鄭 大均(首都大学東京特任教授)による解説(一部抜粋) 『忘却のための記録』の著者・清水徹は一九三〇年、現在のソウル市龍山区に生まれた「外地」
二世である。徹の父はやがて朝鮮半島最北の咸境北道の機関区に勤務するようになり、避難行が
はじまったとき徹は羅南中学三年生だった。本書はその避難行を著者が回顧的に綴った作品で、
非業の死を遂げた同胞を哀悼するとともに、そのいまわしい思い出を拭い去るために書いたものだという。
引揚げ者のなかでも、ソ連軍占領地域からの引揚げ者には特有の困難と痛ましさがあった。
とりわけ大きな悲劇に見舞われたのは満州在住の日本人であったが、清水家のように、
北朝鮮在住の日本人の運命も過酷であった。なによりも不運であったのは、引揚げが一年以上も
先送りされ、出国の自由が奪われたということであろう。
それがやっと開始するのは四六年十二月に入ってからのことであるが、多くのものはそれ以前に
自力脱出を試み、しかし、その行路で餓死・凍死・伝染病死で亡くなったものが三万五千人ほどもいる。
清水家の場合も無傷ではなかった。五人家族のうち、日本に無事たどり着いたのは四人で、
父は、四六年二月二十日、咸興の収容所で亡くなっている。
本書に記されている引揚げ体験はもう半世紀以上も前のできごとであり、したがって忘れられて当然の
ことといってもよいが、しかし、これは日本人が経験した最後のグローバル体験といえるものであり、
ここには今日の私たちの歴史観や世界観に資するところが少なくない。本書に記されている清水家の体験は、
今日でいったら、内戦の過程で国外への脱出を余儀なくされた二百二十万人以上のシリア人難民や、
貧困や内乱や干ばつに絶望してヨーロッパに向かうアフリカ人難民の体験に似通ったものであり、
また北朝鮮が舞台というなら、これは今日いう「脱北者」の先駆けのような体験であった。
にもかかわらず、引揚げ者たちの体験は今やえらく矮小化されて眺められているのだなと思わされたのは、
赤尾覺氏(『咸北避難民苦難記』著者)からある体験を聞かされたからである。
氏は最近、朝日新聞の取材を受けたが、北朝鮮地域で、なぜかくも多くの犠牲者が出たのかの問に、
「餓死・凍死・伝染病死」と答えたところ、「炊き出しなど食料供給があり、衣料・寝具などの配給が
あるのに何故?」と反問され、絶句したという。「避難民とは、東日本大震災の被災者と同程度に考えて
いるのだなと、がっくりきました」と氏はいう。
これではたしかにがっくりくるであろう。被災者といっても、東日本大震災の被災者が国民の支援に
支えられているとしたら、北朝鮮からの引揚げとは、帝国崩壊の過程でいまや異郷となった戦場の地を
逃げ惑う体験であり、収容所や避難所で生活するといっても、それは昼夜の別なくソ連兵が襲ってくる
体験であり、家族や同居者が高熱にうなされ、土色の皮膚に変わり、ある日、ある一家が消えるように
死んでいく体験であった。
そのような体験を東日本大震災の被災者と同程度のものと考えているとしたら、それはこの時代の
被災者たちの体験を著しく矮小化している。というだけではなく、今日のシリア難民やアフリカ難民の体験をも
その程度に眺められていることを暗示しているのであり、だとしたら、私たちは今や世界の人びととの
共感帯を失いつつあるのではないか。
『忘却のための記録』に戻るが、この本は静の本というよりは動の本である。
たしかに同書には悲しみの記述があり、死の記述があり、やがて死に無感動になる記述がある。
しかし徹は「今日もおれは生きているぞ! 」と命の力を感じる少年であり、生活に必要なものは何でも
拾ってやろうと野良犬のように目を光らせて歩く少年であり、母を助けるためにソ連軍の司令部に
残飯拾いに行く少年であり、また生きるために母の作ったかぼちゃ羊羹を道端で売る少年でもあった。
この本はなによりも、清水家の人々が不幸の合間に動き、働いていたことを教えてくれる本なのである。