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 平成15年7月20日、"鴻之舞鉱山閉山三十周年記念慰霊祭"が、ゆかりの地、紋別市鴻之舞にて200余名の参加者のもとで開催されました。
この式典の開催は、マスコミ各社が一大ニュースとして報道し、紋別市と鴻之舞の名が全国を駆けめぐった非常に大きなものでありました。

 式典の背景には、閉山三十周年という節目にあたり、何か記念になる企画をしたいとの想いが、紋別市在住の鴻之舞関係者から以前よりあり、最終的には、二つの「鴻紋軌道記念碑の建立」に集約され、父が鴻紋軌道の敷設にあたり、小学校卒業まで鴻之舞で暮らされた作曲家、宮川泰(ひろし)氏と、元住友金属鉱山株式会社社長・篠崎昭彦氏をお招きしての、記念慰霊祭として行われました。

 この当日の様子を、以下、地元紙であります北海民友新聞(7.22付)から引用抜粋させていただきます。
「"遠い遠い遙かな道は−"で始まるダークダックスが歌った『銀色の道』。宮川さんは小学校時代の一時期を鴻之舞で過ごした。(中略)後年、宮川さんは"銀色の道は鴻紋軌道"と話したことから、鴻之舞ゆかりの有志が歌碑建立に立ち上がった。除幕式は午前に鴻之舞、午後から氷紋の駅で行われた。氷紋の駅前では設置されていた金鉱石(2.5t)と、"銀色の道"の歌碑、同曲のオルゴールが設置され、白い布が田中会長や宮川さん、住友金属鉱山株式会社篠崎昭彦元社長らの手によって外された。序幕の後、宮川さんの指揮のもと市民による四十人ほどの合唱メンバーで"銀色の道"を歌った。(後略)」

 この鴻紋軌道(こうもんきどう)とは、住友が当時約250万円をかけて、戦時色が強まった昭和15(1940)年10月に着工し、鴻之舞鉱山が休山した昭和18年6月に完成しました。完成前の試運転時から住民の方たちは乗車利用していました。区間は当時の鴻之舞鉱山元町から現紋別市花園町までの距離28kmであり、途中駅は14存在していました(以下参照)。港も持つ紋別市街中心部を結ぶ鉄路であるのに、鉄路名の最初に鴻之舞の"鴻"を使用していることから、いかに当時は紋別市区域の中で鴻之舞地区の人口と存在が大きかったかが想像できます。戦後は、連合国軍総司令部(GHQ)から同鉱山の操業が認められた昭和24年(1949)までであり、運行期間はわずか6年間でありました。この軌道は休山中には、住民の乗車や学徒動員はもとより機械類や設備を他鉱山へと運び出し、戦後は新しい鴻之舞鉱山の施設や設備の搬入、戦後に特に不足していた食糧などを運んでいました。しかし、この役目が終わるとすぐに鉄路は解体されてしまいました。

区間経路  ■元山駅−元町(学校裏)−住吉−■末広(五号坑)−栄町−■桜町−曙−長島−中藻別−野中(弥生公園)−木原−草鹿−銅山−■紋別
(■マークは駅舎で4ヶ所、その他は昇降所)

 わずか6年間の運行ながらも、この鴻紋軌道に対する鴻之舞関係者の思い入れは、ゆかりある関係者の書物より非常に大きいことがわかります。"官行の汽車"とも呼ばれ、住民に愛されていました。
文芸オホーツク11、12号には、玉葱煙突や汽車のこと、無蓋貨車(屋根のない運搬車)に乗り火の粉がかかった話、有蓋貨車に満員で乗り込んだ話など、尽きぬ想い出がたくさんと記されています。

 鉄道や廃線跡に大変お詳しい国分貴文様より、この鴻紋軌道への以下のご見解をいただいておりますので、ご紹介致します。
1、B型サイドタンク式機関車であること。(テンダー式ではない)
2、日立製作所の製品であること。
3、文献や写真を見る限りでは、森林鉄道に特有の煙突なので、煙突の中には火の粉止めの装置が入っているであろうこと。
4、千歳鉱山や遠軽町丸瀬布の森林軌道※などにも共通部分があり大変似ていること。
  詳細と致しましては、B形サイドタンク機関車(日立製作所笠戸工場製、主に当時、道内の森林鉄道向きに納入実績あり)
  動輪径 610mm、ホイールベース 1143mm、運転整備重量 8.3トン
  弁装置 ワルシャート式
  鴻之舞への納入は13トン 1B2型 3両、昭和16年12月〜昭和17年2月
(参考文献;小熊米雄著「日本における森林鉄道用蒸気機関車」、宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くX」、中村由信編「汽車の本SL総集編」ほか、「写真で見る北海道の鉄道 下巻」、「知られざるナローたち」、「道内鉱山鉄道機関車資料」より)
なお、撤去後の動体につきましては、鴻紋軌道廃線ののちに十勝上川へ行き、昭和31年6月に廃車との記録です。(十勝同人誌トカプチ第9号より)
※丸瀬布のものは内燃式と呼ばれる機関車ですので、石炭を使用していた鴻紋軌道とは異なります。
>>>鴻紋軌道の記録写真は、こちら
>>>鴻紋軌道への記録話は、こちら

