしたあおいちゃんが素早く計算して私の耳元でつぶやく。 「嘘。もっと若く見えるよ。あの見た目で三十代なんて詐欺だよ」 「最近は若く見える人も多いですしね。律子ちゃんと十一個違いですか。まあ、SNS上での記載なので生年月日を偽っている可能性もありますけど、あとでゆっくり検証していきましょう」 「うん。でも何歳だって私は千塚さんが好きだから関係ないけどね。あ、ねえ、千塚さんて血液型はB型みたい」 「ふーん、自己中心的でエキセントリックなB型ですか」 「ちょっと、自立心旺盛で大物タイプのB型でしょ?」 千塚さんの新しい情報が脳みそにインプットされる度に自分の脳細胞が喜びに震えるのを感じるようだった。私ははしゃいだ声を上げて嬉々として千塚さんの情報を目で追いかける。しかし、ページを読み進めるうちに次第にそこに書いてあることにどう反応をしていいのかが分からなくなってきていた。私とあおいちゃんの間に何とも言えない困惑の気配が漂い始める。千塚さんの自己紹介は下方の欄の「趣味・好きな休日の過ごし方・好きな言葉」などの私が欲しい情報すべてが、私たちが初めて目にする同一の単語で埋められていた。 「なんですか、この『ゆめいろファクトリー』って」 「……なんだろう。何かの工場かしら。漫画のタイトルかな」 「調べてみましょう」 あおいちゃんはパソコンの画面に新しいウィンドウを開いて早速その謎の単語を検索にかける。 「あ、律子ちゃんどうしましょう。この千塚さんていう人、キモいかもしれないです」 「ちょっと、何失礼なこと言ってるの。私の千塚さんに気持ち悪いところなんてあるわけないでしょう!」 強い口調で反論しながらも、私の中にあおいちゃんと同様の気持ちがあるのは事実だった。 「ゆめいろファクトリー」をネットで検索して一番上に表示されたのは、彼女たちの所属する芸能事務所が運営する公式ホームページだった。「ゆめいろファクトリー」とはアイドルグループの名前で、そのウェブサイトとネット上の辞書の情報によれば、グループの五人のメンバーたちは現在全員が中学生であるらしかった。 「ロリコンのアイドルオタクでしたか」 あおいちゃんはパソコンの画面に表示されたあどけない少女たちの写真を見つめなめがら落胆したかのようにため息をついた。 「別に、誰だってアイドルを好きになったりすることはあるじゃない」 「それはそうですけど……普通は大の大人が自分の自己紹介ページを中学生のアイドルグループの名前で埋めたりはしないでしょう」 「まあ、そりゃそうかもしれないけどさ。冗談でやってるだけかもしれないじゃん」 「だといいですね」 「……。ねえ、Linxって確か日記も投稿できたよね。千塚さん何か書いてるかな」 「さあ。ゆめいろファクトリーのことでも書いてるんじゃないですか」 あおいちゃんは冷たく言い放つとパソコンに千塚さんの日記のページを表示させて「ほら」と無表情のまま画面を指差した。
3月30日 23:35:46 うわああー! ゆめいろのライブ行って来ました! 最高だったああああ!まなこおおおおおお! 本当にゆめいろからは元気をもらいます! 物販でまなこのTシャツが買えなかったのだけがマジで心残りですが、来月のライブでリベンジしてきます! とりあえず今日もライブの余韻に浸りながらゆめいろの曲聴いて寝ます!
最新の日記を読み終えた後、自然とため息が漏れた。私は傍らで千塚さんに対する批判的な言葉を口にしているあおいちゃんを無視して過去の日記を次々と遡っていく。
1月26日 21:17:45 今日のまなこのブログに載ってたゆめいろの変顔がツボです。 アイドルであそこまで出来るってすごいよね。可愛いけど! まなことねねとりんの仲の良さには毎回癒されます。まなこってなんであんなに可愛いんでしょうねえ。
10月22日 22:59:00 限定版のDVDのポスター、ねねとりんのバージョンがかぶってしまったのでねねとりんのファンで欲しい方いたら教えてください。 ちなみにまなこバージョンは今三枚うちにあります。もったいなくてまだ貼ってないけど。 ところで皆さんは壁に貼ったポスターの劣化ってどうやって防ぎますか?
一週間に一、二度程の割合で書かれている千塚さんの日記は、数ヶ月程まで過去を遡ってもゆめいろファクトリーの話題一色だった。 「やっぱりロリコンのアイドルオタクじゃないですか」 引き攣った顔で一緒に千塚さんの日記を読んでいたあおいちゃんは吐き捨てるように言った。その横で私は千塚さんがゆめいろファクトリーのことを語る中でも特に登場頻度の高い「まなこ」の存在に激しい嫉妬を感じていた。 「おい、まなこってどいつだ、このやろう」 私が呟くとあおいちゃんは再びゆめいろファクトリーの公式ホームページを立ち上げてグループの中央で弾けるような笑顔を見せている少女を指差した。 「この真ん中の子みたいですね。江藤真奈子ちゃん。ニックネームが、まなこ。中三ですって」 あおいちゃんは少女の写真の下に記載されているプロフィールをまったく興味のない口ぶりで読み上げていく。 「誕生日は五月三日」 「ゴミの日じゃん」 「血液型は自立心旺盛で大物タイプのB型です」 「はあ、自己中心的でエキセントリックなB型ね。絶対性格悪いよコイツ」 「出身地、東京」 「ふーん」 「身長148センチ」 「糞チビ」 「趣味特技は変顔と一発ギャグ、ですって」 「あー、なるほど。自分の顔がアベレージより上だからって調子に乗ってるってわけね。私は変顔キメて不細工に見せようと頑張ってもこんなに可愛いんですよーとかアピールしたいだけでしょ。一発ギャグっていうのは、気取ってないお茶目なキャラクターをアピールするために書いたのかしら。あざとい。本当に性格悪い糞ガキだわ、こりゃ」 いい大人が見ず知らずの中学生相手に悪口を言うだなんて恥ずかしいことかもしれないが、嫉妬と怒りは止められなかった。口をついて出てくるまなこへの雑言にあおいちゃんは堪りかねたのか、私の顔の前に手の平を翳してこれ以上喋ることを制止した。 「まあ、彼女のことはひとまず忘れて落ち着きましょう。幸いなことに千塚さんの日記はLinxに登録している人には誰にでも公開するという設定になっていますし、彼が入っているコミュニティやLinx内の交友関係を探っていけば千塚さんの情報は色々と読み取れそうですよ」 たとえば……と口内で呟きながらあおいちゃんは千塚さんとLinx内で「友人」になっているメンバーが一覧できるページを開き、そこに表示されたアカウントの一つを指差す。 「このマスオさんという方、彼はこの友人一覧のページの中で千塚さんとの関係性を、中学からのつながりと書いています。千塚さんと同級生だというこの方は、東第一中学校卒業生のコミュニティに入っているんです」 「ってことは、千塚さんも東第一中学校の出身てことだよね?」 「おそらく。東京出身で今もこっちに住んでいるとしたら、もしかして現在も実家暮らしの可能性がありますから、そうだった場合卒業アルバムなんかを手に入れたら千塚さんの住所はすぐに特定できますね」 Linx内のページをさくさくと切り替えながらあおいちゃんはそこかしこに散らばっている千塚さんの情報の破片を探していく。 「さすが、だね」 「祐一の浮気パトロールの為に毎日色々考えてますから、こういう情報を読み取るくらいなら簡単です」 あおいちゃんはクールに答えた。 私が新宿の小さなアクセサリーショップで働いていた頃、「かつひろ」と名乗るひとりの客が店を訪れた。私たちが顔を合わせたのはその日が初めてだったが、かつひろとは以前からネットを通じて交流があった。人の良さそうなおじさん、それが私のかつひろに対する印象だった。 出会いのきっかけは、当時私がまわりの流行に乗って始めたブログに彼がコメントをくれたことだった。知らない男性からコメントやメッセージが届くことはさほど珍しいことではなかった。その殆どが、今後の展開を期待しているスケベ野郎なのだが、こちらには会うつもりなど端から無いので適当にあしらっていた。無害そうな奴はたまに相手もしたが、当たり障りの無い受け答えが続くとスケベ野郎たちは総じてフェードアウトしていった。 かつひろのプロフィールに表示されていたのは、そろそろ生活習慣病が気になり始める三十六歳のシステムエンジニアという自己紹介と、その文章がそのまま具現化されたかのような冴えないアバターだった。自分を偽らない素直な性格の持ち主なのだろうとは思ったが、出会ったところで積極的に仲を深めていきたいと思える相手ではなく、当初私は彼をすぐに交流することもなくなる通りすがりの人間程度にしか考えていなかった。 何の興味も湧かない相手、共通点の無い他人、どうせスケベ野郎だろうと思っていたかつひろと私を近づけたのは、意外にも恋の話題だった。ぱっとしないこの中年男は私とのセクシーな関係を望んでいたわけではなかった。彼には付き合っている恋人がいた。とても大切にしていて、一途に思い続けている彼女。そして彼は、恋人との関係にいつも悩んでいた。 「僕は彼女に嫌われている」 かつひろがブログに綴ったその一文を初めて目にした時、この中年男は片思いをしている女性を一方的に恋人だと思い込んでストーカーでもしているのではないかと訝った。しかし、彼は恋人との楽しいデートの最中にいつもそう思い、彼女から笑顔を向けられるたびに不安になるのだと語る。自分が彼女を思う気持ちが強すぎて、相手はそれを疎ましく感じているだろう、と。 恋人同士といえどもお互いの本音は見えないもので、双方の気持ちの強さに差があるのも当然のことだが、かつひろはそんなことには納得できないようだった。 かつひろは、自分が望む分だけ彼女が愛情をくれないことにただ単純に駄々をこねていた。 私はこのどうしようもない中年男に大いに共感していた。 自分が満足するだけの愛情を恋人から貰えないからと拗ねるのは、幼稚なことだろうか。きっと、そうなのだろうと思う。だが、恋は理屈を否定し、人の精神を退行させる。赤ん坊の如く泣き喚いて愛情を求める者に、望む分だけくれてやらないまま恋人で居続けるだなんて、嫌がらせをしているのと同じだ。これをもしも、恋人はあなたの親ではないだとかなんとか言って、もっともらしい顔で否定する人間がいるのならば、私はそいつにこう言ってやる。 だったら付き合うな。 親は子を選べない。子もまた親を選べない。だが、恋人は選べるのだから付き合うも付き合わないも自由ではないか。付き合うのなら、相手としっかりと向き合うべきで、恋人が愛を求めるのならば喜んで差し出すのが道理だろう。こちらが欲しがる愛情を充分にくれない恋人なんてラーメンを出さないラーメン屋と一緒だ。赤地に白抜きの文字でラーメンと書かれたいかにも食欲をそそる暖簾を出しておきながら客に水しか出さないラーメン屋があるとすれば、私はその店を理性を以て許すことが出来ない。一刻も早い店の撤退を切望する。 いつしか私は、かつひろがブログに綴る文章よりも長文で彼の恋への応援じみたコメントを寄せるようになり、アバターを使ったチャット形式の会話サービスで恋愛のなんたるかについてふたりで語り合うようになっていた。 ある日、いつものようにアバター同士で会話をしていると、かつひろの口から彼女の誕生日が近いという話が出た。私は、自分が働いているアクセサリーショップで彼女へのプレゼントを探してみてはどうかと提案した。親切心と好奇心から出た言葉だった。かつひろに対しては何の警戒もしていなかったし、一度くらい実際に会う機会があれば良いとさえ思っていた。 彼は思案を感じさせる少しの沈黙の後、私の話に乗ってきた。 かつひろが私の働いていた店に顔を出したのはその翌日だった。外面の非常に良い私はオーナーから無根拠に信頼され、ひとりで店番を任されることがよくあった。その日も私は単独で店番をしていて、来店したかつひろと店内でふたりきりになった。 私が勧めたアクセサリーを少々迷いながらも買い上げてくれたかつひろは、人が良いけれどどこか冴えない印象のおじさんではなく、ピンクサファイヤのペンダントが良く似合う可愛らしい女の子で、今私の目の前にいるあおいちゃんだった。 「彼女さんの話をずっとしてたから、てっきり男性だとばかり思っていました」 しばらくあおいちゃんと会話をした後で私が胸に様々な疑問符を抱きながら恐る恐るそう言うと、彼女は急に泣き出しそうな表情になった。 「ごめんなさい」 上目遣いで謝る大きな眼の表面には、涙がたたえたれていた。彼女が今までどんな思惑でかつひろという中年男のキャラクターをネット上で演じていたのかは分からないが、こんな風にいたいけな眼差しを向けられてしまうとそれを問いただすのも気が引ける。 「ううん、別に謝らなくても大丈夫ですよ。おじさんだとばかり思っていたかつひろさんがこんなに可愛くて素敵な女の子でかえって嬉しいくらい」 私の笑顔とは対照的にあおいちゃんの表情は硬くなっていた。少し躊躇うようなそぶりを見せた後、あおいちゃんは私の目を真っ直ぐに見つめて訊いた。 「……あの、倉林さん、篠田祐一って覚えてますか」 「……」 「私の今の恋人なんですけど」 あおいちゃんの現在の恋人である祐一君と私は、ふたりが付き合う以前に何度かデートをしたことがあった。祐一君とは私の友達の紹介で知り合い、みんなで食事をした時に連絡先の交換をした。私は当時付き合っていた彼氏とうまくいかない時期で、気分転換に彼に誘われるままにデートをしてみた。ただ、彼との仲はそこから発展することもなく連絡を取り合うことも自然となくなり、私はすでに祐一君のことを忘れかけていた。 「祐一はね、自分の恋愛遍歴をぜんぶ私に喋るんですよ。付き合ってきた女から、片思いしてた女の子、デートした相手。その中に、倉林さんの話がありました」 そう前置きしてあおいちゃんは、祐一くんが私について喋った内容から個人を特定できそうなキーワードを抽出しその幾つかを組み合わせてインターネットで検索をかけた旨を話した。その頃、ブログに顔写真とプロフィールを載せていた私は簡単に特定できたそうだ。それから今日ここに現れるまでの間、彼女は例のブログや当時私が登録していたSNSなどをひそかに観察し、動向をチェックしていたらしい。 「ブログに出てくる彼女っていうのは、はもちろん祐一のことです。倉林さんに勘付かれないように性別を逆にして書いていました。ごめんなさい」 「それじゃあ、書いていた内容は、創作?」 「いいえ。性別が逆なだけで全部本当です」 「そう。それなら、気にしないで」 私には今まで、付き合っていた恋人の浮気癖の所為で見ず知らずの女の子から嫌がらせの電話やメールを受けたという経験があったのだが、ここまで執拗に私を追いかけ実際に私のところまで会いに来た女の子はあおいちゃんが初めてだった。彼女の慇懃な態度の裏にひそむ常軌を逸した執着心とその行動力は、私に彼女への強い興味を抱かせた。帰り際に再び私に深く頭を下げたあおいちゃんに携帯電話の番号を訊いたのは、今後も彼女に会いたいと思ったからだった。
「千塚さんを攻略するには、ゆめいろファクトリーがキーになりそうですね」 千塚さんの友人一覧のページを長い間見つめていたあおいちゃんはふいに呟いた。 「千塚さんの友人は現在四百人弱いるんですが、ここに並んでいる千塚さんの友人たちのプロフィール画像を見ると、ゆめいろファクトリーに関する画像を使用している人が非常に多いんです。千塚さん自身もそうですしね」 千塚さんのプロフィールに設定されていた画像がゆめいろファクトリーのロゴマークであったことは、先程彼女たちの公式ページに飛んだ際に判明していた。初めて目にした瞬間には可愛らしいと感じたそれも、もはや私には少女趣味で幼稚な図案にしか感じられなかった。 「類は友を呼ぶ、オタクはオタクとしかつるまないといえども、実生活の交友関係の中だけでここまでの偏りができることは非常に稀でしょう。」 あおいちゃんは喋りながら自分自身の言葉に頷いている。 「ということは、彼はネットを通してLinx内の友人関係を築いていると捉えることが出来るのではないかと思います。彼の友人の人数や元々のセキュリティ意識の低さから考えてもこのSNSを通して千塚さんと友人になるのはそんなに難しいことではないんじゃないでしょうか」 「嬉しいな。本当?」 「おそらく。だけど、この人マジでコアなオタクみたいですけど大丈夫ですか、律子ちゃん」 「うーん、歓迎は出来ないけど、仕方ないよ……」 「まあお互い、人のことを言えた義理じゃないですしね。ねえ、律子ちゃん、千塚さんと近づくにはゆめいろファクトリーのファンを装うのが一番じゃないかと思うんです」 あおいちゃんは私の目を真っ直ぐに見つめ、にわかには信じがたい提案をした。 「私にあの子たちのファンになれっていうの?」 「何もファンになれって言っているわけじゃないですよ。Linxで千塚さんとコンタクトを取るためにファンを装うだけです」 「どういうこと?」 「千塚さんに近づくためのツールとしてゆめいろファクトリーを利用するんですよ。まあ、アプローチの材料に使うなら多少は彼女たちのことを勉強する必要も出てくるでしょうけど」 身の毛もよだつ恐ろしいことを口にしておきながらあおいちゃんは依然として飄々とした態度を崩さない。 「こんな糞ガキどものことなんて少しも知りたくないし、ファンを名乗るなんて私のプライドが許さない」 私は当然のように怒って提案を跳ね除ける。するとあおいちゃんはピンと立てた人差し指を顎に当てるいつものぶりっこっぽいポーズを作った。 「律子ちゃん、こんな風に考えてみたらどうですか」 あおいちゃんはモテない男に高価な英語教材を売る美人局のような胡散臭い笑顔を私に向ける。 「たとえば大学受験では志望校に進学するために受験勉強をしなければいけないかもしれませんが、物理や英語が好きである必要はどこにもありません。知識さえあればいいし、大学に受かりさえすればいいんです。それと同じで律子ちゃんがゆめいろファクトリーを好きになる必要はないですけど、千塚さんにアプローチするために彼女たちを知る必要はあるんじゃないでしょうか。千塚さんの好きなものを利用して彼に取り入ればいいんです。彼を知り己を知れば百戦殆からずということです、律子ちゃん」 最後に私の名前を呼んだ瞬間のあおいちゃんは、したたかな笑みを浮かべていた。英語教材が一セット売れたことを確信するようなやり手婆の笑いだった。私はかつて、新宿のアクセサリーショップにやって来たかつひろが律儀に手土産を持参してくれていたことを思い出す。