これは警告である。
まあ、これは女に限った話ではないが、本を読まない女の地雷率は99%である。しかしこれは少なく見積もった数字かもしれない。本当は99・999%くらいかもしれない。
本のジャンルは問わない。とにかく活字を読もうとしない女はほぼ確実に地雷である。
男をATMにするような女、アッシー、メッシー、みつぐ君として男を扱うような女はまず本など読まない。
疑うなら聞いてみればいい。
「あなた本とか読みますか?」って。
せいぜいセカチュー、恋空が彼女らの世界の限界だ。
「私の言語の限界が世界の限界を意味する」という言葉を遺したウィトゲンシュタインの世界など一生知る事なく彼女らは生を終える。
ハヤシオサムという塾講師はこんなことを言っていた。
「俺、勉強をしない人は別に責めないよ。でも本を読まないヤツは嫌い。本っていうのは、いい本も悪い本もあるけれども、本はひとりの人間がね、知恵しぼって、命がけで刻んだこと」
勉強ができない人間、勉強が嫌いな人間は寛大たり得る。許すに値する。
しかし本を読まない人間を認めるわけにはいかない。
完全にアウチである。というかウンチである。
いやもっと、痛烈な書き方をすれば人間として認められない。
人間と他の霊長類の決定的に異なるところを1つあげるとするならばそれは「言語」を用いるか否かであるという点だ。本という言語媒体を人生から完全に切り離しているということは、人間が人間たるゆえんの一部を切り離しているに等しいのだ。
彼女らは人が命がけで書いたものを読むことができないのだ。そんな人間がどうして他人の話を真剣に聞けようか。どうして他人のことを心の底からわかってあげようとすることができようか。
本を読まない女に出会ったら、ひたすら逃げることだ。
そのような女はあなたに何の益ももたらさないし、それどころかただひたすらに奪っていく存在となるだろう。
活字という媒体を楽しむには想像力が不可欠だ。活字から行ったことも見たこともない世界を頭の中で構築するには想像力が必要不可欠だ。つまり本を読めない女というのは想像力に欠けているのである。
だから彼女らは自分と少しでも異なる価値観を決して認めようとしない。彼女らはものの見方が一つではないということが分からないのだ。世の中には、色々な考え方があって、人の立場や状況によってモノの見方が変わるということを理解できないのである。認識できないのである。
正に己の世界の中心で愛を叫んでいるのである。
このような性向は当然日常生活にも影を落とす。
本を読まない彼女らの世界は自分の周りの数人の気の合う連中とテレビというメディアによって作られる。
メディアによってつくられる価値観こそが彼女らの価値観であり、メディアによってつくられる幸福感こそが彼女らの幸福感なのだ。
極めて退屈な人生だ。
そうしてメディアによって作られたまやかしの幸福感を信じて疑わず、そうした幸福感を実現するため必要以上にくだらない散財をくりかえし、人生において必要以上にリスクをとろうとする。
何かの間違いによってそのような女と結婚してしまった男の末路の相場は決まっている。
そうしてリスクによって雁字搦めに縛られた男は疲弊し人生を憂い、魂を腐敗させるのだ。
- 作者: ウィトゲンシュタイン,野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/08/20
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