 また、作曲家・宮川氏は、"銀色の道"について、『後年、鴻紋軌道のレール跡の水たまりに月の光が映る姿を見て、これこそ銀色の道だと確信した』と云います。
同時に、自身も文芸オホーツク11号の中で、「この歌詞を彼(作詞家・塚田茂氏)から渡されたとき、どことなく懐かしさを覚えました。"遠い遠い遙かな道は冬の嵐が吹いているが谷間の春は花が咲いている−"。少年期を過ごした鴻之舞に重なる内容です。正直なところ、曲をつける時点では、それほど意識はしていなかったと思います。でも父が亡くなり、その後、何度か紋別を訪れて、父の無念の思いや自分の望郷の念が重なりあって自分自身、この曲の原点が鴻之舞にあると確信するようになったのです。」と、述べています。

 また、この企画の舞台裏について、紋別市在住の藤田信義氏(現・上藻別駅逓保存会相談役)は、文芸オホーツク12号の中で次のように述べています。
「寄付を要請し、各所へ訪問しました。"何故、今、鴻之舞なのか?"と、よく聞かれました。私はそれは、『貴方たち故郷のある人が云う事で、私たちのように生まれ育ち、生活をした故郷を無くした人でなければ、この"鴻之舞"に対する思い入れの深さ、強さがわからないでしょう。』と答えたものです、そして更に鴻之舞に於(お)ける素晴らしい生活があったからこそ、何時迄(いつまで)も語り継がれていくものと思います。
 この様な企画や行事には、当然のことながら、いろいろな問題もありましたが、やはり最終的には、かつての東洋一の金山"鴻之舞"の名を残したい一心と、鴻友会(※鴻之舞鉱山に勤務したOB組織)を中心とした民間活力による"まちづくり"に多少なりと、寄与出来ればという想いが強く、各委員が心を合わせて努力した甲斐があったものと思います。」と語り、続けて多方面への交渉などにご活躍なされた発起人会監事・小玉勝信氏(現・上藻別駅逓保存会メンバー)と山本建設の協力に謝辞を述べています。

 この記念慰霊祭及び除幕式の開催にあたり、日本を代表する大企業の元社長や作曲家をお呼びしてまでの市民制作型の企画は、行政はもちろんのこと、綿密なゆかりある方たちとの連携と信頼関係、市民の地域力がなければ果たせない偉業の一大事業であったことは間違いありません。そして、"廃墟の鴻之舞鉱山が持つ意義と価値"を全国に問うたものであったと思います。

>>>鴻紋軌道記念碑除幕式の想い出話は、こちら









左より、篠崎元社長、宮川泰、(3名略)、田中鴻友会々長、池澤康夫、藤田信義、林包昭、小玉勝信、八鍬金三(敬称略)


















 鴻之舞での慰霊祭は、閉山3年後の昭和51年より、現在の住友金属鉱山(株)の主催により、ゆかりある当地の関係者と共に始まりました。
例年7月に開催され、行政や会社関係者、鴻友会、ゆかりある方たち、また一般の方のご参列により、北国の初夏に、しめやかに行われています。
今では平成元年に住友金属(株)により立派に建立された慰霊碑の地にて、毎年、紋別市内のお寺さんを順番制にしてご読経いただき、鴻之舞鉱山の発展維持に貢献し物故された方たち、当地にて亡くなられた方たちへのご慰霊の儀、追悼法要を執り行っております。すべて住友さんによるご配慮により会場は丁重に作られ、市内からは無料団体バスもご用意されています。ゆかりある方たちはもちろんのこと、市長様など関係者もご出席され、一般の方のご参列も供花などお志なく、ご自由にご参列ご焼香いただけます。(例年午前10時より、日程は毎年変動あり)

鴻之舞鉱山慰霊碑


<碑文>
 鴻之舞鉱山は大正六年二月以来、住友によって営々と稼行され、長年にわたり東洋一の大金山と謳われて
住友の諸事業を力強く支え、国家と地域社会に大きく貢献して来た。しかし、鉱量の枯渇という鉱山の宿命には
抗し難く、昭和四十八年十月をもって五十六年に及ぶ輝かしい歴史を閉じた。
 この間、幾多の人々がこの鉱山の事業に携り、苦楽を共にしてきたが、鉱山の維持発展に捧げられたその苦心
と努力は決して忘れられてはならない。
 この度、鴻之舞鉱山において不慮の災害に遭い職に殉じられた方々、ならびにこの鉱山に関係し物故された
人達の霊を慰める為にこの碑を建立する。
                                                         平成元年七月
                                                   住友金属鉱山株式会社
                                                       社長 篠崎 昭彦