大好物のエクレアで餌付けされて気分を良くしていたが、あれはもちろん、偶然に選ばれたお土産などではなかったのだ。 「どうでもいいプライドに囚われてないで、とっとと千塚さんを手に入れましょうよ。彼が欲しいって言ったのは律子ちゃんでしょう。いいじゃないですか、やり方になんかこだわらなくたって。心にも無いことを言ったって。律子ちゃん、すべての道は……」 「千塚に通ず!」 あおいちゃんの口にした箴言を途中で奪い取って、私は高らかに宣言する。 私がこの糞忌々しいロリータアイドル集団のファンを名乗るのは非常に癪だが、それで千塚さんと近づけるきっかけが作れるというのならば望むところだ。あおいちゃんは鼻息を荒くする私の様子を見て満足そうな笑顔を見せる。 「そうそう、律子ちゃんがLinxのアカウントを取得してもすぐに千塚さんに友人申請を送ってはいけませんよ」 「どうして?」 「千塚さんに、ゆめいろファクトリーのファンだと信用してもらうためには下準備が必要です。ゆめいろファクトリー関連からの友人を少なくとも三十人は集めたところで行動に出ましょう」 静かに頷く私を笑顔で見つめながらあおいちゃんは饒舌に話を進めていく。さすが「経験者は語る」だ。 「千塚さんとLinx上でめでたく友人になったとしても、彼に直接メッセージを送るのは極力避けて千塚さんの日記に地道にコメントを続けること」 「はい」 「文章は長くせずに、爽やかに。あくまでゆめいろファクトリーのファンを装ってあまり他の話題には触れないこと」 「はーい」 「応援するメンバーが被るのは、意気投合するかライバル視されるか一か八かのかけになるので、千塚さんお気に入りのまなこ以外の女の子を応援しているという設定にするのがいいと思います。さあ、どのメンバーにしますか?」 他人事だと思ってか今や妙に楽しそうなあおいちゃんに促され、私はしぶしぶゆめいろファクトリー全員が集合している写真で右から二番目に映っていたショートカットの小柄な女の子を指差した。 「ねねとりん、ですね。大人しそうで性格良さそうな子じゃないですか。ねねとりん、変なあだ名ですけど」 「コイツが一番マシ。千塚さんにポスター要らないって言われてたから」 「では、律子ちゃんのプロフィール画像はねねとりんに設定しましょう。SNSではその人が入っているコミュニティから人となりが見えてきたりするので慎重に選んでいきましょうね」 あおいちゃんはセミナー講師のような口調で私に作戦のポイントを説明した。それによれば、千塚さんとつながる為には相手から警戒されないようなSNS上でのキャラクターを捏造することが最も大切らしい。プロフィールの設定も大事だが、自分が参加する「コミュニティ」選びもかなり重要になるという話だ。コミュニティというのは、属性や嗜好を共にする人々が寄り集まるSNS内のサークルのようなもので、共通の話題を語り合ったり、趣味の仲間を探したりする目的がある。しかし、趣味の話題に白熱する者や実際に会うような友人を作ったりする者はごく一部だ。大半の人はただコミュニティへの「参加」ボタンを押してその後は放置をしているだけなのだが、そうして「参加」しているだけでも自分がどういった人間であるのかをまわりにアピールする充分な材料になる。自ら多くを語らずとも、十数個のコミュニティに入っておけばこれまでの経歴や趣味や特技、性的嗜好などをそのラインナップが代弁してくれる。 あおいちゃんは私に、後々に実際に千塚さんと会った時に参照されても差し支えないものを基準に選べとアドバイスをした。まずはゆめいろファクトリー関連のコミュニティ、ねねとりんを応援する単独コミュニティ、それから邦楽アーティストやお笑い芸人、バラエティ番組などの一般受けしそうな印象のあるものには幾つか入っていたほうが良いというのが彼女の意見だった。高校や大学名などのついたコミュニティに入るのも現実での友人とのつながりを感じさせる為、信頼の度合いは上がるらしい。 馬鹿馬鹿しいと思いながらも私は細かいところまで気を配りながら自分が参加するコミュニティを選び、Linx上のプロフィールを完成させた。 ゆめいろファクトリーは、明るくてお茶目なリーダー「まなこ」こと頭の悪そうな糞ガキ江藤真奈子、ちょっぴり天然ボケの「まぽ」こと頭の狂った発言を繰り返す電波系の井上麻保、最年少のピュアガール「ねねとりん」こと低年齢であること以外これといった特徴のない橋野寧々、チャーミングでファニーな笑顔の「ゆきうー」ことチビで内斜視気味の谷中由布紀、いつも元気な「あやちゅん」こと一番年上でヒラメ顔の大友綾というの五人のPussycatどもで構成されている。 嗚呼、どうして私がこんなメス猫どもに詳しくならなくてはいけないのだ! と苦々しい想いを抱えながら私はゆめいろファクトリーの知りたくもない情報を検索し、聴きたくもない音楽を再生し続けた。PVを見るためにアクセスした動画共有サイトには、彼女たちの楽曲だけでなくテレビ番組に出た際の映像やライブの様子まで様々な動画が上げられていた。そこにはライブで披露されたまなこの特技だという一発ギャグが収められた動画もあった。会場のファンたちはまなこの一発ギャグにシンバルを叩く猿のおもちゃのような大仰な反応を見せている。その妄信的なリアクションを目の当たりにして私は、もしも今自分がこの会場に放り込まれたならば、おそらくバベルの塔が崩壊した直後のようなディスコミュニケーション状態に陥るだろうと想像し空恐ろしくなった。 私は、時にまなこを惨殺する妄想でストレスを発散させながら、ゆめいろファクトリーの情報を親の敵をとるかのように必死で脳みそにインプットし続けた。 千塚さんを発見した日にLinxのアカウントを取得してから五日後、何度も推敲を繰り返して書き上げた友人申請のメッセージを千塚さんへと送った。返信はその夜のうちに来た。 「かつひろさん、友人申請ありがとうございます。ゆめいろファクトリーのファンなら大歓迎ですよー。よろしくお願いします」 その短い文面を確認した途端私は興奮状態に陥ってあおいちゃんに電話を掛けていた。 「あおいちゃん、聞いて。千塚さんが友人申請受理してくれた。ヤバい、付き合えるかもしれないコレ!」 「ちょっと落ち着いて下さい。でも、良かったね律子ちゃん。Linxで彼と自然に交流していけば、同じライブ会場に足を運ぶという口実で出会うことだって充分に可能ですもんね」 「うん。私、千塚さんと結婚するね」 「はい。応援しています」 まさかこんなに簡単に千塚さんと連絡が取れるとは思っていなかった。メッセージを送る前は不安でいっぱいで、送ってからは返信が貰えないのではないかと更なる心配に悩まされていた私は、あまりのあっけなさに拍子抜けさえしていた。私の脳裏には、すでに千塚さんとの明るい未来が広がっていた。そう遠くない未来に私はきっと彼と再び出会い、恋に落ちるはずだと信じていた。彼と出会ってからもう一度ふたりが巡り合うチャンスに近づいているこのスムーズな流れは、私と千塚さんとの間に確かな絆があるという裏付けを感じさせてくれるようだった。何もかもがうまくいきそうだった。運命の恋をするための準備は整い始めている。
3.まぼろしの男
私は千塚さんの指を想像してしまう。 綺麗でしなやかな長い指。嗚呼、今私の口の中にあるこの指が千塚さんのものだったらいいのに……と、いつも、千塚さんではない、私の目の前にいる誰かの指に。 夜が更けていくひとり暮らしの部屋で私は、十分ごとにLinxを開いては千塚さんの日記の更新や彼からのメッセージが届いていないかを確認していた。千塚さんの動きの見えないLinxの画面を見ていると、言いようのない焦燥感と飢餓感に襲われる。 千塚さんのアカウントにメッセージを送ってみようかと新規作成画面を開いたところで、あおいちゃんから忠告された言葉が蘇って手を止めた。代わりに私は、もう何十回も読んだ千塚さんからのメッセージを再び開き、その文面を黙読し音読しながら、千塚さんの綺麗な指がパソコンのキーボード或いは携帯電話のキーパッドを叩き、私のために人生の貴重な時間を使ってメッセージを作成してくれた場面を想像する。 Linxで千塚さんのことを発見したその日から、彼の日記を熟読し、Linx上の交友関係を探り、コミュニティをチェックしては彼の嗜好の傾向を把握しようと努めてきたけれど、ただそこからしか与えられないデータのみでは満足ができるはずはない。私はなんでもいいから千塚さんの情報が欲しかった。それは年齢の数字や千塚さんの血液型などという事実ではなく、今千塚さんが何をして何を考えているのかということであり、どこにいてどんな言葉を口にしているのかということであり、今生きている千塚さんの行動や姿そのものだった。 私はそれらのことを勝手に頭に思い浮かべてはイマジネーションを膨らませ、そうして千塚さんの姿がふっと想像できなくなると、飢えて死ぬ寸前の獣のように、千塚さんの姿を探しまわった。だが、ゆめいろファクトリーのことを調べるのとは違って一般人の千塚さんの情報を手に入れるのはとても難しい。インターネットで「千塚貴之」と検索しても千塚さん本人のことにヒットする内容はまったく無く、私は彼とは何の関係も無いことが分かっていながら、りんご農家を営む青森県の千塚貴之さんのブログを延々と追ってしまったり、千塚貴之という名前の持つ運気を解説する姓名判断のサイトを読み込んでしまったりする。とにかく何かをしていないと居ても立ってもいられなかった。表紙に「千塚貴之」というラベルが貼ってあるなら私は広辞苑だって六法全書だって血眼になって読み込むだろう。 千塚さんの卒業年度の東第一中学校の卒業アルバムはすでに必要な部分のコピーを手に入れていた。 それが入手できるか否かは賭けだった。私は千塚さんとつながっている「かつひろ」とはまた別のアカウントを取得し、Linxで探した千塚さんの同級生の中から彼と「友人」になっていない人物にメッセージを送った。私は実在する同級生の女性の名前を出して、自分の兄が今度彼女と結婚するのだが披露宴で使う映像にサプライズで彼女の高校時代の写真を使いたいので協力してもらえないだろうかと、その人物にメッセージを送った。他の目的には決して使用しない旨、それから私のフルネームや住所などは架空のものをすべて誠意を以って明記した。プロフィール画像には、あおいちゃんが私にくれた彼女の友達とのプリクラを使わせてもらった。可愛らしい女の子が慶びごとを口実にして誠実な態度でお願いをすれば、こんな胡散臭い話に何の疑いも持たず接してくれる人もいる。これは以前にも成功したことがある手口だった。私はあおいちゃんと埼玉県の入間市まで出向いて千塚さんの載っている卒業アルバムを無事に手に入れることに成功した。千塚さんが今も実家で暮らしていることは、Linxの日記で読んで知っていた。アルバムの巻末に載っていた住所をネットの地図で検索すると千塚さんの住む家を見ることが出来た。私は、まだ幼さの残る少年時代の千塚さんの写真を眺めながら、この家で彼が過ごしていた日々や今そこで彼が送る日々を夢想した。私は今、距離も時代も隔ててしか千塚さんに触れられないことがひどく悲しかった。
鬱々とした気分のところに掛かってきた電話は、以前になんとなく連絡を取り合っていたこともあった一つ年上の男の子からだった。寂しさを紛らわすために少し飲むだけと思って渋谷に向かった筈だったのにいつの間にか私は泥酔していて、気付けばカラオケの個室で相手の指を咥えているというざまだ。この段階で一旦正気に戻れただけまだマシだったと思うことにして、私はおもむろに男の子から自分の体を離した。密室に充満する性の匂いのする熱気を払いのけたくて、私はさだまさしの「償い」を歌った。たった一瞬の気の緩みから、あやうく大きな過ちを犯してしまうところでした。ごめんなさい、千塚さん。胸のうちでそう呟いて、深くため息を吐く。すっかりしんみりしてしまったカラオケボックスから出て、男の子にタクシーで帰ることを伝えると、彼は送って行くよと言って私の右手をとった。お酒がまわっていた時はこの男の子に対して性欲を覚えていた筈なのに、今はただの肉の塊にしか見えない。わりと綺麗な顔をしていた男の子だったから気に入っていたけれど、彼は千塚さんじゃないから、今の私にとってはどうでもいい人に他ならない。いつの間にか指を絡めて繋がれた手がうっとうしい。私は男の子の手を振りほどいてタクシーを止める。 千塚さんと出会った思い出の街、ここ渋谷で私は一体何をしているんだろう。 それであたしは、嗚呼、さっきの彼が千塚さんだったらいいのに、せめて繋いでいたあの手だけでも千塚さんのものとすげ替えられたらいいのに、と考えて、あ嗚呼うああ、私、千塚さんが好き! と心の中で獣性の狂った咆哮を上げる。千塚さんが好き。千塚さんが大好き。千塚さんがいいの。千塚さんと会いたいの。千塚さんと手を繋ぎたい。今の私が千塚さんに触れることが過ぎた贅沢だというのならばせめて、千塚さんの美しい指や腕を一晩私に貸して欲しい。「ああ、千塚さんの指って、長くてしなやかですごくお綺麗ですね。なめらかな肌の質感もたまらないです」と、頬ずりして舐めさすって、涎まみれにして、だけど最後には濡れたタオルで綺麗に隅々まで拭いてあげて仕上げにハンドクリームを塗って翌朝千塚さんが目覚める前までにはきちんと返しておくから、どうかこの願いを叶えて欲しい。私は千塚さんが欲しいのに、千塚さんとなら仲良くお付き合いしていけそうな気がするのに、どうして今すぐに千塚さんと一緒にいられないのだろう。 「前にライブで興奮した隣の人にタックルされて鎖骨折っちゃったことあるんですよ」 今日千塚さんから来たメッセージの中にはそんな一文があった。私は千塚さんの美しい身体を怪我させる原因を作ったまなこに対して慰謝料を請求したい気分になったけれど、その話題で千塚さんと三通もメッセージのやり取りができたので今回は特別に許してやって訴訟は見送ることにした。 友人申請を受理してもらって以来、千塚さんとのメッセージのやり取りは決して頻繁ではないが続いていた。話題はすべてゆめいろファクトリーのことで、私はまだライブにも行ったことが無い初心者のファンとして彼にライブの様子や心得などを質問したりした。 「いつかライブで会えたら良いですね」と私が送ると、千塚さんから「そうですね」という優しい返事が来た。 千塚さんに会いたいと伝えては駄目かしら、とあおいちゃんに相談すると、相手はまだ社交辞令で言っているだけだと思うし理由も無く会うことを打診するなんて不審だと反対されるけれど、やっぱり早く千塚さんに会いたい。声が聞きたい。どんな話題でどんな風に笑うのかを知りたい。彼の好きな食べ物だとか、小さい頃の思い出だとかを心置きなく尋ねてみたい。千塚さんが好きだ。千塚さんの長い指、悪戯っぽい八重歯、実年齢とそぐわない妙な若さ、好きなものに対する突き抜けたパワー、髪の毛、唇のかたち、鎖骨が折れていたこと、純粋で、可愛くて、あったかくて優しいところ。 そしてこれからゆっくり知っていくであろうもっとたくさんの千塚さんの素敵なところ。 私はいつ千塚さんと会うことになっても良いように美容に磨きをかけておこうと、数ヶ月ぶりにネイルサロンへと足を運んでいた。色付いて行く指先を見つめながら私は、春にいっせいに花が開くことについて考える。花は、春が来て気温が上がるから咲くのではなく、春が来て嬉しいから咲いてしまうのではないだろうか。冷たい風に吹かれていたさびしい景色を彩りたくて。そんな風にして梅はほころび桃は弾け、今年の桜もやっと開く。嗚呼、今、春が来ている。この世の中に、私の心に。Spring has come with CHIDUKA! ネイルアートを施してもらっている間中、私は担当のネイリストさんに千塚さんの魅力や彼への恋心を滔々と語っていた。春が来たことを小鳥がさえずりで告げるように、恋をしたならばその弾む気持ちをまわりに触れてまわりたいのが乙女心なのかもしれない。 私はインターネットを通して知り得た千塚さんの情報をこと細かにネイリストのお姉さんに説明していく。さも彼の口から聞いたように、彼と触れ合う中で知り得たように。いつの間にやら私が話す千塚さんとの関係性はもはや交際まで秒読み段階ということになってしまっていたが、それもそんなに真実から遠くないような気がした。ネイルサロンを出た足で予約していた美容室へと出向き、カットとカラーの合間に担当の美容師さんにもさっきと同じ話をした。起こってもいないことを喋り、嘘を吐くたびに気分は高揚していった。妄想はカラフルに色付けされ、千塚さんを語る程に私の彼に対する気持ちは増していくようだった。
「やっぱり男の人って、みんなちがってみんないいよね」 思いがけず金子みすずの詩の一節を口にするかたちとなりながら、綾は今日も相変わらず嬉しそうに新しい男の話をしている。せっかく外見に磨きをかけても、やはり私の前に千塚さんはいない。 美容室を出たところでタイミング良く綾から電話が掛かってきて、ふたりでお茶をすることになった。綾は表参道のお洒落なカフェで下衆なネタばかりの恋愛談をさっきから休まず繰り広げている。綾は男の話をするのが大好きだ。今彼女が夢中になっているのは三十代中盤の妻帯者らしい。 「やっぱり昔いっぱい遊んできた三十代のお兄さんが一番上手いよね」 綾はいつも満面の笑みを浮かべて自身のセックス哲学を私に語って聞かせる。今も話に乗り切れない私を置いてきぼりにしながら綾は嬉しそうに、「ただし長く付き合った彼女か奥さんが最低ひとりはいることが条件だけど」などと講釈を垂れているところだ。 私は綾を責めたいわけではなかった。私だってつい一週間前までは彼女と同じように下劣な話に笑い、品性に欠けた体験談を面白おかしく喋っている人間だった。 綾は二十四時間ノンストップで稼働するセックス工場で従事しているかのように、自分の人生のライン上に流れてきた男たちと絶えず交接をしている。いうなれば私も綾と隣り合ったラインに従事する人間だった。しかし、私と綾は大きく違っていた。綾は意欲的な労働者だ。ラインの稼働率を誇りにし、勤労の汗に喜びを覚えている。私はといえば、何を作っているのかも定かでない生産ラインに立つことにどこか疲弊していた。それなのに、日々作業に従事しないと極度に不安になり、只ひたすら、止まることを恐れていた。今はどうして自分があんなところにいたのかを不思議に思う。私は千塚さんに出会った途端に生産ラインから退いた。今ではかつての自分が信じられないくらい異性に対して潔癖なつもりではあるが、目の前にいた男の指を不用意に咥え込んでしまうようなこともあるから、職業病というものはなかなかに抜けないものなのかもしれない。 「そういえばりっちゃん、この間の大学生とはどうなったの?」 「ああ、ヤッたよ」 あの日も一緒に飲んでいた綾は、私がラインから去ったなどとは思ってもいない様子だ。隣り合ったラインで私の仕事ぶりを見てきた彼女からすれば、あんなに働き者だった私がまさか工場を辞めるだなんて思いもよらないことだろうから気が付かないのは当然だとも言えよう。 「いいなあ。綾、彼みたいな切れ長の目大好き」 「そうだね。確かに綺麗な目をしていたような……」 もはや彼の名前は覚えていなかったし、顔の造作も記憶から消えつつあった。綾は、まだあの男の子のことを聞きたがっているようだが、そのことについて自分から何を話せばいいのか分からなかった。 「ねえ、私、彼氏が出来るかもしれない」 私は今日何度言ったか分からないこの台詞を綾の前で繰り返した。 「え、あの男の子と付き合うの?」 「ううん。千塚さんていう人」 「へー、おめでとう」 私たちを祝福する言葉を口にするも綾はいまいちピンと来ていない様子だ。私はついに友達を相手に嘘を吐いてしまった。いや、これは後に本当になる筈のことなので悪質な嘘というわけではないが、それでもお店の従業員のような関係の薄い人たち相手の時とは違い幾ばくかの罪悪感を覚えた。それとなく弁解をしようとしたところで、綾の携帯電話が鳴った。 電話口のやり取りからすぐに合コンのお誘いだと分かる。どうやら急な欠員があったようで電話を掛けてきた相手は女性側の人数の調整に苦労しているようだった。綾は調子よく安請け合いをしている。 「りっちゃん、この後は暇?」 通話の途中で綾が尋ねてきた。先方にはふたり欠員があったらしい。私に意中の人がいることなど彼女は全く忘れているようだ。心配して損をしたような、ホッとしたような気分だった。 電話を掛けてきたミヤちゃんという女の子とは六本木の交差点で待ち合わせをした。一度は誘いを断ったものの、綾が代わりの人間を捕まえることが出来なかった為、頼み込まれるようなかたちで結局私が行くことになった。 ミヤちゃんは予想していた通り清純な外見の可愛らしい女の子で、綾と並ぶと双子のお人形のようだった。綾はいかにも遊んでいる感じの派手な女とは決してつるまなかったし、自分自身の風貌もその対極でいることを心掛けていた。綾はセックスと男が本当に好きだから、男の前では自分が損をする振る舞いを決してしない。きっとミヤちゃんも同じような女だろう。ついでに言えば私も綾の友達なのでそんな種類の女にカテゴライズされる。 案の定、相手の三人の男は清楚な見た目のBitchesに脂下がっている。 「三人とも癒し系だよね」 などと見当違いなことを右端のガリガリ男がのたまい、男同士で頷き合っている。 「そんなことないですよー」 と否定するミヤちゃんは、ここまでくる途中で私に相手側の勤務先だとか推定年収だとかを説明していた時のきびきびとした振る舞いをすっかり封印し、間の向けたような甘え声を出している。ミヤちゃんは自分が誉められた流れから上手に相手側を誉める方向に話をシフトさせて明るく場を盛り上げていた。 綾とよく飲み会をしている女の子は、女特有の変な連帯感を持たず自立した行動が出来るので合コンをしてもとてもスムーズに場が進んでいく。その分、他の女の子が自分の売り込みを邪魔するような真似をしたり場をしらけさせたりすることにはとても厳しい。この合コンに気乗りのしない私は大人しくしているのが一番良さそうだ。綾はミヤちゃんの言葉に同調しつつテーブルに細やかに気を配ってお皿や前菜などの取りわけをしていた。この行動は男性からの好感が高いということで、合コンの席では敢えて女同士で役割を譲り合うような場面を私は何度も目にしていた。たかがシーザーサラダ一つ取り分けるのにも面倒な駆け引きをするのが私の感じる、女特有の変な連帯感、だ。男女両方の目を意識すると気の利かない女だと男性から思われるのが不満になり、差し出がましく男に媚を売っていると女性から思われるのが不安になるのだろう。だが、わちゃわちゃといつまでも役割の譲り合いや奪い合いを続ける女の姿は見ていてそんなに気持ちの良いものではない。そうなるくらいなら取り分けの役割は誰かに一任し、自分は場を盛り上げるように話でもしていた方がずっと好感が持てる。取り分けには加担せず、しかし綾から皿を受け取る時には丁寧にお礼を言うミヤちゃんは、自分が今すべき仕事、己の領域をしっかりと分かっていてとてもスマートだと感じた。私はぼんやり肉を口に運んでいた。 合コンの会場はメニューの質も値段も高いことで知られる有名な焼肉店だった。ミヤちゃんからは事前に相手の奢りだから安心していっぱい食べてくれと言われたが、言われなくてもそうするつもりだった。千塚さん以外の男と出会ったところで今の私にとっては何も得るものなど無い。相手の男たちは決して悪くない顔ぶれで、綾とミヤちゃんは彼らと言葉を交わすたびに嬉しそうに笑っている。横一列に隣り合って座っているのに、私と彼女たちとの距離は空に並ぶ星のように光年単位で隔たっている。盛り上がっている会話を聞き流しながら、私は運ばれてきたタン刺しに箸を伸ばした。 切り身を口に入れて咀嚼していると、ふっと、私は千塚さんと出会う直前まで一緒にホテルにいた男の子のことを思い出した。彼のあの柔らかい舌と、このタン刺しの蕩けるような感触はそっくりだった。顔や名前は忘れてしまっても感触だけは不思議と記憶に残っている。それ程に、彼の舌の弾力は素晴らしかった。みんなちがってみんないい、夕方に綾が口にした金子みすずのフレーズがふっと頭を過ぎった。確かにそうだなと思う。セックスなんて誰としても同じだとつい思ってしまうが、本当にそうならば楽しみたいだけの女がわざわざ複数の男を選んだりはしないだろう。ひとりの男、そしてまた違う男、その相手ごとにスペシャルな部分があって、それはみんなちがってみんないいのだ。同時に、みんなちがってみんなわるい部分も確かにあるのだけれど。 あの男の子の舌に限らず、人は誰しも身体のどこかにその人だけが持つ特別な部分を備えている。それは声や仕草だったり、唇や指のように単体の部位として目を引くものもあるが、彼のあの舌のように、他人と触れ合うことによって感触となりスペシャリティを発揮するものも多くあるのだと思う。 ぐちゅぐちゅと生肉を咀嚼しながら、私は千塚さんの「感触」を想像した。 彼のスペシャルな部位を早く知りたかった。感触はきっと、その人の身体の特徴に大きく影響を受けている筈だ。同じように愛撫をされるのでも、指の太い人に撫でられるのと指の細い人に触られるのでは感じ方が全く異なることは経験からも導き出すことが出来た。私は千塚さんの身体的特徴から私たちの味わうであろう快楽を想った。彼の高い鼻は外気に触れる面積が大きいから、今時期のまだ肌寒い夜には、鼻先が少し冷たくなっているかもしれない。彼が私にキスをする時、その冷たい鼻先は唇よりも先に私に触れるだろう。冷たく硬い感触を軽く顔面に感じるとすぐに千塚さんの唇が私の口元を覆う。下唇の方が少しだけ厚い千塚さんの唇は、私の唇を包むようなキスをする筈だ。睦み合う長い口付けの途中に、千塚さんの長い指が私の髪を梳く。それは少し、くすぐったかったりもするのだろうか。 「ねえ、律子ちゃんは彼氏いるの?」 すっかりもの思いに耽っていた私を現実に引き戻したのはガリガリ男だった。その質問にNOを返すのは綾との飲み会では暗黙の了解となっている。 「いますよ」 私はルールを破ってしれっと告げた。ガリガリ男は会話の輪から外れていた私を気遣って声を掛けてくれたのだろうが、千塚さんとのロマンチックなキスシーンを邪魔された私は苛立ちしか覚えていなかった。しかしすぐに、まずいことをしてしまったと後悔した。視界の端で綾とミヤちゃんの顔が軽く引き攣ったのが見えた。彼女たちからしてみれば私のしたことは相手のテンションを下げる重大な失態だった。今ここにいる男たちは女慣れした紳士風のメンバーばかりだから露骨に態度を変えるような真似はしないだろうが、恋人がいると分かっている女にわざわざ高い食事を奢るというのもつまらない話だろう。 「えー、そうだったの」 すかさず綾が知らなかった振りをして私の肩を大袈裟に叩いた。顔は笑っているが手に込められた力は強かった。 「いいね。私も彼氏欲しいなあ」 ミヤちゃんの優しい眼差しは私に向けられているが、その言葉は男たちに対して掛けられている。男の目はチャンスを感じさせてくれる女に対してのみ輝くのだ。 「ミヤはどんな人がタイプなの?」 綾がすかさず質問して場の話題を変えてくれようとしていた。私はせめてもの罪滅ぼしのつもりで綾に同調し、前のめりになってミヤちゃんが口にするであろう作為的な答えを待った。 私の失敗を除けば合コンはつつがなく終わった。ミヤちゃんはどうやらガリガリ男を気に入ったらしい。綾は中央に座っていた男に目をつけたようだ。どちらも今の私には薄ぼんやりした印象しか残っていない。男たちと別れると、ミヤちゃんはきびきびした口調を取り戻し綾と私を残して颯爽と六本木の街に消えていった。 「りっちゃんがああいう場で彼氏いるなんて言うと思わなかったからびっくりしちゃった」 吊り革を背景に立つ綾の姿に違和感を覚えた。合コンの後に電車で帰宅するのは久しぶりのことだった。綾とこうして一緒に帰ったことなんて初めてだったかもしれない。 「盛り下げちゃってごめんね」 「本当だよ」 綾はわざとらしく頬を膨らませたが、このおどけた仕草には本心が七割くらい含まれていそうだった。私が余計なことさえ言っていなかったらみんながなんとなくカップルになって今頃それぞれ楽しくやっていたことだろう。まあ、今の私にとって千塚さん以外の男とふたりきりになるのは苦行以外の何ものでもないが、軽く飲んで後腐れなく帰ることくらいなら簡単に出来た筈なので、色情狂のふたりには本当に申し訳ないことをしてしまったと思う。 「でもさ、彼氏いるって言ってたけど、まだ付き合ってはないんじゃなかったっけ」 眉間に皺を寄せ綾は首を傾げる。 「うん、でも、もうすぐって感じかな」 「ふうん、どんな人?」 右に傾げていた首を今度は左側に倒して筋肉のコリをほぐすような運動を始めた綾は、私の答えにさほど興味を抱いていないようだった。 「すごく素敵な人だよ。優しくて、情熱的な男性かな」 「ふうん」 今のところ千塚さんの情熱的な面はゆめいろファクトリーに関してしか発揮しているのを知らないが、間違った情報ではないだろう。 「で、どこで出会ったの?」 「……SNS」 咄嗟に嘘を吐いてしまい少なからず再び罪の意識を覚えた。だが、この恋が街中で偶然出会った彼の連絡先を盗んだことから始まったとは綾には言い出しにくかった。正確な情報を伝えたところで彼女が私の行為を理解してくれるとは限らない。 「なんか意外。SNSで出会って、セックスしたの?」 「してないよ」 私の答えに綾は目を丸くする。 「じゃあ、一体どこまでヤッ……」 「まだ何もしてないよ」 不躾な綾の質問を遮って私はむくれながら答えた。正直に事実を告げたのは良心からだったと思うが、私と千塚さんとの神聖なやり取りをまるで性交目的の出会い系サイトでの交流のように綾に誤解されるのが嫌だったのかもしれない。 「まさかのプラトニック!」 綾は小さく叫んだ。どうやら私は彼女にショックを与えてしまったようだ。 「ちょっと、静かにしてよ」 車内はそんなに混んでいないとはいえ、まわりの乗客の目が気になった。私はもうかつてのようにセックス工場のライン稼働率を堂々と人前で話すような女ではなくなっているのだ。 「ごめん。あまりにも衝撃が強過ぎて。ってことは、その男は会っても何もしてこなかったってこと?」 その質問にどう答えていいのか分からなかった。本当のことを言うべきか否か、しばらく考えてから私はぶっきらぼうに言葉を吐いた。 「っていうか、まだ会ってない」 吊り革を掴む綾の手にグッと力が入ったのが分かった。私があまりにも彼女の常識から逸したことを言ってしまった為に腰が抜けそうになったのかもしれない。 「わけがわからないよ」 綾の発した声は弱々しかった。私は弁解するように言った。 「SNSで仲良くなって、メッセージのやり取りとかをしてるの。それで、それが、その……とってもイイ感じだってこと」 「はあ。だけど普通、仲良くなったら男の方から食事に誘ってきたりしない?」 「まあ、そうだよね」 「会える見込みはあるの?」 「大丈夫。多分、彼は恥ずかしがり屋さんなんだと思う。女性は苦手って言っていたし」 どこからも入手していないでっち上げの情報で切り返すと、綾は遠い目をして大きく溜め息をついた。 「めんどくさい男だなあ。っていうか、本当に会えるの、それ。綾だったらヤレない男に用はないよ」 「会える。会うよ、絶対会う!」 鼻息を荒くする私を綾が無表情でちらりと見遣った。 「もちろん、顔は知ってるんだよね」 「うん。写真載せてたから」 「かっこいい?」 「とっても」 「まあ、それならいいけど」 綾は小さく溜め息をつく。彼女の顔から目を逸らして正面を向くと、そこにも綾の顔があった。地下を走る真っ暗な車窓に私と綾の顔が並んでいる。ガラスの中の綾と目が合い、彼女は私から視線を逸らした。 「ネット上で交流を深めるのもいいけど、なるべく早く会ったほうが良いんじゃないの」 「出来るだけ頑張ってみる」 「うん、そうして。写真を見てかっこよかっただなんて言っても、そんなの写りが良いだけかもしれないし、そもそも別人の写真かもしれないんだから」 それだけは否定出来ることだったが、言い返せば出会いの経緯との矛盾が生まれてしまうので私は黙っているしかなかった。綾は自分の友人がかつて出会い系サイトで異常に写真栄えのする男に騙された被害の例を出し、私に写真詐欺の恐ろしさについて切々と語り始めた。だが援助交際目的でサイトにアクセスしていたそのふたりと愛しの千塚さんを同列に並べられても私には全くピンと来ない。 「それは援助交際するのに選り好みする方が悪いんじゃないかな。まあ、写真と実物が全く違うのは確かに嫌だけどね」 「そうでしょ」 「でも、私はもしも彼の顔が写真と違っていたっていいと思ってるよ。性格自体が良いんだから大丈夫」 「そんなの実際会って喋ったりしなきゃ分からないじゃない。ネットの発言なんていくらでも取り繕えるんだし。そこだけで相手がどんな人か判断するなんて、そんなの……」 綾は何故だか呆れ気味だ。まあ、彼女は千塚さんのことを何も知らないのだから仕方がないのかもしれない。早く千塚さんの実際の姿を綾にも見せてあげたいものだ。私の愛する千塚さんを前にすれば、綾はきっと自分が誤解をしていたことを詫びるだろう。綾は恐らく両手をついて謝るのであろうが、それを私は快く許し彼女の額についた泥を白いハンカチで優しく拭ってあげようと思う。 そんな未来の予想図を頭に浮かべると、自然と笑みがこぼれた。柔和な笑顔の私が目の前の車窓に映っている。 「そんなのってまぼろしに恋してるのと一緒じゃん」 私の耳が隣に立つ綾の溜め息交じりの言葉をキャッチした。地下を走る真っ暗な車窓に私と綾の顔が並んでいる。ガラスの中で綾と目が合い、私は彼女から視線を逸らした。
化粧も落とさずに、ベッドの上に横になって蛍光灯の明かりを見つめていた。何もする気になれない。起き上がることさえ困難な気分だった。私は綾から言われたことを何度も反芻して考えていた。 私は千塚さんの実際の姿というものをあまりよく知らない。それは綾が言うように、確かにまぼろしに恋をしているということなのかもしれなかった。私がこれから実際に千塚さんと会ってお話をしたら、千塚さんに対して夢想していた様々な事柄は花と散ってしまうのだろうか。私が好きな千塚さんの長い指はもしかしたら今はささくれ立ってかさついているかもしれないし、八重歯ののぞく笑顔を千塚さんは私の前では見せてくれないかもしれない。 だけれど、万が一千塚さんの実際の姿がそうであっても、私が千塚さんを好きなことに変わりはないような気がする。実際の千塚さんが私の想像していた千塚さんと違ったから彼のことを好きではなくなるなんてことはないように思える。 だって私は、千塚さんを一目見ただけで気がついたらもう彼のことを好きになっていた。考えを巡らせられる暇もなく、どうしようもなくなってしまっていた。たとえ、今私が想う千塚さんが実際の姿とはかけ離れたまぼろしであっても、彼を好きなこの気持ちは決してまぼろしではなかった。春が来て開く花が我慢も逡巡もしないように、私の恋は千塚さんに巡り合ったことでただ喜びを覚え、始まってしまった。 嗚呼、早く千塚さんに会いたい。千塚さんに触れたい。湧き上がる気持ちを堪えきれず、私は携帯電話を開きLinxにアクセスする。やはり千塚さんの日記の更新は無かった。もう何度も読んでいる二日も前に投稿された彼の最新の日記に私は再び目を通す。書かれている内容は相変わらずのゆめいろファクトリー関連だ。日記にはまなこのブログへ飛べるURLが貼り付けられている。こちらも勿論チェック済みだった。父親の誕生日に自宅で手巻き寿司パーティーをしたという報告と、家族と思われる四人の手元が映った写真、それから手巻き寿司を頬張るまなこの顔のアップがこの記事には上げられていた。パーティは昼間のうちに行われたのだろう。アホ面の背後に映る窓からは外の風景が確認できた。頭のおかしいサイコ野郎がこの写真から自宅を特定してこの糞ガキをブチ殺してくれればいいと思った。私の頭には、また無駄なまなこの情報ばかりが蓄積されていく。こいつの好きな手巻き寿司の具がイクラとサーモンとキュウリの組み合わせだと知ったところで嬉しくもなんとも無い。私が知りたいのは、千塚さんなら何を巻くかだ。 千塚さんは、寿司を巻くまなこが可愛いと言う。お父さんを大切にしていてえらいねと言う。本当は違うのに。幼い頃から芸能界で生きてきたこの女が純粋なガキである筈が無く、あざとくて腹黒いということは自明の理なのに。純粋な千塚さんには思いもよらないことなのだろうか。まなこを絶賛する千塚さんの燃え立つような文章を歯軋りしながら読み返す。 だが、物事を悪い方にばかり考えてネガティブになり過ぎてもいけないだろう。千塚さんだって、今はまなこの営業戦略にまんまと嵌められてしまっているがそのうちにきっと目を覚ましてくれる筈だ。これだけ何かを好きになれる人なら、きっと私と恋をしても情熱的な想いを持ってくれるだろう。私だって、千塚さん以上にいつまでも彼を愛し続ける自信がある。大丈夫、千塚さんなら大丈夫、私と最高の関係が築ける筈だ、そう言い聞かせる。 相手にまったく幻想を抱かない恋なんてものが果たしてあるのだろうかと私は考える。地に足をつけて、相手に夢も見ず期待も抱くことがない恋は存在するのだろうか。むしろ私は、恋そのものが相手にまぼろしを見ることなのではないだろうかと思う。人を好きになる気持ち自体、かたちの無いまぼろしのようなものだ。それをいちいち現実と照らし合わせて過度に期待をしていないか夢を見ていないかを確認しなければいけないものだと考えるのは、単に自分の本心と向き合う勇気が無いだけではないだろうか。己の胸に宿る熱い想いを信じてさえいれば、夢見ることを恐れなくてもいい筈だ。私の中には、自分が想う千塚さんの姿がまぼろしであってもこの気持ちを貫いていくという覚悟がある。彼に出会って恋に落ちたことが始まりで、そこで話は完結している。疑うことなど何も無い。揺らぐ必要などどこにも無い。恋はいつでもアルファ・オメガ。始まってしまったらもう、終わりなのだ。
4.赤い私とミドリの彼女
深夜二時には魔物がいるって、誰が言ってたんだっけ、誰に言われたんだっけ。 たぶん誰も言っていない。だけど私は知っている。たぶんみんなが知っている。だけど誰も口にはしない。クラクラと起きているひとりの部屋で、二時の魔物は厭なことばかり考える思い出す。魔物は脳みその中にいる。もしくは、脳みそにいるのだと錯覚させている。魔物はいつだって飢えていて、欲望のサティスファクションを求めている。欲しがる疼きは私に伝播する。私の脳みそは千塚さんを求めてる。身体中を掻き毟って叫び出しそうになる程彼が欲しい。どうして私はこんなにも千塚さんが好きなのかしら。千塚さんのすべてが欲しくて、すべてが好き。そう、私が千塚さんのどこを好きなのかという質問がナンセンスなのは、私が千塚さんのすべてを好きだからで、だけれどもしも千塚さんの身体がバラバラにされて世界の七箇所に散らばってしまったのならば私はまず顔から探しにいくから、やっぱり私は千塚さんの顔が好きなのかしらって思うんだけれど、それってわりと一般的に広く理解される世界の七箇所に愛する人の身体を散らされた者が回収しにいく部位の順番のように感じるから、それだけでは私が千塚さんの顔が好きという確固たる理由にはならないんじゃないかと思うの。だって男の人の足や肩甲骨のあたりから自分の手元に取り戻そうとする女の子なんて、なんだか変態みたいだし少々マニアック過ぎない? 私はこの場合、顔から回収するのがすごくスタンダードな人体のコンプリートの始め方だと思っているけれど、違うのかしら。だって顔があったら、おしゃべりもできるし、キスだっていっぱいできるもの! そう、それらの行為は足や肩甲骨ではこと足りないことよ。では、もしも世界の七箇所に散らばるのが千塚さんの身体の各部位ではなく顔のパーツだった場合、私はどこから彼の顔を回収し始めるのかと考えると、うーん、可愛い唇かな、高い鼻かな、涼しげな目元かな、憂いを感じさせる涙ぼくろも捨てがたいし、八重歯だってスペシャル可愛い! 嗚呼、もう大好き。なんて可愛いの千塚さん! と、錯乱状態に陥ってしまうから私にはやっぱり千塚さんの「どこが好き」っていう指定部位はなくて、全部が好きっていう包み込むような愛情でしか彼を想えないことがきっと誰にでも分かってもらえると思うの。 そう私、一目見た瞬間から彼のことが好きだった。運命という言葉はきっと私と千塚さんのためにあるのだから、絶対にチャンスを逃さないわと決意をしてから早二週間、未だに彼と顔を合わせてお話することもままならず、私は勝ち気と気後れをループしたままパッとしない日々を送っているし、その上ここ二、三日の間に千塚さんが現れる夢はすべて悪夢に帰結するもんだから目覚めたあとで脳から溢れ出す厭な汁がPMDDの不調と重なって私の脳内は見事なまでのホルモンテロに遭ってハイパー鬱! 仕事なんて行く気にもならないし、友達から来たメールにもロクに返信が打てない。 千塚さんのことを好きで好きで仕方がない私は、千塚さん以外の他人と対峙するのがもう嫌なの。千塚さんのこと以外の話題を千塚さん以外の人に発信して、千塚さんに関すること以外の内容を受信することが嫌なの。千塚さんのこと以外のすべてのどうでもいい話題を発信してそれに反応されて更に対応しなきゃいけないことがめんどくさいの。だから私は自分の頭の中だけで千塚さんに奉げる幾つもの空想、抒情詩、愛の言葉を繰り広げている時だけがとてもしあわせ。 幸福の青い鳥は実はそばにいるものだっていうけれど、そうよそれはまさにその通りで、私の露悪ギリギリの自己顕示欲と怯えとめんどくささの良い捌け口になってくれるのは素敵なブルーのTwitter Bird.夜な夜なタイムラインを徘徊しては140字以内の鬱を読み140字以内の鬱を書き、鬱を投稿し鬱にリプライされ鬱をRTし鬱にフォローされ鬱をリムーブし鬱々として鬱のままもののはずみでリンクされていた風俗嬢達のホンネ掲示板なんかににうっかりアクセスして風俗嬢たちの鬱な書き込みに反応した脳からまた厭な汁が溢れ出すうちにもし私がリアルに風俗やるとしたら業種は何にしようと考え始めてたら厭な男とも性的に云々しなければならないなら別に手だろうが口だろうがどこをつかっても気持ちの面で大して変わらないような気分になってきていっそやるなら稼げる方がいいんじゃんと感覚も麻痺しだしてもうAV女優になっちゃおうかなーという考えが出てきたところで過去のバッドなキメゼリフ「AVやって死のうかなー」で、以前付き合っていた女をAV女優にさせた挙句に自殺に追い込んだクズ男を延々責め続けて、死ねよカス! と唾を吐きかけ高笑いをした時の記憶がフラッシュバック。あの時は、とてもスッキリしたけれど、嗚呼、けれども今の私の陰鬱な気分はあんな出来事を思い出したくらいでは晴れないの、糞ビッチ一匹の死ごときではね。ハッ! そう、私の心に光を射してくれるのはもう千塚さんしかいないの。千塚さんに好きになってもらえないのなら私の存在理由なんて無いから、今すぐAVやって自殺するね! 千塚さんとセックスできないならどこの馬の骨かも分からない下卑た豚野郎や糞ビッチたちで溢れかえる乱交動物園に放り込まれて畜生どもと何百回セックスしたっていいやって思えてくる私は間違いなく馬鹿なのだけれど、この思考回路を正せる利口さは持ち合わせていないのだから私に目をつけられたことがもう運の尽きだと思って、私とセックスしてもらえませんかね千塚さん。私と付き合ってもらえませんかね。私のこと好きになってくれませんかね。もうそろそろ観念してもらえませんかね。せめて一回、一緒にごはんとか行ってくれませんかね。私、千塚さんが注文したドリンクに密かに睡眠薬を混ぜるんで、私と話しながら「あれ、このコもしかしてイタい感じ? あ、なんかヤバいコ?」と薄々勘づきながらも、お手洗いから帰ってきたら手元のアルコールの苦味が少々増したことには気付かずに、そのまま飲み干してもらえませんかね。ハイ、一気! そしてそのままもう二度と目覚めることがなくても気にしないで成仏して頂けましたら助かります。スペシャルな法要を済ませたあと、千塚さんの血や肉は私が美味しく頂きます。お顔だけはそっくり残して、科学溶液で満たされた綺麗なガラス製の瓶に納めさせて頂きますね。ほら、やっぱりお顔があれば、おしゃべりだってキスだって、いっぱい出来ますから。 ああ可愛い千塚さん。 あたし千塚さんのことじっと見てたいし撫で回したいし、喋りかけたいし笑いかけたいし、喋りかけられたいし笑いかけられたいし、ごはん作ってあげたいしそれを食べてもらいたいし、お嫁さんになりたいし千塚さんの子供が欲しいし、一生涯千塚さんに寄り添っていきたいし、やっぱり死んでるより生きたままでいて欲しいです。生きたままの千塚さんが欲しいです。ということで、千塚さんがまだ生きてる頃までタイムスリップ! 千塚さん、今日も生きてる千塚さんが私はとっても大好きですよ。千塚さんに、私きっともうすぐ会えますよね。千塚さんが会おうとしなくても千塚さんのご自宅の住所は控えてあるからそこにいけばいつでも会えるし、出会ったならば千塚さんはきっと私のことを好きになってくれますよね。だって私はこんなに千塚さんのことを好きなんですもの。千塚さん、私はあなたのことが誰よりも好きだし、もっと好きになるし、千塚さんだってきっと私を好きになってくれるから、ふたりでいたらとてもしあわせになれるのが私すごく嬉しくて今もう、ちょっと泣いてます。お付き合いが始まった一年後にはめでたく結婚をし、千塚さんとの間で可愛い長男と愛らしい双子の長女と次女にも恵まれて幸せな家庭が築けるだなんて私、夢みたいで既に現実が受け入れられません。私と会ったが百年目、盲亀の浮木ジャストフィット、優曇華の花咲き乱れBoy meets Girlそれは運命。そう、私に好かれたのが運の尽き。私、千塚さんのこと、ずっとしあわせにします。一緒にしあわせになりましょう。なれますよ、ね、私たちなら。あ嗚呼、とってもしあわせ。ねぇ、ネバーギブアップ人生! 躁転。 私はこんな真夜中に突如うきうきした気持ちになって、ずっと目を通しただけで放っていたままのメールに返信なんか始めてしまう。返事の催促が来ていたバイト先の店長からのメールにシフト希望の返信をし、私に三通もメールをくれていた美南とは早速会う約束を取り付けた。
「ちょっと、りっちゃん、一旦話止めてもらってもいいかな。私このままだと千塚さん博士になっちゃうから」 私が千塚さんの指の美しさについてLinxの日記に載せられていた画像を提示して解説を始めようとするのを美南は苦笑しながら遮った。 「もう、本当にりっちゃんは相変わらずだなあ」 画像は千塚さんがあの忌々しいPussy catどものCDを手に取って写したものだったが、そこに彼の美しい指が写りこんでいるのを発見して私は大喜びで保存をしていた。こんなに素晴らしいお宝写真を美南が見たがらないことに軽い憤りを覚えながら、私はしぶしぶデータフォルダを閉じる。 「さっきから話を聞いてると、千塚さんてなんだか特殊な人みたいね」 「千塚さんの特性の表層部分だけを見たならね」 「深層まで切り込んだらもっとおどろおどろしいものがありそうな人だけど……」 「そんなことないよ。千塚さんは優しくてかっこよくてとっても良い人。ただちょっとだけ何かの間違いで発情期迎えたばっかりの雌ネコ軍団にハマってるだけ。一時的な熱病みたいなもんだよ。嗚呼、あの糞ガキども……もう名前を口にするのもおぞましいからITと呼ばせてもらうけど、あいつらのことさえ好きじゃなかったら千塚さんは本当に完璧なのに。Fuck IT!」 「完璧、なのかなあ。りっちゃんその人のこと買い被り過ぎてない?」 「夢見ちゃいけないっていうの?」 「いけなくはないけれど、期待し過ぎるのは危険なんじゃないかな。りっちゃんは、晴喜君の時だって……」 と言いかけて、美南はあわてて口をつぐんだ。 昨年の終わりに別れた晴喜は、三年近くの付き合いの末に私を裏切った最低の男だ。 「あの糞野郎のことはもう言わないで。晴喜が私のことをすぐに諦めてくれていれば、私は晴喜となんか付き合っていなかった。男がしつこく口説いてくる時って、自分が狙った獲物を落とさないと気が済まないってだけなのかもね。相手の都合や気持ちも考えずにただ自分のものにしたいっていうだけ。そういう奴に限って釣った魚に餌はやらないしね」 「しつこくアプローチをしてくる男の人ほど、女性に対して不誠実だったりするものよね」 私の言葉に了解したような頷きを返す美南の薬指には、銀色のマリッジリングがはめられている。彼女も愛する人と永遠を誓うまでには辛い経験を経てきたりもしたのだろうか。美南は私と出会った時にはもう結婚していたし、彼女は自分のことをあまり語らないので今までどんな過去を送ってきたのかをきちんと聞いたことは無かった。もっとも、それはふたりでいるといつも私ばかりが一方的に喋り過ぎてしまうことが関係しているのかもしれない。 美南が言うように、しつこく女にアプローチしてくるような男にロクな奴はいない。晴喜はその日本代表に選ばれてもおかしくない位のクズだったけれど、あの頃の私にとっては、晴喜のそのしつこいアプローチが嬉しかったのも事実だった。 私が晴喜の前に付き合っていた男は出会って三度目の春に「もう律子に向き合えない」と言って私から去って行った。 彼を失ってしまった私は、毎日死ぬことばかりを考えていた。 その時まで、失恋して自殺するような女なんて馬鹿だと思っていた。ひとりの男との関係が終わったとしても男は他にたくさんいるのだし、恋なんて幾らでも出来るではないか。失恋なんて世の中にはよくあることだ。どんなに辛くても苦しくてもみんな、そんなことくらい乗り越えている。 喪失感の表現に「心にぽっかり穴が開く」というものがあるけれど、私の心には本当に大きな穴が穿たれたようだった。平穏な状態の心が鍋敷きのように丸く平らなかたちだったとしたら、彼を失ってしまった直後の私の心は底の無いサラダボールのようなかたちに変形していた。身体中の全神経を集中させて縁につかまっていないと、下方の暗い場所に簡単に滑り落ちていきそうだった。「あ、死のう」と、ふとした瞬間に思った。死を願う気持ちは決意とは違った。「あ、」の瞬間に意思は無く、タイミングやシチュエーションだけがあった。そのどちらもが揃った時に、人はそれまで必死に掴まっていたサラダボールの縁から手を離してしまうのかもしれない。 私は彼のことばかりを考え続けた。頭の中では、私のことを一番好きだった時期の彼が何度も思い出された。私の名前を呼ぶ彼の声、そのあとに彼のあまくあたたかなため息が私の耳に触れるそれだけで、しあわせだったこと。 「あ、」の瞬間は、鬱々と過去を振り返るひとりきりの部屋に度々やってきた。私は極力ひとりでいることを避け外に出て、生きる為にお酒を飲んだ。 飲んで、吐いて、酩酊して誰かとセックスして、記憶をなくして、翌朝に言動を恥じてもやり場が無くてまた飲酒して全部吐き出して、そんな繰り返しばかりを続けていた。男の子と肌が触れ合う時に優しくされても、何の喜びも感じなかった。その代わりどんな仕打ちを受けても心の痛みがあとに残ることも無かった。自分が関心を持っていない人間からされたことは、容易に流すことが出来た。もう会うことさえないのに私を傷つけるのは未だに彼だけだったし、その傷を彼が癒してくれる日が再び来るのではないかと私はいつまでも心のどこかで期待していた。傷付けられた人に癒してもらいたいと願ってしまうのは、なんて厄介なことなんだろう。 ある朝目覚めると、四方を透明なガラスに囲まれた部屋の中にいた。 パニックになって騒いだ私をなだめに来たのは警察官の制服を着たおじさんだった。威圧感を覚える服装に反してどことなくとぼけた味を持つ彼は、私に、ここは警察署の中にある保護室だと説明してくれた。泥酔者を保護し収容する為の部屋らしく、その作りはテレビドラマでよく見かける刑務所の内部に似ていた。私は酔っ払って路上で暴れていたところを通報され連れて来られたらしい。朝の五時までは出られないから、とおじさんは私に言い残してあっさりと去っていった。自分がどうしようもなく惨めで恥ずかしかった。保護室から出してもらえる時間になるまでずっと泣いていた。 すっかり涙も枯れ果てた頃、女性警官がやってきて私は署内の別の部屋へと連れて行かれた。一通り中身を点検されたらしい自分の荷物を受け取って、彼女から渡された用紙に住所と名前を書いた。女性警官は私に、このままひとりでは帰せないので誰かここまで迎えに来てくれる人はいないかと尋ねた。この二年間、恋人以外とまともに連絡も取り合っていなかった私には、朝の五時に警察署に迎えに来てくれる人間なんて心当たりがなかった。 坂出美南は、私が半年前にバイトを始めた本屋さんでバイトリーダーを務めていた。彼女とは一応連絡先の交換はしていたもののそれまで一度も連絡をとったことはなかった。お店で会っても挨拶を交わすくらいでこれといって話をした記憶も無い。バイトには彼氏と別れたのを機にふっと行くのをやめてしまってそのまま顔を出していなかった。その程度の知り合いだったにも関わらず私が自分の狭く薄い交友関係から坂出美南を選んだ理由は、今後の人生でもう関ることがないだろうと思ったからだった。この先二度と会うことが無いのであれば、どんな醜態を見せてしまったって迷惑をかけたって構わないと思った。 「ああもう、全然酒が抜けない」 「つらいね。あ、経口補水液とか飲んでみたらどう?」 「それって、脱水症状の対策に飲むと良いってやつですよね。去年の夏頃テレビでさんざんやってたな」 「二日酔いにもいいらしいよ」 「そうなんですか。でも今はそれよりもしょっぱい汁物が飲みたいです。お酒飲んだ後よく思うんですよ、自販機で、『あったか~い だし汁』が売ってないかなあって」 「のんべえだねえ」 早朝に突然警察署に呼び出されたにも関わらず、坂出美南は私に嫌な顔ひとつしなかった。私がどういういきさつで保護室に入れられたかを尋ねることもなかった。警察署から駅に向かう道を喋りながら並んで歩く私と彼女の間には、まるで以前からこうして話をするのが当たり前だったかのような気安い雰囲気があった。 「今日は本当にごめんなさい」 「大丈夫よ。いつもこのくらいの時間には起きているから。旦那が朝早いの」 「旦那さん怒ってませんでしたか?」 「うーん、笑ってた」 「笑われちゃいましたか」 私が情け無い声を出すと、坂出美南はふふっと小さく笑った。 「あの、バイトのことも……その、バックレてごめんなさい」 「やっぱり、もう辞めちゃうんだね」 「うん、そうですね」 「そっか。せっかく仲良くなれそうだったのに残念」 「私も、もっと早くに坂出さんに話し掛けてれば良かった。すみません、こんな時ばかり連絡しちゃって」 私が頭を下げると、坂出美南はとんでもないとでも言う風に右手を胸の前で左右に振った。 「大丈夫だよ。まあ、人生色々、事情も色々だから気にしなくていいよ」 坂出美南の優しい声が頭の上から降ってきて、私はその言葉でまた、彼のことを思い出してしまっていた。自分の両目にみるみるうちに涙が溜まっていくのが分かった。 「倉林さん大丈夫?」 顔を上げて坂出美南と目を合わせた瞬間、溜まっていた涙が次々に零れた。私は顔を両手で覆い、再び下を向いた。手の平は涙で湿り、すぐに、水を流したかのように濡れた。 「あー、あのですねー坂出さん、私、彼氏にフラれちゃったんです」 しゃくりあげたままそんな言葉を口にし、私は、世の中にありふれたこんな事象でここまで打ちのめされている自分が恥ずかしくて、いますぐこの場所から消えてしまいたい気持ちでいっぱいだった。 「そうだったんだ。つらかったね」 坂出美南は私の背中を慰めるようにさすってくれていた。 「私なんかが力になれるかは分からないけど、倉林さんが良ければ、なんでも話してね」 そう優しく言葉をかけてくれた坂出美南とはもう会うことがないから私は、彼女に促されるまま入った早朝のデニーズでこの恋愛のかっこ悪い顛末を話した。私の吐露は卓上に置かれていたモーニングのメニュー表がランチのそれに変えられるまでとどまることが無く、私と彼女との関係は、それからもずっと続いている。 あんなに苦しんだのに、今思い出す「彼」の顔はのっぺらぼうだ。 「彼」に限らず、私は昔の恋人たちの顔や名前を殆ど忘れてしまっている。そこに取って代わる人物が現れれば、彼らのことは私にとってどんどん重要な記憶ではなくなってくる。 晴喜に出会ったのは、今はもうのっぺらぼうの「彼」の顔がまだ私の頭の中に残っている頃だった。 晴喜は、あまり感情表現をしなかった「彼」とは対照的に、気持ちをストレートに口にするタイプだった。私への告白も出会ってすぐしてきたし、その時にはまだ乗り気ではなかった私が晴喜からの申し出を断った後もめげずに何度もアプローチをしてきた。そのしつこさに負けて私は晴喜と付き合い始めることにした。本音を言えば、その分かりやすい愛情表現や強く真剣に私を求めてくれたことが嬉しかった。晴喜との交際が始まり、私の過去の記憶の中には完全に顔を剥がされた男がまたひとり増えた。 私は晴喜からのアプローチを誠実なものだと捉えていた。しかし、それがおめでたい勘違いだったと思い知るのはそう遅くなかった。晴喜の中に誠実という二文字は存在せず、彼は何度も浮気を繰り返した。 「あの女、ちょっと頭がおかしいんだよ」 晴喜の初めての浮気が発覚したのは、私の携帯電話に見ず知らずの女からメールが送られてきたことがきっかけだった。その糞マンコは自己紹介の挨拶もなく、私にいきなり自分と晴喜との恋愛関係について書かれた長文を送りつけてきた。すぐに晴喜に詰め寄ると、晴喜は自分の無実を主張し、女に責任を転嫁した。今では、そんなセリフは晴喜お得意のいいわけであるとすぐに分かるが、当時の私は彼が被害者なのだと本気で信じてしまった。 二度目の浮気が発覚した時、当て付けのつもりで他の男とデートをした。 その時の相手が祐一君で、彼とのデートは今あおいちゃんにそのすべてを話したとしても許してもらえるくらい健全なものだった。それくらい私は晴喜に対して義理堅くしかいられなかった。祐一君はおしゃれでかっこよくて、とても優しい男の子だった。それなのに私は彼と一緒に過ごしている間も、始終晴喜に会いたいと思っていた。 三度目以降の晴喜の浮気に関しては、もう私は無駄に足掻くことさえやめた。晴喜はどんな時も「被害者」では無いということは分かっていたけれど、私はそれでも彼を許した。腹の内では浮気相手の女どもへの憎悪の炎がいつでも燃えていた。 そしてまた恒例の浮気が発覚して、心はもうぼろぼろになっていながらもまた晴喜を許そうとした私に、彼はとんでもない言葉を掛けた。 「ごめん。これからは、あっちと付き合っていきたいと思ってるんだ」 晴喜をなじる言葉は幾らでも出てきた。私から始まる私のターンのみの古今東西「罵詈雑言」は永遠に終わらないかのようにさえ思えた。晴喜に別れを告げられた瞬間から、私は晴喜を憎んでいた。いや、正確に言えば私はその時に、自分が今までずっと晴喜を激しく憎んでいたことに気が付いた。 「私もAVやって自殺しようかな。かわもと遥みたいに」 それまで私からの罵倒を甘んじて受け入れていた晴喜だったが、私の口からその名前が出た途端顔色が変わったのが分かった。 私が晴喜と付き合うことになって最初にしたことは、彼が過去に交際していた女について探り、把握しておくことだった。 晴喜の携帯電話のアドレス帳から大学時代の友人の連絡先を入手し、私は得意の手口でその友人にコンタクトを取った。彼は馬鹿で饒舌な人物だった。口と脳みその軽い彼は、その頃には既に死んでいた「かわもと遥」のことを私に教えてくれた。 晴喜が大学時代に交際していた女は、その後「かわもと遥」の名前でAVデビューし自殺した。 私は彼女の絵に描いたような不遇な人生を知った瞬間、思わず笑いが漏れるのを禁じえなかった。だけれどそれは楽しい笑い話では終わらなかった。 かわもと遥は弊害を撒き散らすスプリンクラーのような馬鹿だった。 あろうことか彼女は、自身の公式ブログにその仕事の愚痴やネガティブな心情の吐露を赤裸々に書いた。悪趣味なミラーサイトが彼女の死後もその内容を保存していたおかげで、私は彼女が一日に何度も更新した幼稚で頭の悪い文章を閲覧することが出来た。 彼女は、自身がいつでも死にたくなる最悪な仕事に就くいつでも死にたい頭のオカしい人間であるという内容をブログに書き連ねた。自傷の跡が分かる手首の写真を見せ付けるかのように載せることもあった。 一部のインターネット利用者の間でそのブログが一気に注目を浴びるようになったのは、かわもと遥がそこに晴喜のことを書いたこときっかけだった。 彼女は一般人である晴喜の実名を出し、ふたりで撮った写真まで載せて彼が自分をここまで追い込んだと非難した。彼女は晴喜がまるで加害者であるかのように彼を扱い、自分が男性不信になったことも自暴自棄でこの業界に飛び込んで自分の人生がめちゃくちゃになったことも自分の頭がオカしくなって毎日死にたいと思っていることも全部を晴喜のせいにした。 それを読んで激しい怒りに震えたのは私だけではなかった。 当時彼女のブログを読んでいた物好きで俗悪で良識的な人間が一斉に彼女を糾弾した。 死にたいなら勝手に死ねよ肉便器、最低なのはお前の方だ死ね、いつまで生きてんの? 死ね、死んじゃえー、死ね死ね死ね、死にたいなら死ねよ、お願いします死んでください、死ねばいいと思うよ。そう言われてそのまままに、彼女は死んだ。 「生まれてすみません、死にます。」それが、彼女の最期のセンテンスだった。 救いようの無い馬鹿な女。私には晴喜が不憫で仕方なかった。 こんな女の味方をしてくれる人間なんて勿論いなくて、一連の事件のウォッチャーたちも晴喜のことは頭のオカしい女の被害妄想に巻き込まれてしまった無実の元恋人という見方をしていたようだったけれど、それでも、こんな女と付き合っていたという恥ずべき過去を見ず知らずの人間にまで周知されてしまうなんて、どんなにか悲劇的な話だろう。 生涯出会うことの無い赤の他人だけにそう思われるのならまだいい。晴喜の直接の知り合いでこの女とのことを知っている人間であれば、彼の後ろにどうしたってこの女の亡霊を見てしまうのではないだろうか。可哀相な晴喜。私はこんな女とは違って晴喜に迷惑をかけたりしない。晴喜を傷つけたりしない。私は傷付いた晴喜のことを癒してさえあげられる。私と一緒に居さえすれば、晴喜はつらい過去も忘れることができる。私と一緒にいたら、きっと晴喜はしあわせになれる。私は晴喜をしあわせにするし、そうすれば晴喜も私をしあわせにしてくれるはずだ。 私は、晴喜としあわせになるためにずっと我慢をし続けた。浮気をされても、冷たく当たられても、約束を破られても耐え抜いた。服装や言葉遣いが気に食わないと言われればすぐに直し、私は晴喜の気に入るような振舞いばかりを覚えていった。 晴喜はたびたび私に「愛してる」と伝えてくれた。私はそれを疑いもしなかった。 晴喜と付き合っている間、彼と過ごす時間は夢のように輝き、ひとりになった途端に私はたまらなく虚しくなった。どこか恥じ入るような気持ちで毎日を泣いて過ごした。晴喜と会っていないと気が狂いそうだった。他の女と一緒にいるのではないかと気が気でなく、私は憤りと寂しさを不安定に行き来しながら泣き通して何度も朝を迎えた。 それでも耐えていたのは、晴喜は私のことを一番に愛していると思っていたから。このまましあわせになれると信じていたから。 「緑色の死体になっちゃったんでしょ?あはー」と、私は心底愉快な気分で硫化水素自殺を遂げたかわもと遥の話を続ける。 晴喜の好みに従って口ごたえもせず可愛らしく振舞うことに努めていた私が、別れを切り出された途端に手のひらを返したことに晴喜は面食らっている。かわもと遥のことを言われたのは相当意外だったようで、「よくそんなこと言えるね」と一言吐き捨てたきり極めて不愉快そうな顔で黙り込んでいた。 かわもと遥のことを知っても、もちろん晴喜にはずっと黙っていた。それはあまりにもナイーブな問題だったし、私までもが晴喜の後ろにあの女の亡霊を見ていることを知ったら彼を傷付けてしまうだろうから、墓場まで持って行くつもりで今まで胸のうちにそっと仕舞っていた。だが、私のことを愛さず、裏切った男なんていくら傷つけても構わない。不平不満と嘘と秘密でもう骨壷の容量もいっぱいだ。 「死ねよカス! どの口がそんなこと言ってんだよ。女死なせといてよくもそんな綺麗ぶったことが言えるもんだな。全部てめえのせいだろうが。まあ、てめえが付き合う女なんてみんな生きてる価値も無い人間ばっかだけど。全員メンヘラの糞ビッチじゃん。ていうか、マジでてめえが女の頭オカしくさせてんじゃねえの。てめえの精液に女の頭オカしくさせる成分でも入ってるんじゃない? マンコだったら何でも突っ込むド畜生だからチンコもキチガイになってんだよ。性病撒き散らすだけじゃなくて精神病まで撒き散らしてんじゃねえよ、糞汚い病原体。AV糞ビッチもてめえの所為で精神ぶっ壊れて死んだんだろ。あたしもてめえの所為で頭オカしくなったわ、このメンヘラ製造機が!」 私はずっと、かわもと遥の亡霊に悩まされていた。 目立って美しいわけでもなく軽薄で尻軽なだけの頭のオカしい糞ビッチは、その奇行によって晴喜に彼の恋人史上最も強いインパクトを残したという只その一点で私を脅かした。 私は今までの恋人や他のどんな女よりも晴喜に一番に愛され、その心に深く入り込めることを願っていた。晴喜の心を私だけの場所にしたかった。生きている女は晴喜と別れればまた違う場所に行ってしまうが、死んだ女はいつまでもそこを動かないような気がしていた。 かわもと遥についての情報を収集することは、まるで自傷行為のようだった。 晴喜とかわもと遥のツーショットの残像はいつまで経っても頭から消えることはなく私を苦しめ、今まではなんでも無い日だった一日がかわもと遥の命日であるということを知っただけで不吉な記念日に代わった。 かわもと遥のことを知るのは嫌でたまらなかったのに、同時に、かわもと遥のことを知らないと居ても立っても居られない自分がいた。私はかわもと遥に、晴喜がかつて愛したことのある他の女たちや、気まぐれに手を出す女たちの姿さえも投影していたように思う。彼女はそれらの負の象徴だった。 あおいちゃんが私に会いに来た時、私は、自分が彼女にとってのかわもと遥なのではないかと感じた。それはおそらく、濃度が違うだけで成分は一緒だった。 かわもと遥がもしも生きていたならば、私は彼女に会いに行ったのだろうか。彼女のAVの発売記念イベントに並んで、晴喜のことを尋ねたりしただろうか。それは何故だか私にとって少しだけ愉快な想像だった。あおいちゃんは、かわもと遥に会いに行った私だ。 私があおいちゃんに連絡先を訊いたのは、かわもと遥に会いに行った私がそこからどんな風に彼女を手なづけていくのかを知りたかったからかもしれない。 晴喜と別れた直後、私は彼から数十万の金を受け取った。ワガママで気が強く自己中心的な晴喜が手切れ金なんか払うわけはなく、私は晴喜に妊娠していたと嘘を吐いて堕胎の費用と慰謝料を貰ったのだった。随分揉めた末でのことだったが、私の言葉だけでそれを信じて金を出してきた晴喜は馬鹿なのかそれとも、彼に呪詛の言葉を喚き散らし職場や親にバラすと詰め寄った私から逃れたかっただけだったのだろうか。半々かなと私は考えている。 あおいちゃんにこのことを話すと「そんな話を証拠もなくすぐに信じるなんて、きっと初めてのことじゃないんでしょうね」と忌々しげに吐き捨てた。 あおいちゃん大正解。私が知っているだけでも晴喜はふたりの女に子供を堕ろさせている。私に嫌がらせの電話を掛けてきた浮気相手の名前も知らない糞マンコと、かわもと遥。 晴喜から茶封筒を受け取った瞬間、私は嗚呼、死ななくて良かったと、思った。 恋に病んで死んだ女を非難し憎しみ続けていた私は、それでもやはり、晴喜にふられた時も、死にたいと思っていたのだった。 たいしたことない容姿と、軽薄さと尻軽さと、馬鹿で、晴喜に執着して、自己顕示欲の強いかわもと遥は私とすごく似ていると思っていた。晴喜には、かわもと遥はお前のせいで死んだとなじったけれど、私は本音ではそうは思っていなかった。底の無いサラダボールの縁から手を離したのは彼女自身だ。 悲しみなんて乗り越えなくても良かった。誰かに馬鹿にされても真に受けずに無視していれば良かった。かわもと遥が生きていても死んでいてもどうせみんなすぐに彼女のことなんて忘れてしまう。正論を振りかざしたり、右に倣えで悪戯に彼女を叩きのめしたりしたのだって、ただみんなあの日の暇をつぶすおもちゃを見つけて喜んでいただけに過ぎなかったのに。 私は、晴喜を嫌な気分にさせるためにかわもと遥の名前を出した時、いつか私もこんな風に、誰かに自身の死を冒涜されてしまったら嫌だなと思っていた。 身を裂くような辛さに襲われ孤独で夜も眠れなくて悩み苦しみ抜いて選んだ死だったとしても、自分が死んでしまった後ではそれを誰の口からどんな風に語られても反論さえ出来ない。ただ大きな穴に落ちないように、必死に這いつくばっているだけでも、見ず知らずの他人に自身の死を馬鹿にされたり、都合の良いように利用されたりするよりはマシなのではないだろうか。 かわもと遥も、私みたいにすれば良かった、あんな奴のために死ぬことなんてなかった。 泥試合を仕掛けても自分のことだけを考えて図太く強く生きていれば晴喜を負かせることだって出来たかもしれない。もっと賢くなることも、しあわせになることだって出来たかもしれない。 打ちのめされて弱った人に向かって、強くなれ、と言うのはむごいことだと思うが、だけれどそれは本当で、強くならなくては生きても行けないというのは、なんて残酷なことなのだろう。誰かを失う度に砕けた心の再構築を試みると、心は以前よりもずっと強く強く強くなってしまう。不信という壁は厚くなり自己愛の柱はいよいよ強度を増す。もうこれ以上、強くなんてなりたくないのに。 私とかわもと遥は確かに似ていたと、今もやはり思う。だけれど、私たちははっきりと違う。私は生きていて、彼女は死んだ。私は自分の真っ赤な血を守る為だったら彼女の死を蹂躙することも厭わない。私はかわもと遥にもそうして欲しかった。彼女の手の内には切り札になるようなカードはなかったかも知れないけれど、それでも、晴喜を憎み罵倒し続けて傍観者を閉口させてまわりを全員敵にまわして嫌われまくっても、自分が満足する着地点を見つけて欲しかった。どうせ私たちみたいな種類の女は周囲から疎まれているのだし、思い通りにならない毎日に歯噛み続ける日々を送っている。馬鹿で性悪な人間が、中途半端に世の中の美徳に迎合しようとして死を選ぶ程追い詰められるのだったら、せめて悪徳の中にスカッとする一瞬を見つけ生き長らえることの何がいけないのだろうか。 かわもと遥の中にもそんな瞬間がやってきていたら、私は今、彼女と笑顔でハイタッチさえできたような気がする。 私は自分が底の無いサラダボールの中に滑り落ちてしまうくらいなら、他人を蹴落としてでもそこに足場を作ることをこれからも選んでいくだろう。自分が傷付き尊厳を失うくらいなら、そちらの方が百万倍マシだ。健全な判断力を持つ他人が私に意見しようとも、この件は私の中ですでに解決済みの事柄なので、どこの誰が私にどんな説得を試みようと、私の脳みそがこれを再び問題として取り上げることは無い。私に対しての苦情を受け付ける機関は二十三年前に営業を停止した。私に反論するすべての人間は悪質なクレーマーである可能性が高いので今すぐ適切な施設にてカウンセリングの予約を取ることをおすすめする。うるさいッ! 私が正義だ! どこの誰が私に文句をつけてきたって、私は、生まれてきたことを詫びたりなんてしない。 生まれてすみませんて言えなくてすみませんと悪態をついてでも私は、生きていく。
5.ストレスフル・デイズ
ヘアメイクさんに髪の毛をセットされている鏡の中の自分をぼーっと眺めていると、私はいつまでこんなことを続けるのだろうと、うず高く盛られていく髪の毛とは裏腹に気持ちはどんどん滅入ってくる。 恋人がいる時は相手に好印象を与えたくて昼の仕事に就くのだが、ひとたび恋人と別れると私はすぐに水商売に戻ってしまう。この仕事は大嫌いだったし、いつまでもこうやってキャバ嬢をやれるわけではないのだから早く堅実な仕事で身を固めなくてはいけないと思っていながらも、情緒不安定で怠惰な私は制約の多い昼の仕事には長く居場所を見つけられず、夜の世界からなかなか抜け出すことが出来なかった。今、恋の病で二週間も店を病欠した所為で、私の経済状況は非常に困窮している。今月の生活費はすでに底を尽き、家賃も払えるかどうかさえ分からない。本当はまだ働きになんて出ずに家で千塚さんのことだけを考えていたいのだが、そうは言ってもお金がなければ生きてはいけない。私は酔客の下らない冗談に大笑いし、センスの無い下ネタに嬌声を立てて店から受け取る毎日の日払いで糊口を凌いでいた。水商売の時給がいくら良いといったって、そこからは天引きされる雑費なども多く、私の手元に入ってくる笑顔の対価は微々たるものに過ぎない。この一週間、私は毎日店に出て同伴も出来る限り組めるよう頑張った。「シャイン」という店名が英語で表記されたこの日陰の店のエントランスをくぐるたびに半ば脅迫されているような被害妄想を抱きながら、私は毎日死体みたいな気持ちで出勤を続ける。 ヘアメイクが終わってフロアに出ると、店長が「ナイス、唯ちゃん!」と私に満面の笑みを向け親指を立てた。その前時代的なノリにどう反応をしていいのかは分からない。無表情で頭を下げて、彼の後ろに付いて今日同伴で一緒に店に来たカズキさんの待つ席へと向かう。 本当はカズキさんには私がまた店に出始めたことを言いたくは無かったのだが、同伴バックの五千円欲しさに今日の夕方ついに彼と連絡を取ってしまった。さっきの居酒屋で軽く食事をしただけでもしんどかったのに、まだこれから何時間も彼と向き合わなければいけないのかと思うと向かう足取りも重くなる。それでも、私はカズキさんと目が合った瞬間にパッと笑顔を作って、主人を発見した犬のようにさも嬉しそうに彼の隣へ膝を寄せるようにして座った。私は資本主義の犬だ。 本当に、私はいつまでこんなことを続けるのだろう。ずっとずっとずっと何も変わっていない。変えていけない。振り返れば手を替え品を替え、源氏名を替え店を替えて同じことを繰り返しているだけだ。メビウスの輪の中をぐるぐると巡るように、ここからいつまでも抜け出せない。このままではいけないということは分かっている。私が思考と行動を停止させているうちにも、世間はめまぐるしいスピードで回っている。今日の夕方インターネットで、ゆめいろファクトリー初のCM出演が決定したというニュースを見た。千塚さんに出逢うまでアイドルというものにまったく興味のなかった私は、もちろんそれまでゆめいろファクトリーの存在も知らなかったのだけれど、アイドルファンの間では彼女たちはすでに名の知れたグループだったようだ。どの分野の話であっても、その世界に精通したファンたちの間での知名度と世間一般での認知の度合いには大きな隔たりがあるのだろうが、人気や知名度と言うものは一度その隔たりが破られると今までの速度を無視して一気に加速して広まっていくことがある。私はゆめいろファクトリーがそうなれるか否かの、もっともじれったく忌々しい季節に彼女たちを知ることになってしまったようだった。人気が高まればそれに応じてメディアの露出も増え、芸能ニュースに載る回数も多くなる。彼女たちが取り上げられるのはまだテレビではなく専らインターネットのニュースだったが、ここ最近になって話題になる回数が急上昇していることは、彼女たちのデビューからの動向や世間の反応を微に入り細を穿って調べ取り込んできた私自身がよく知っている。私は相変わらず彼女たちを苦々しく感じているけれど、この一ヶ月弱の間毎日ゆめいろファクトリーを見続けるうちに、このグループや五人それぞれのキャラクターにどことなく思い入れのようなものを覚えたのも事実だった。可愛いだけの糞ガキ集団がニコニコ笑ってりゃあちやほやされて、千塚さんにも好きになってもらえるんだからぼろい商売だよなあと思っていたけれど、彼女たちがステージで流す汗やバックステージで流す涙の量を知り、彼女たちの気持ちや夢を知り、千塚さんが彼女たちのファンでさえなければもしかしたら私も彼女たちを応援していたかもしれないとさえ思うことがあった。世間からは、客の前で可愛くして笑ってりゃいいだけだと思われているキャバ嬢でさえこんなに辛くて疲れるのに、それの昼夜問わずの全国拡大版なんだから、その苦労は私なんかの比にはならないだろう。食べたい盛り、遊びたい盛りで精神的にも多感な年頃の女の子が、必死で節制し、時にはまわりからの悪意にもさらされながら、それでも笑顔を振りまくことが如何程に大変なことであろうか。 「唯ちゃん」 ふいにカズキさんが私を呼んだ。 「今、ぼーっとしてたよね。何か考え事でもしてたの?」 上の空で話を聞いていた私にそう尋ねてきた彼の顔からは、微かな怒りの色が伺えた。 「ずっとカズキさんのこと考えてたー」 この場を誤魔化したい一心の私の糞下らない冗談に、カズキさんはまんざらでもなさそうな顔をする。 「唯ちゃん、最近も仕事忙しいんでしょ。俺と話してる時にまでぼーっとしちゃうなんて、寝る時間もちゃんと取れてないんじゃないかって心配になっちゃうよ」 私はカズキさんに昼間はアパレル関係の会社に勤めているという嘘を吐いていた。出会った当初、休みの日や空いている時間があるといえば彼はしつこく会いたいと言って来たので、私は次第に、休みも殆ど無い会社で昼間は馬車馬のように働いていると説明するようになっていった。 「心配してくれてありがとう。うん、最近忙しくてここ二週間は休みなしだよー」 「大変だね。テンパリぱりぱりって唯ちゃん言ってたもんね」 「え、何その単語」 「今日唯ちゃんがメールで言ってなかったっけ」 「ああ、もしかして『ストレスフル・デイズ』のこと?」 「そう、それ!」 そう言ってカズキさんは指をパチンと鳴らした。その仕草も指を弾いた時に出た軽い音も、テンパリぱりぱりという気持ちの悪い語感の単語もすべてが私の気に障った。 夕方彼に送ったメールの内容は、最近仕事で煮詰まってるからカズキさんと飲みに行ってストレスを発散したいという建前の、営業メールだ。その中で私が、架空の会社での多忙で重圧の多い毎日を「ストレスフル・デイズ」という単語で表現したことは覚えていた。その単語に大した意味を持たせていたわけでもこだわりを持っていたわけでも無かったが、カズキさんの脳内で勝手に「テンパリぱりぱり」なんていうセンスの無い単語に置き換えられると自分の感性を軽んじられたような気分になって非常に苛々してくる。擬人化されたブルドッグが背中でバスケットボールをするシャツを着ている男の感性で自分の言葉を上書きされる以上の屈辱はそうそうあるものではない。だいたい私の「ストレスフル・デイズ」の一因はてめえにもあるんだからこの単語は頭によく叩き込んでおけよ! と怒鳴りたいのを抑えて、形状記憶化している営業スマイルをキープし続ける。 「まあ、その話はどうでもいいとしてさ。唯ちゃん、俺たちの関係性ってこの間最後に会った時から一歩も進んでいなくない?」 私の憤りにはお構い無しにカズキさんはその話題を勝手に片付けて、テンパリぱりぱりという単語以上にしょうもない話を私に振る。 「この間って一週間ちょっと前に会った時のこと?」 只の客とキャバ嬢であるふたりの関係性の一体何についてカズキさんが言及しようとしているのかは私には理解しかねたが、それについて理解しようという気も起こらないのでわざと論旨をずらした質問をぶつけると、彼は一瞬の間を置いて、 「最後に会ったのは一週間ちょっと前じゃなくて、二週間前だよ」 と一言返したきり黙ってしまった。 私にはカズキさんのその反応がまた理解できない。以前にこの男と会った正確な日にちなんて全く覚えてはいないが、私たちが二週間会っていないことが事実だとしてそれを「一週間ちょっと」と表現することの何がそんなに気に障るというのだろうか。私たちふたりの関係性は、たとえ二週間連続で毎日会っていたとしたって一歩も進むことは無いというのに。 「ごめんね」 私は心にもない謝罪の言葉を口にして眉頭の力を抜いた申し訳なさそうな顔を作る。カズキさんは真一文字に結んだ唇を微かに震わせたまま黙っている。この男は何か気に入らないことがあったり怒っていたりする時、こうして震える程に唇を固く結んで何も喋らなくなる。そして、内心とても苛々している筈なのに平然を装って引き攣った表情のまま無理やり両の口角を上げようとしたりする。怒りをこらえるのが大人の分別だとでも思っているのかもしれないが、こんなに分かり易く腹の内が顔に出るのでは元も子も無い。言いたいことがあるのならば言葉を噛み殺して唇をバイブさせたりなどせずにはっきり口に出せばいい。この男のこの表情と対峙し続けていると自分自身の中に言い知れない怒りがふつふつと込み上がってきて、私は一時間三千五百円で丸め込まれている感情を爆発させてしまいそうになる。 「そっかあ、もうそんなに会ってなかったんだねー。どおりでなんか寂しかったわけだー。ねえ、そうそう、聞いてよカズキさん。私最近面白い映画を見たんだよね」 私は声の調子を無理やり明るくして話の転換を試みる。数ヶ月前にたまたま見たことがあるだけの好きでも何でもない映画のストーリーを身振り手振りを交えて精一杯楽しそうに話しても、カズキさんは一向に興味を示さず唇を震わせたまま押し黙っている。私の解説がすべて終わるとカズキさんは、 「その話、前に聞いたよ」 と不機嫌な声で言った。それなら、序盤で主人公がピザと間違われて石釜で焼き殺されてしまうシーンで話を遮ってでもくれれば良いものを、どうして結末を話し終わるまで何も言わないのだろう。この意地の悪さは、気弱なバイトのエリックが冷蔵庫の中のアンチョビを勝手に食べたことをどうにか誤魔化そうと必死で演技をするシーンですべての事実を把握していながら知らない振りをして彼の釈明に耳を傾ける主人公を焼き殺したピザ屋の主人に通ずるものがある、と映画の登場人物とカズキさんを重ね合わせ憎らしく思いながら、事態を好転させようとしてとったアクションで更なる墓穴を掘ってしまった気まずさを隠し私は仕方なく間抜けな笑い顔を作る。 「あれ、話したことあったっけ? ごめーん」 「唯ちゃんて、同じ話を何度もすることが結構あるよね」 「そうみたーい。もうほんと、唯、ばかだからー。ごめんね、カズキさん」 「そういうことをされると自分が特別だって思えなくなる」 四十路を過ぎているというのにモラトリアム期真っ盛りの中学生のようなことを言うこの男は、私から特別な好意を持たれているとでも本気で思ってるのだろうか。金を介した擬似恋愛の場所で話題に事欠いたキャバ嬢に主人公が劇中五十八回も石釜で焼き殺される映画の話を二度もされた上で、どうして自分が相手にとって特別な人間だなんて勘違いができるのだろう。 「ねえ唯ちゃん、俺たちって付き合う日が来るのかなあ」 カズキさんは私と会うたびにもう何度も繰り返している台詞をまた口にする。 「私はカズキさんとゆっくり仲良くなっていけると思ってるよ」 「でも、唯ちゃんは相手を100%好きにならなきゃ付き合わないって前に言っていたよね。毎回会ってそのパーセンテージを足し算していってもちょっとづつしか進まないじゃない。それまでにどのくらいの時間がかかるのかと思うと……」 「うーん、でも私は、恋って足し算じゃなくて掛け算だと思ってるんだ。たとえば最初の状態が10%の好きだったとしたら、足し算だったらそこに5%の好きが加えれても15%にしか増えないでしょう。でも掛け算だったら一気に五倍の50%になっちゃうんだよ。好きってそういう風に何かのきっかけで一気に気持ちが盛り上がっていくものなんじゃないかな」 私の言葉を受けて返すセリフを必死で探している様子のカズキさんは、この恋の数式上、私側の元の数値が0なのだから何を掛けても無意味であるという前提条件にはもちろん気付かない。 「まあ、ゆっくり頑張れってことだよね」 カズキさんは結局勝手に自己完結して自分の言葉に頷いている。 この人はどうして自分がいつか私と付き合えると思ってしまっているんだろう。私に誤魔化され続けているこの状況から一体何故期待を持つことが出来るのだろう。期待が延期されればされる程、彼が気持ちを病み私に執着していくことに恐ろしさを感じていた。 毎日起きて携帯電話を見ると、そこにはカズキさんからのメールが何通も入っている。朝方に受信しているのはその日の天気に関する内容だ。今日は雨が降るから傘を忘れないようにだとか、夕方から気温がグッと下がるだとか、天気予報を見れば済む情報をカズキさんは欠かさず私に送りつける。その後には、昼食はそばだったとか、会社の後輩が昨日合コンした保育士とうまくいきそうだとかの、白目を剥きたくなる程どうでもいい身の回りの出来事を逐一報告する長文のメールが数通届いている。私はカズキさんの日常を適当にスクロールし続ける。 それらのメールにたった一日返事をしなかっただけでカズキさんは半狂乱になって私に電話を掛け続けてくる。私は架空の仕事で忙しくて電話には出られないから、彼に短いメールを返す。心にも無い謝罪と心からの営業の言葉。顔だけ見に行くよ、という文面を返しておきながら店に来たカズキさんはいつまでも帰らない。結局、私の顔を店が閉まるラストの時間まで見続けて、それでもまだ飽きずに、次も顔を見に来る。 借金があるという話を、この間カズキさんは初めて私にした。それが具体的にどのくらいの額なのかは言わなかったが、その話をした日でさえ彼は私のグラスを空にしたまま席につかせて置くようなことは決してしなかった。馬鹿馬鹿しい見栄の対価がサラリーマンの月給を越えているだろうことは明らかだった。 「俺は唯ちゃんが好きだよ」 カズキさんからそう言われても、当たり前に恐怖しか感じない。その後に何やらぐだぐだと続く彼の口説き文句は退屈で、私はついついカズキさんの話から意識を逃避させてしまう。今目の前にいる男が千塚さんにすり替わってくれたらいいのにというお決まりの想像で、私は頭の中に愛しい千塚さんの姿を思い浮かべる。千塚さんの薄い唇が縦にそっと開き、一瞬の間を置いてゆっくりとすぼまったそこから「す」という音が発せられたのちに、続けて発音される「き」がこぼれると、横に広がった彼の唇がまるで仔猫のように可愛い形をつくり私に微笑みかけてくれる、そんな感動的な瞬間を。 私が千塚さんと出会ってからもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。 一昨日の夜、その時間の経過の早さに焦りを覚え真夜中にまたオカしなテンションになってしまった私は、Linxを通して千塚さんに食事のお誘いのメッセージを送ってしまった。返信はそれ以降、無い。 あおいちゃんに電話で報告すると、ため息交じりの叱責が返された。 「ちょっと、いきなり攻めすぎですよ」 「色々アドバイスしてくれてたのにごめん。だって、もう早く千塚さんに会いたくて我慢できなかったんだもん……ごめん」 「自分の気持ちにすごく正直なところは律子ちゃんの長所だと思いますよ。ただ、律子ちゃんはまっすぐ過ぎて時々道なきところまで道にして突っ走っちゃいますからねー」 「ね。私、今完全に荒野走ってる。もう、ここどこ? 嗚呼、あおいちゃん私どうしたらいいの」 「この先のルートは完全にありません」 あおいちゃんはそう一刀両断した後あわてて、 「もう少し待ってから新しい作戦を考えましょう。あまり気に病まなくて大丈夫」 と私を慰めて電話を切った。 カズキさんは今日もラストまで店に居た。送り出しのエレベーターが閉まると、後ろからボーイのひとりがからかう様な口調で話しかけてきた。 「カズキさんて、只のいい人なのか唯さんのストーカーなのか分からないですよね」 「そうだね」 只のいい人であるだけなら、十数万払ってこんな店に来る理由はないだろ、とボーイを一蹴したい気持ちを抑えて、一刻も早く送りの車に乗り込むためにロッカールームへと続く階段を上がる。携帯電話を開いてLinxへとアクセスするとやはり千塚さんからのメッセージはなく、彼の日記も更新されてはいなかった。その代わり、ゆめいろファクトリーに関する新たなニュースがまた配信されていた。
6.運命は正しく歪む
あおいちゃんからメールで送られてきた手書きの地図は、彼女の几帳面な性格を反映するように詳細で正確だったので、私は初めての土地でも迷うことなく無事に他人の家にたどり着き難無く中へと侵入することが出来た。 今は家の中に誰も居ない時間帯だということは分かっていても、もしも家主がふらっと戻ってきたらどうしようかと考えてしまい気が気でない。私は目当てのものだけ見つけたら一刻も早くここを出ることを誓い、洋服ダンスの置いてある部屋へと急いだ。せっかく立派なタンスがあるというのに部屋の中は男物の洋服が脱ぎっぱなしで散らばっている。身の回りの世話を焼いてくれるような女性がいないのだから仕方が無いのかもしれないが、あまりの荒れように呆れてしまった。床に散乱した洋服たちの合間を縫ってタンスの前まで移動した私は一番上の引き出しの中に入っているという目当ての青い缶ケースを無事に発見し、それをバッグにしまうと足早にその家を出た。 その足で、あおいちゃんと待ち合わせをしている渋谷のファーストフード店へと急ぐ。 千塚さんと出会ったその場所に、本当はもうこんな時に行きたくはなかったのだが、あおいちゃんからそこを指定された時には動揺していて何も考えずに了解してしまった手前、いまさら彼女に場所を変えて欲しいとは言い出し難かった。 二階のどの席にもあおいちゃんの姿はまだなかった。 あの日千塚さんが座っていたテーブル席は、今日は浮浪者と思しき初老の男に陣取られている。彼のまわりの席ではドーナツ化現象が起こっていたが、私ももちろんそこに近寄ることはなく、窓際のカウンター席に腰かけてあおいちゃんを待った。 あの日、千塚さんが座っていた席に今日と同じようにあの男が座っていたら、私は今頃どんな毎日を送っていたのだろうか。 私は男の方に視線を向けて、すぐに目を背けた。それは、もしも千塚さんと出会わなかったらという仮定の想像を進めるのを止めようとしたこともあったが、自分の視界に汚いものを入れたくなかったからだった。あのテーブル席は今、あの日のこの場所をおとぎ話に変えてくれた魔法の絵本が閉じられたのちに、幾千年の時を経て一つの文明が終わって荒廃しきった世界の様態を呈していると言っても過言ではないくらい、美しい世界からは縁遠くなっている。男の薄汚れた雰囲気や醜い造作が目に入ると私は禍々しい現実の姿を見せつけられているようで気持ちが滅入った。美しいものを眺めている時の気分とはまったく対照的だ。美しいものはその内側に夢を包み込んでいる。想像力を掻き立てる優れた器さえあれば、私はその中身に何でも思い通りの夢を見ることができる。美しい装丁と挿絵で展開される絵本は、それがたとえ陳腐なおとぎ話であっても私をうっとりとした気分へと誘ってくれる。 美しさに何かを期待し、そのかたちの内側が他よりまさった何かを秘めているように感じてしまうのはいけないことだろうか。 私は、千塚さんの美しい容姿が好きだった。 人の外見を重要視するのは表面的な現象ばかりを追う浅はかなことだと非難する人もいるだろうが、では、内面を重視していたらそれは人を本質的に見ているということになるのだろうか。その人の内面の明るさや優しさに惹かれることを本質的な部分に魅せられるということだとしたら、その性質が彼ないし彼女の本来の姿であるという確認は一体何を以って行えば良いのだろう。その人の優しさは自分との間でしか発生しないものかもしれないし、自分が勝手に勘違いをしていて他の人からは認められないものなのかもしれない。それこそ、現象的なことではないだろうか。また、何かの理由によってその人からその性質が失せてしまうことがあれば、その人は本質を無くしたということにもなってしまうのだろうか。 物質に基づく容姿は、実際に目に見え、確かにここに在るものだ。誰の目にも変わらなく映る。だけれど、それでも肉体や見た目だけを追っていることが本質的だとはやはり思わない。人は外見と内面が相俟って初めて「その人」となり得るのだから、その両面を捉えることが本質的に相手を認めるということだと思うし、そこに行き着くにはどちらが取っ掛かりになっても良いのだと思う。他人を簡単に見抜ける人なんてそうそう居ない。みんな、相手の中に虚と実をない交ぜに見ながら少しずつ相手の本当を了解していく。 私は千塚さんの書く日記に表れる彼の情熱的な部分に面白みを感じてもいたし、千塚さんから受け取るメッセージから伺うことのできる気遣いある優しさにも惹かれていた。 ぼうっと物思いに耽っていると、背後から私を呼ぶあおいちゃんの声がした。 「律子ちゃん、待たせてごめんなさい」 振り返ると、そこには顔を腫らしたあおいちゃんの姿があった。昨晩会った時より少しは腫れがひいてはいるが、右目の上あたりが赤みを帯びて変色している姿には痛々しいものがあった。あおいちゃんが祐一君と別れたことを聞いたのは昨日の夜だった。 同じ学校の同級生に好きな人が出来てその彼とうまく行く運びになって、あおいちゃんは祐一君と別れることを決めた。躊躇いの気持ちも強かったが、長い間随分悩んで出した答えだったとあおいちゃんは話した。彼女から別れを切り出された祐一君は、絶対に別れないと言ってあおいちゃんを殴った。そうされて彼女は、絶対に祐一君とは元に戻らないことを決め、半同棲していた彼の部屋から飛び出した。 「悩んでいたことを気付いてあげられなくてごめん」 私はずっとあおいちゃんに千塚さんのことを一方的に相談するばかりだったから、彼女が悩みを話したくても話せなかったのではないかと思って申し訳ないような気持ちになっていた。 「気付かれないようにしていたんだから平気です」 「あ、そうだよね、私なんかじゃ頼りにならないもんね……」 「ううん、違うの。そういう意味じゃなくて、自分の気持ちに整理がつけられなくてどう話していいか分からなかったんです。祐一がいるのに他の人に惹かれるなんて、あっちゃいけないことだって思ってたから。誰にも知られないうちに気持ちをセーブして、笑顔で祐一のところに戻ろうって思ってたんです。だけど、私、今の彼のことをどんどん好きになっちゃって……」 あおいちゃんはもう祐一君の元へは戻らないと決めているけれど、彼にはやはりまだ少しだけ未練があってそんな自分が嫌だということ、そして自分の心変わりをとても申し訳なく思っていることを私に話した。あおいちゃんは、長く付き合っていた祐一君を裏切ったのだからたとえ彼から殴られても自分が加害者なのだとも言った。私には、あおいちゃんが悪いことをしたのかどうかは分からない。だけれど、真剣に自分や祐一君の気持ちと向き合ったあおいちゃんを非難しようとは思えなかった。 「祐一のこと、好きでしたし、好きなんです。だけど、もう……」 「……うん。彼、これからしあわせになれるといいね」 「はい。無責任ですけど、私もそう願ってます」 私はあおいちゃんの話を聞きながら悲しいほど、今とても傷ついているであろう祐一君に過去の自分を重ねてしまう。あの頃の私がいた足元に深い闇を感じる場所に今彼がいるとしたら、早く祐一君がそこから抜け出せる日が来て欲しいと願う。 私は首をうな垂れたままのあおいちゃんに、彼女から頼まれて祐一君の家から今日持ち出してきた青い缶ケースを渡した。 彼女に中身を確認するように促すと、印鑑とパスポートというお決まりの貴重品にまぎれて、かつてこの場所で見た祐一君の親知らずが入ったビニールバッグが出てきた。この親知らずを見て、いつか千塚さんのそれを手に入れ飲み込むことを夢想した私は、あの日自宅に帰ってから実際に人間の歯を飲み込んだらどうなるのかを調べていた。 するとそれは、消化も吸収もされることなくそのままの形で排出されるということが明らかになった。体の管の中を只、通過していくだけだそうだ。だから私の夢見たことは絶対叶わなかったし、そもそも私は千塚さんの親知らずを手に入れることさえ出来なかった。 それは未来永劫決定された事実だった。 千塚さんが亡くなったということを聞いたのは、江藤真奈子の自宅マンションへの住居侵入罪の容疑で逮捕された彼の実名がネットのニュースに上がるより前だった。 それを教えてくれたのは美南だった。 その時はまだ犯人が誰であるかを知らなかった私は、カズキさんが店に来た日に見たそのニュースの詳細を懸命に調べていた。その最中に美南からの電話があった。そんな深夜に彼女から連絡があることは今までなかったので何事かと訝りながら出てみると、暗い声で私の名前を呼んだ美南は少しの逡巡を感じさせる沈黙の後、私に訊いた。 「りっちゃんが言っていた千塚って、下の名前、貴之で合ってる?」 突然の質問に戸惑いつつも私が肯定を返すと、電話の向こうの美南は急に泣き声を上げた。美南がこんな風に取り乱すのは初めてのことだった。 「美南、どうしたの」 「ニュース見た? あいつ、うちの実家に来たの」 「え、何の話」 「うちの実家、真奈子が住んでるマンション」 「……どういうこと?」 美南が何を言っているのか私には全く意味が分からなかった。 電話の向こうから美南の叫ぶような泣き声が聞こえた。呼び掛け続ける私の声にも美南は反応をしない。電話口から大きく息を吸い込む音が聞こえた。一瞬の間を置いて美南は言った。 「……真奈子は私の妹なの」 そのまま、嗚咽交じりの声で美南は途切れながら言葉をこぼす。 「あいつ、父親に見つかって逃げて、マンションのベランダから飛び降りて」 その後に美南が何を言ったのかは判断が出来なかった。 美南の言葉は泣き声で詰まり、呼吸が荒く早くなっていた。過呼吸を起こしてしまっているのかもしれない。美南からこれ以上話を聞くことは不可能そうだった。「後で話す」美南は、最後にそれだけ言って電話を切った。 美南から受けた電話は私を混乱させた。彼女が話したことはまだ報道のされていない犯人の名前以外、インターネットで検索を掛けた例の「事件」の内容そのままだった。何がどうなっているのかさっぱり分からない。なぜ私は美南の口からこの事件のことを聞いているのだろう。私は何から整理していけばいいのだろう。美南とまなこが姉妹というのは、一体どういうことなのだろうか。ふたりの苗字が違うのは美南が結婚しているからだとしても、顔は全然似ていないし、年齢だってだいぶ離れている。美南が冗談であんなことをいう人間でないことは分かっている。彼女の様子から考えて、美南を巻き込むかたちで何らかの「事件」が起こったのだろうということは伝わったが、その「事件」に千塚さんとまなこが繋がらない。千塚さんが本当にまなこの家に侵入した犯人だったのだとすればそれだけでも充分にショックな出来事なのに、それに加えて彼が亡くなったというのはどういうことなのだろうか。私はその話を現実のこととして処理できなかった。美南の口からそれを聞くことになったという運びにも疑問符ばかりが浮かぶ。この混乱を解いてくれるのは美南だけなのだが、自分から彼女に電話が出来るはずも無かった。 その日のうちにあった事件の続報では、犯人の名前と、マンションのベランダから転落し重体だったその人物の死亡が確認されたことが伝えられた。そこには確かに千塚さんの名前があった。 メディアが報じるニュースでその事件について触れられることは以降なかったが、ゆめいろファクトリーのファンの間では毎日大変な騒ぎが続いた。私がLinxでつながっていた「友人」はみんな彼女たちのファンだったし、千塚さんと関わっていた人も随分いたようだったから、話題の白熱具合は相当なものになった。非難も擁護も悪ふざけも入り乱れ、みんな千塚さんについて口々に色々なことを語った。あるマイナーなブログサイトに彼が匿名で公開していたというまなこへの愛情と妄想を綴った日記も晒された。 「しあわせストーカー日記」誰かがそれを揶揄して呼んだ言葉の後に、嘲笑を表すネットのスラングを続けた。 彼が何を言われても千塚さん自身に非があることは充分に承知していたけれど、死んでしまった彼が冒涜されていくのを見るのに耐えられなくて私はLinxを退会した。 「ヤッホー!」 「ヤッホー!」 蛍光イエローの長袖の上にショッキングピンクのベストを合わせ、下には紫色のキルトのスカートを履いていた。私はあおいちゃんと一緒に、初めての登山に来ている。山に登る時の服装に派手な色味を取り入れるのは万が一遭難した時に発見してもらいやすくする為だという雑誌から得た情報に如実に従った結果、私の全身は原色でスパークしていた。 「律子ちゃんは加減というものを知らないんですか」 呆れ顔で溜め息を吐くあおいちゃんを無視して、私はターコイズブルーとゴールドの組み合わさったパイソン柄のシューズでスキップを踏むように山頂を目指して進んでいく。後方から私を呼ぶあおいちゃんの声がする。 「そんなにはしゃいでたら後でバテますよ!」 口うるさい注意に「ヤッホー!」という雄叫びを返す。声は山間に大きくこだました。なんだか無性に楽しくなってきてオレンジ色の虎柄のレギンスを履いた足を大きく踏み出すと、そこは運悪く絶壁で私は真逆さまに下に転落した。 幸い、落ちた場所が良かったらしく怪我はなかった。落下は爽快でさえあった。 「ヤッホー!」私は歓声を上げる。声は幾重にもこだまして響いた。私が落ちたのは切立った崖に挟まれた谷底のような場所だった。崖下から見上げると、先程までいたところが遠く霞んで見えた。随分深いところに落ちてしまったようだが、日の光は充分に注ぎ、地面には若い緑の絨毯が敷き詰められた爽やかで心地良い場所だ。 「ヤッホー!」今度は助けを呼んだ。私の声だけが返ってきた。応えてくれる人の気配は感じられなかった。あおいちゃんは私が落ちてしまったことにまだ気付いていないのだろうか。それとも私の姿を見失って遠く崖の上であわてふためいているのだろうか。どちらにしても大変だ。このままでは私は遭難してしまう。 フランケンシュタインの顔が全面に描かれたピンク色のリュックサックから水筒を取り出し、家で淹れた熱いほうじ茶を飲んだ。遠くからは小鳥のさえずりが聞こえている。風が新緑と清浄な土の香りを運んでくる。春の山はのどかで気持ちが良く、うっかりすると自分が遭難しそうだという事実も忘れてしまう。危機感なんてまだ覚えてもいなかった。むしろ、今や心のどこかでは積極的に遭難を希望していた。煩わしい世間から離れ、何も思い悩むことなくゆったりとしたこの場所に留まっていられたら、私はどんなに心休まるだろうか。穏やかな気分でほうじ茶を啜っていると、どこからか微かに人の話し声が聞こえた。声のする方に目を遣ると、そこには背の高い山草が茂っており、草むらの向こうには複数の人影のようなものが見えた。登山者か、地元の人間か。私の束の間の安らぎはどうやらあっけなく終わってしまうようだ。 「ヤッホー」 小声で呼びかける。草むらの向こうで小さなざわめきが起こった。彼らに近づこうと草を掻き分けると、人影は逃げるようにばらばらに散ってどこかに消えた。七人いた、なぜか私はそう瞬時に判断できた。 草むらの向こうには茶碗によそられたご飯のようななだらかな丘陵が広がっていた。丘の中央にはガラス製の棺が置かれている。その中に千塚さんの遺体があった。 透き通った棺の中で白い花に囲まれる千塚さんは、顔だけが仮面のように浮いて見えた。嗚呼、やっぱり、死んでいるんだなと私は冷静に考えながら、とても悲しい気持ちだった。私は蓋の棺のサイドに付いている銀色の開閉スイッチを押す。炊飯器の蓋が開くが如く棺の蓋は簡単に上がった。 千塚さんの頬に手を触れる。おとぎ話の王子様がそうしたように、血の色の失せた彼の唇に口付けをした。人肌の弾力は感じられず、かまぼこの表面に口を付けたような冷たく硬い感触だけを覚えた。千塚さんは目覚めない。私はますます悲しくなってしまう。顎を下方に引いて口を開かせ口蓋垂を摩擦した。千塚さんが毒を飲み込んでいるのならそれを吐かせようと指を突っ込んだが、喉の筋肉はぴくりとも動かなかった。千塚さんの顎を元に戻して、棺の中に溢れる白い花の下に手を沈めた。そのまま、花の下に横たわる千塚さんの身体に手を這わせる。紙のように薄い布地の死装束は、私の手に千塚さんの身体のかたちを正確に伝えてくれる。息も吐かず脈も打たない人の身体は、静かに本来のかたちを固定している。下半身に手を伸ばし、布越しに千塚さんの性器に触れた。彼の陰部は弛緩していた。強く摘んだら反対側の自分の指の感触を感じてしまうくらい頼りない柔らかさだった。私たちの性別が逆であったら彼の死体を姦することも出来るのだろうが、女である私は死んでしまった千塚さんを穢すことも出来ない。彼に馬乗りになって無茶苦茶に犯す代わりに何か別のことで千塚さんの身体に私を刻み付けることは出来ないだろうかと考える。思いつく妙案は無く、私は自由に出来る千塚さんの死体を前に途方に暮れている。これでいいのだろうか。自分に呼びかけても答えは返ってこなかった。せめて彼の髪の毛の一本や爪の一枚でも持ち帰らなければ後悔するかもしれない。そう思って白い花の下から掬い上げた千塚さんのあまりに美しい手指を見て、私は爪を剥ぐことを思い止まってしまった。千塚さんの身体を記念品のように持ち帰りたいわけではなかった。肉から剥がされた爪ではなく、綺麗に整った手指の方が幾らも愛しく、ずっとずっと欲しいものだった。千塚さんが欲しいですと、私はいつの日にか見たきりのなめらかに動作する千塚さんの手を思い出しながら、口の中で呟いた。 棺の淵に身体を沿わせ彼の上に身を伏せるような格好で、私はいつまでも千塚さんの顔を眺めていた。欲しい、欲しいと口の中で呟きながら、何も盗らず奪えなかった。与えて欲しかったのかもしれない、欲しいと呟く私はそう考えて、それよりも、与えさせて欲しかったのかも知れないと思いながらまた、欲しい、と呟く。 頭を垂れると被っていた帽子が転がり千塚さんの顔の上に落ちた。無垢な輝きを放つ白い花の上に真っ赤な円がぽっかり浮かんだ。
私は毎晩千塚さんの夢を見て、いつも千塚さんのことを考えていた。ある時は死んでいる彼で、ある時は生きている彼との想像上の戯れは、オルガスムスのリズムのように緊張を伴って高まっていき、ピークを迎えると虚しくたるんだ時間が長く私の生活を支配した。 身体は常に倦怠感を覚えていたが、脳みそがあまりにめまぐるしく働くので手足を動かしていないと精神との均衡を崩してしまいそうだった。私は起きている間の殆どをキッチンで過ごし、強迫観念に追い立てられるように手のかかる惣菜をずっと作り続けていた。毎度の食事にはバランスのとれた献立が並ぶ。彩り豊かな小鉢が溢れるさまは、憂鬱渦巻く料理人の心とは断絶され、平和な生活を送っている人の食卓のように思えた。 美南から連絡が来たのは、五月も半ばを過ぎた頃だった。 海老とブロッコリーのイタリあんかけを写していた携帯電話の画面に突然美南の名前が現れた。その頃私は料理のレシピサイトに自ら考案したメニューを投稿するのが日課になっていて、携帯電話は専らそれを写すカメラの役割ばかりを担っていた。 「連絡できなくてごめんね」 緊張しながら電話に出た私の耳に、いつも通りの穏やかな美南の声が馴染むように入ってきた。乾いてざらついた砂に水が染み込んでいくようだった。 「りっちゃんが電話に出てくれて良かった」 「出るに決まってるじゃん」 「ほんとうに、ごめんね」 美南の穏やかな声はそれだけで、私の不安だった気持ちを少し整わせてくれた。あの事件以来、もう美南とは話すことも出来ないのではないかという心配をずっと抱えていた。彼女にとって不快な男を好きになっていた私は、彼女に罵倒されるか縁を切られるかのどちらかだと思っていた。 「この間は混乱してた」 「いいよ。私なんかいつも美南の前で混乱してるようなもんなんだから」 私がそう言うと、美南はふふっと声を立てて笑った。美南のふんわり柔らかくて角のない笑い声はいつも、ひらがなの「ふ」をそのまま唇から零したような優しい含みを持っている。 「……美南、大丈夫?」 彼女は私の質問に間延びした肯定の言葉を返すと少し沈黙し、それから言った。 「りっちゃんに会いたいな」 「私も美南に会いたいよ」 美南はそこでまた、ふふっと笑う。 「ありがとう。ねえ、今からは難しいかな」 「ううん。夜までは空いてるよ。今、家にいる。どこかで待ち合わせしようか」 「それなら、これからそっちに行こうかな」 「家にくる?」 「うん」 美南との電話を切って、彼女を迎え入れる仕度を始めた。私たちの家は電車で一駅しか離れていない。美南は私がバイトをしていた本屋さんのある駅に住んでいた。バイトを辞めたり、美南と会えなくなったりした後も、私はその駅に買い物や用事で何度も足を運んでいた。ばったり美南と会うチャンスは、いくらでもありそうな気がする。だけれど、私はその駅で偶然に彼女と会ったことは一度もない。もしも私があの本屋で働いていなかったら、美南とは生涯出会うことがなかったのだろうか。そう考えると、職場の同僚というありふれた出会いもどこか運命的なものに感じられた。運命なんて、後付けで意味を装飾されるご都合主義的な概念かもしれないが、そんな風に思い込める誰かとの縁があるのは悪いことではないように思える。 これから美南に会えるということが私は単純に嬉しかった。だけれど、あの事件の大きなストレスに晒されてしばらく会わない間に美南の何かが変わってしまっている可能性を考えるとやはり不安は募る。その変化は内面におけるものかもしれないし外見におけるものかもしれないが、再開の瞬間に私が美南から何かを感じ取っても決してそれを顔に出さないようにしようと思った。極端に太っていたり痩せている美南、白髪になった美南、ロングヘアをばっさりと切ってサイドを刈り込みそこにドラゴンのタトゥーを入れた美南、私は様々な変化を遂げた美南を想像し、それらどのパターンの彼女を前にしても平然と接することが出来るようにイメージトレーニングに耽った。 「今日あったかいね。暑いくらい」 玄関を開けると、そこには私が知っている美南がいた。 彼女はふたりの間に何事もなかったかのように天気のことを話題にしながら部屋に上がると、律儀に持参してくれたお土産の入った紙袋を私に手渡した。 「ケーキ買ってきたから後で食べようね」 「気を遣ってもらわなくて良かったのに。悪かったね」 「私も食べたかったからいいの」 美南をソファに通して、ケーキの箱を冷蔵庫に入れた。キッチンでふたり分の飲み物を用意して美南の元へ向かうと、彼女は羽織っていたカーディガンを脱ぐところだった。その様子を見て私は窓を開け部屋に風を入れる。気持ちの良い風が部屋に通った。 美南はどこか困ったような顔で私が隣に来るのを待っていた。 私はソファの前に置かれたローテーブルに目を向けたまま美南に尋ねる。 「まなこは、大丈夫?」 テーブルに置いたアイスティのグラスの中で氷がカランと音を立てた。私のグラスで発生した音に共鳴するように続けて美南のグラスの中でも氷が溶ける音が聞こえた。 ソファに腰を下ろして、私は美南に「妹」だというまなこのことを尋ねた。 インターネットで事件のニュースを知った瞬間にはまなこに不幸が降り掛かったという僥倖と野次馬根性で情報の収集を楽しんでいた私も、彼女が美南の「妹」だと聞いて以来は本心でまなこのことが心配でもあった。 「うーん、大丈夫とはやっぱり言えないかな」 「そっか」 「だけど、徐々に仕事のペースは戻していくみたい。あの子、責任感強いからね」 「うん、そうだよね。まなこはそういう子だもん! 知ってる……」 私が力強く頷くと美南は一瞬面食らったが、すぐに明るい表情をこちらに向けた。 「まさか、りっちゃんの言ってたFuck ITが、ゆめいろファクトリーだなんて思ってなかったなあ」 「……ごめん」 「別にいいのよ。りっちゃんがあの男のことを話していた時に真奈子たちのことがちょっと頭をかすめたけど、ゆめいろファクトリーなんてマイナーなグループじゃなくてもっとメジャーなアイドルだと思ってたもん」 「そんなことないよ。ゆめいろファクトリーは有名だと思うよ」 「そうかな。なんだか身内のことを色々調べて追いかけるのも恥ずかしくて、あまり知らないんだよね。でも、真奈子、頑張ってるのかな」 「うん、まなこもねねとりんも、まぽもゆきうーもあやちゅんもみんな頑張ってるよ!」 「……そう。ありがとう」 すっかり彼女たちに詳しくなっている私の口ぶりに美南は少し気圧されたような苦笑いを浮かべる。その表情は、私が恋愛の話でヒートアップしている時に見せるいつもの彼女の表情と同じだった。少し引き攣った笑顔の懐かしさに私は安心し、同時に胸に熱いものが込み上げていた。 「美南、なんで私のこと許してくれたの?」 「許すも何も、りっちゃんは何にも悪くないでしょ」 「でも……」 そのあとに続ける言葉が思い浮かばなかった。確かに、私はあの事件に関しては無関係なのかもしれないが、美南の前でさえまだ千塚さんのことを非難できない自分に後ろめたさを感じていた。さっき、美南が千塚さんのことを「あの男」と言った時、私は密かにショックを受けていた。相手の名前も呼びたくない程美南が憎々しく思う男と、私の想う千塚さんを結びつけることが出来ないでいた。あの美しい千塚さんこそがまなこにストーカー行為を働いて死んだ「犯人」だということをこの期に及んでも私はまだ受け入れられていないのかもしれない。そのことについて考えようとすると私の思考はプツリと回路を断ってしまう。 「ごめん」 私は美南にただ謝ることしか出来ない。 「大丈夫。気にしないでよ、友達でしょ」 私の顔を覗き込みながらそう笑うと美南は、心持ち真剣な顔つきになった。 「真奈子のこと、ちゃんと説明しないといけないよね」 私が頷くと美南もまた私に頷きを返して、それから彼女はゆっくりと喋り始める。その眼差しはどこか遠くを見ているように感じられた。窓から入り込む風が美南の長い髪を揺らす。 「驚いたでしょう、急にあんなことを言われて。真奈子は私の妹なんだけどね、血はつながっていないの」 「そうなんだ」 自分から多くを詮索することで美南を傷つけてしまうのではないかと不安に思い、私は内心の驚きを隠して敢えて平然と相槌を打った。 「うん。うちって親が再婚同士なのよ。真奈子は母親の連れ子なの」 「それで、似てないわけか」 「大きなお世話です。まあ、真奈子の母親は、美人だからね」 私の軽口を笑っていなしながらも、美南の目は遠くのものを観察するような目つきのままだった。私のグラスの中で溶けた氷がまた、音を立てた。その音は美南が次の言葉を発する前にそっと消えていった。 「親が再婚したのは中二の時かな。真奈子がまだ幼稚園に通っていた頃だから」 「まあ、まなこがそんなに小さい頃からだったら、そりゃ、仲良くもなるか」 あの事件でひどく動揺していた美南を思い出し、私はまなこを想う彼女の姉心を察して自らの言葉に頷いた。その瞬間、美南は機敏な動作で私の顔を覗き込んだ。目を合わせた美南の表情は険しかった。だが、目つきを鋭くした美南が睨む対象はやはり、私の顔さえも通り越してずっと遠くにあるようだった。風に遊ばれた髪の毛が少しだけ乱れている。美南はそのことに気が付かない。私は美南の顔からそっと視線を外した。 「今は、確かに仲は良いかもね。だけど当時はもちろんそうは行かなかったよ。ほら、中学生ってすごく多感な時期じゃない。私は父親の再婚が嫌だった。それまで知らなかった女の人とそのこどもを急に新しい家族だなんていわれても、納得できないし。それで、結構荒れてしまって、なんていうか、典型的な非行に走ったりもしたの」 「タバコ吸ったり、家出したりとか?」 「そうだね。クスリのプッシャーみたいなことやったり、喧嘩した相手の家に火をつけたり」 「……」 「その時はぼやで済んだからよかったけど、当時は殺すつもりだったからね。よく分かんないうちに色々やっちゃってたんだと思う。あの頃の自分の気持ちは今の私には全然理解できないよ。まあそれで……高校くらいの頃にはもう、父親も新しい母親も私とどう接したらいいか分からないって感じになってた」 「そりゃそうだろうね」 美南は私に唇の片端だけを上げたニヒルな笑顔を向けた。冗談めいた含みを持って歪められた唇は徐々に元の形に戻ると、小さなため息をついた。 「だけどまなこは、」 続く言葉をなかなか発しない美南は、今もその当時の出来事に対する困惑の渦中にいるのかもしれない。遠くを見ていた目の焦点は顔の前で組まれた両手の親指に移っていた。絡まった左右の親指を見つめながら美南はひとり言のようにつぶやく。 「まなこだけは少し違って、その頃くらいからちょうど、私に一発ギャグを見せてくるようになったんだよね」 「はあ?」 「しょうもない変顔とか、お笑い芸人のモノマネとかを何度もやるの。ずっとね。……つまんないんだよ?」 その頃から十年近く経ってもまなこの一発ギャグのクオリティが低いことは私も充分に知っていたので、それを一対一で何度も見せられた美南を想像すると不憫で仕方が無かった。 「本当に目障りでイライラしたよ。すごく鬱陶しかったし、下らねえもん見せてんじゃねえよ糞ガキって思ってた。……恥ずかしい話だけど私、ビール瓶で真奈子のこと殴っちゃったこともあるの」 美南は組んだ両手を額に寄せて、顔を伏せている。小さなこどもをそんな殺意が滲んだ方法で殴るだなんて、私の知っている彼女からはとても想像ができなかった。可愛くて素直なまなこが、今よりもさらに愛らしかったであろう幼い頃に美南に近寄ってちょっとふざけただけで暴力を振るわれるのなら、私なんて美南に満身創痍にされても文句は言えないだろう。 「最低だよね、私。でもあの子、それでもまったく懲りずに私に近寄ってきて……」 そこで美南は一旦言葉を切って顔を上げると、深くため息をついた。 「ギャグをやり続けるの」 自分が一発ギャグを披露したことを誰かにこんなにも切ない瞳で語られてしまう人間を私は今までまなこ以外に知らない。美南は呆けた顔で右手の親指で下唇を弄んでいる。沈黙が気まずくて、私は美南をフォローするように言葉を発した。 「まなこはきっと、美南を元気付けたかったんだろうね。お姉ちゃんを笑いで更生させたかったというか……美南の為を思ってやってくれていたんだね」 しばらく美南は何も応えなかった。自分の胸にある言葉を選び取るような思案の表情を浮かべ親指を下唇の上で何度も往復させていた。 「私は違うと思ってる」 しばらくして口を開いた美南は、穏やかな声だったが、ばっさりと私の言葉を否定した。 「真奈子は、自分の為にやったんだよ」 私は、下唇の真ん中で止まった美南の親指をじっと見つめて、続く言葉を待っていた。或いは、自分が続けるべき言葉を。だがそれは、否定なのか、肯定なのか、そのどちらが良いのかさえも分からなかった。 「もちろん、まなこは私を元気付けたかったんだろうし、笑って欲しかったんだと思う。私もずっとそう思っていたからこそ真奈子の押し付けが不愉快だった」 「そうだよね。きっとその頃の美南なら反骨精神に溢れているだろうし、気に障るだろうね」 「……そうね。だけど、ある時ふと気付いたの。真奈子は私を笑わせる以上に自分が笑いたかったんじゃないかなって」 「それって、まなこが自分でギャグに大笑いしたがってたってこと?」 演者と観客のひとり二役で一発ギャグの自画自賛を始めるまなこの姿を想像して、私は思わずごくりと唾を飲み込んでしまった。芸能人を志すような自己顕示欲の強い糞ガキになら充分にあり得る奇行かもしれない。 「そうじゃないよ。なんていうか、私が笑えば真奈子だって気兼ねなく家の中で笑っていられるでしょう。ぶすっとしている人の前で安心して笑い続けていられる人なんてそうそういないもん。私だってずっと、真奈子と同じことを考えていた」 「同じこと?」 自分の予想が違っていたことにほっと胸を撫で下ろしつつ、私は美南に尋ねる。 「そう。私は……父親に笑っていて欲しいなって思ってた。再婚する前、ふたりで住んでる時ね。まあ、再婚してからもなんだけどさ。うちの父親、つまらないことをウジウジ悩む人間なの。それこそ、笑って済ませちゃえば解決するような小さな問題でもさ」 「真面目なんだね」 「そうなのかなあ。真面目なんだとすれば、それが行き過ぎて脳みそがカチコチの冷たい石みたいになってる奴だよ、父親は。明るい顔してる時なんて殆ど見たことないもん。私と話していても、いつも、暗い話ばっかりで、私が少しでも浮ついたことを口にするとすぐにたしなめられて意見は全部否定されるの。私の父親は毎日私に、お前みたいな人間の未来は暗いって言い続けていたよ」 「それはひどいね」 「そんな人の前で、私は笑っていることなんかできなかった。だから、いつも、父親が笑ってくれないかなあって、思ってた。父親が笑っていてくれていたら、私も安心して笑えるから。私は父親が笑ってくれることをずっと願ってた。真奈子も、そんな風に思って私の前でギャグをやったんじゃないかなって、ある時ふと気が付いたの。それで、私が笑ってあげなかったら、私は父親と同じことを真奈子にしてしまうんだなって考えるようになった」 さっきまで自分の唇に当てた親指に焦点の合っていた美南の目は、またどこか遠くを見ているようだった。その眼差しを見ていたら私はいたたまれなくなって、美南にわざと軽い調子で質問を投げた。 「……それで、真奈子のあのすごいクオリティの一発ギャグにも笑ってあげるようになったの?」 「笑いはしないけど、まあ、ツッコミくらいは入れてあげるようになったよ」 「ビール瓶で?」 「いえ、おかげさまで無事に更生しました」 美南は照れくさいのか、わざと怒っているようなそぶりをみせて曖昧に唇を歪める。 「真奈子のおかげで、私は救われたと思う。まあ、すべてが急展開で良くなって行ったなんてことはなかったけれど、ゆっくりね。家の中に少しだけ居場所が出来たのは良いことだったんだろうな。下らないことを言って笑っていられるっていうのは。真奈子からは、自分が行動を起こすことで居心地の良い環境も作ることは出来るんだって学んだ気がする。真奈子は家の中で笑っていたかったんだろうし、私も笑えて良かった。私は、真奈子が私を家族だって認めてくれて笑わせようと頑張ってくれたことに感謝しているよ。愛という名の一発ギャグにね」 漫才師がツッコミを入れるアクションで空を切った美南は、私と目を合わせてふふっと笑う。 「私は今では、真奈子が好きよ。ただ、両親とは別に今も仲良くないし、特に父親はやっぱり苦手なままね。まあ、もう私は家も出て旦那もいるし、それでも別にいいやって思ってるけど」 「そっか」 「だけど、家族ってやっぱり不思議だな。あの事件のあと、すごく落ち込んでいた父親や真奈子を見てたら、私、笑って欲しいなあ、って思った。なんとかしたいなって、思った。私は真奈子みたいにおちゃらけることも出来なくて、やっぱり何の行動も出来なかったけどね。人間て色々なことを学んでもそう簡単に変われるものじゃないのかもしれないね。私も真奈子みたいになりたかったんだけどな。だけど、それでもずっと、笑って欲しいって、そう思ってたよ」 アイスティの中の氷はいつの間にかすべて溶け切っていた。グラスについた水滴は垂れて、テーブルに水溜りを作っている。私はコースターを用意していない自分の不精さを反省しながら、ティッシュペーパーで水滴を拭った。 「なんだかんだ言っても美南はやっぱり優しいね。まなこも、そうね」 「りっちゃんだって、そうだよ」 そう言って美南は少し悪戯っぽい目つきで私の顔を覗き込む。 「だって、りっちゃんは真奈子のこと心配してくれたじゃない」 「そりゃあ、まあ」 「ちょっと変なことを言うかもしれないけど、気を悪くしないでね。真奈子がもしも私と無関係な赤の他人だったら、りっちゃんは真奈子のことそんなに、もしくはまったく、心配しなかったんじゃないかな。真奈子のこと心配してくれるのは、真奈子が私の妹で、りっちゃんが私のこと、友達だと思ってくれているからだと思ったよ。そうじゃなければ、りっちゃんは今頃、あのメス犬が死ねばよかったのに。悪運強いしぶとい糞Bitch! なんて悪態ついてると思うもん」 自分のその姿は容易に想像でき、私は思わず噴き出してしまう。 「だよね、ごめん。ちなみに私まなこのことBitchじゃなくてPussy cat って呼んでた。まなこの顔、猫っぽいしね」 「それ、全然いいわけにもほめ言葉にも聞こえないよー。だけど、そんなところも含めて、私はきっとりっちゃんが好きよ」 「性格が悪いところが?」 「性格が悪いってわけじゃなく、性格にそういう部分があるってところを含めてね。だって、そういうところがなければりっちゃんはりっちゃんじゃないし、私は友達になっていないもん。りっちゃんの色んなところを知ってるから友達でいるんじゃん」 美南は私と合わせた目を一旦伏せて、静かに言葉を零す。薄化粧の繊細なまつげは、まばたきのたびに微かに震えた。 「私は、りっちゃんがちゃんと愛情深い女の子だって知っているよ。だから、方向性さえ間違えなければこれからりっちゃんは素敵な人と良い関係を築いていけるって、私は思ってる」 美南が暗に千塚さんのことを言っているのが分かって、私は少し動揺を覚えた。 彼女は私が今でも毎日千塚さんのことを考えているということに、果たして気が付いているのだろうか。私の話を何年間もずっと聞き続けてくれていた美南なら、私がどういう性質の持ち主なのかきちんと分かっていると思う。私がそう簡単に千塚さんを忘れないことも、そして、これから私の過ごしていくガラクタのような日々の中で千塚さんの美しい顔が私の記憶から簡単に消えてしまった時には、私はきっと今までと同じように誰かに恋をしているのであろうことも。だけれど、たとえ方向性を間違ってしまっていても、湧き上がる情動に身を任せ胸の疼くような快感を覚えるような恋は、私にとってやはり、しあわせなことなのだった。そのしあわせに、笑顔でさようならといえる日が私には果たしてやってくるのだろうか。 春が過ぎ行き夏が運ばれてくる。桜の木はとうに花を散らし、今は新緑に包まれている。 目を閉じて、開け放たれた窓の方に顔を向けると、強い日の光のせいで目蓋の裏に真っ白な世界が広がった。網膜のスクリーンに千塚さんの姿が浮かぶ。千塚さんは笑顔だ。私は一度だって、彼の笑った顔なんて見たことはなかったけれど。嗚呼、見たかった、触れたてみたかった。 しばらくそうしていると、美南がふいに私の肩を叩いた。 「ねえそろそろ、ケーキ食べようか。りっちゃんの好きなエクレアもちゃんと買ってきたから」 自分を元気付けてくれようとする人がすぐ隣にいる私は、きっと恵まれた人間なのだと思う。だけれど私は痺れるような恋の震えこそをしあわせと呼んでしまう。それは、果たして間違ったことなのだろうか。 私が欲しいものは一体、何なのだろう。ずっと、何かに向かって手を伸ばし続けているような気がしていた。満足に呼吸ができる場所にいるにも関わらず、私はいつだって海で溺れる者のようにもがいている。助けて欲しい、そう泣き喚いている。痛い、苦しい、助けて欲しい。だけど私はどこがどう痛いのか、どうして苦しいのか、何がその助けになるのか、分からない。理由の無い痛みや苦しみは、私の甘えや勘違いから生じているのだろうか。だけど確かに私の中にあるこの気持ちは、不快感は、一体何なのだろう。脳みそは叫び声を上げたくて堪らず、脈絡もなく下腹部が切なく疼いて、今すぐにこの場所から走り出したい。紡ぐ言葉なんて見つからないのに、求めているものが何かも分からないのに。向かいたい場所が思いつかないのに。こんなにも欲しいのに、欲しいものの正体が分からない。欲しいものに当てはまる何ものかが存在しないことこそが、私にとって最大の不幸だ。 私は早く、再び自分が強く激しい感情に新しく支配されることを望んでいる。欲しいと願えるものが現れることだけが私の中に渦巻く不快感を生きる力に変えてくれる。欲しい、欲しい、私は胸のうちで呟きながら、肩に置かれた美南の手に目を向ける。こちらに微笑みかけた彼女に向かって私もあわてて笑顔を作る。長い間顔面の筋肉運動を怠っていた所為で、不随意筋がヒクついた。
完