2014年08月15日

色彩を持たない多崎つくると、孤独について


わたしからすべてが離れていったのは、たぶん、お前だけを愛させるためなのだ。

                     J.L.ボルヘス





房に入る前に読んで、なんとなく心がザワついたというか琴線に触れたとかなんとかなって日記したかったのでいまさら


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 -
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 -


帯の著者インタビューにもあったけどこの小説自体はもともとそれほど大したものに仕上げるつもりでもなく「世間的には凡庸で平均的な男がいる」というモティーフがまずあり、その絵をふくらませていったものだったのだろう。

その男が自殺を考えていて、その理由を肉付けしていった。


なので元々は短編として仕上げられるべくものであり、短編で仕上がっていたとしたら1章と最後の章ぐらいで仕上がっていたかもしれない。あとはわずかな肉付け。

現在の村上春樹の筆力を試すための習作的な性格があったのでは?


帯に「良いニュースと悪いニュースがある。」の部分が抜き出されていることからも編集サイドからもこれは「世間的には凡庸な男が凡庸さを受け入れていく物語」として売り出すことが了解されていて、世間的にはそのように受け止められたのだろう。あのセリフは作品中の自己啓発セミナーで最初に受講者の心をつかむために使われるもので、要約すれば「良いニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」「しかしけっきょくは同様の結果なのだ」(≠「人生は配られたカードで勝負するしかないのさ」)ということなので。



そのように思うわけだけどここで表されていたテーマ、「孤独と死、そこからの再生」というのはぢんわりと響いた。


30代なかばにして「なにもない」「大人になってしまった的に変わっていく」というのは村上春樹のモティーフとしていままでもあって、それをテンプレ的に貼り付けた、とも言える。


テーマとして短縮し書き出してみると村上作品としては月並みな話なのだけど、自分が思いの外「ぢんわり」きたのはなぜなのか考える。

テーマとか論理、理屈的な繋がりというよりは全体の場面情況を通じた説得力のようなものを感じられたから、だろうか。


「同様のテーマを扱っていても別の情況でその設定を進行させ、登場人物なりの納得を得る際に得られる説得力」というのは作品ごとに異なるものだろうし。




30代なかばにして「なにもない」「大人になってしまった的に変わっていく」≠「大切な人との別れがある」というのは「プールサイド」や「国境の南、太陽の西」を想わせた。


国境の南、太陽の西 (講談社文庫) -
国境の南、太陽の西 (講談社文庫) -

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -
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「プールサイド」では「33歳にして24歳の女が求めるものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていた」ということ。

「国境の南、太陽の西」では30代半ばにして社会的に成功し、順風満帆な中で運命の女性があらわれて、不倫を通じて妻との別れを経験する。

というか、女の失踪を通じて「どんなに親密になっても分かり合えない心の奥深くにあるもの」「他人はもとより自分でも制御できないもの」が描かれる。

そして「ぼく」はねじまき鳥を巡って旅に出るのだけれど、最後まで女のその部分の謎は解かれない。


「女の中には自分でも制御できないものがあってどんなに親密になってもそこは制御できないし分かり合えない」という色は「多崎つくる」というキャンバスにも少し付加されていた。


そしてその謎は解かれずに保留のまま。


抽象画においてなんだかわからない色の配置があるように。そしてそれが全体を印象させるものになるように。



村上作品においてこのテーマというのはずっと続き、多角的な情況設定を通じて作者自体が納得していくために綴られるものなのかもしれない。


「ノルウェイの森」もそういうものだったかなあとおもって今回レンタルしてきた。


ノルウェイの森 [DVD] -
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しかし自分はそういった経験やテーマにそれほど関心がない(ひと通りの恋人との別れみたいなのはあるけどそれほど傷になってない)ので、その部分よりは「孤独」→「自殺」、「10代の心身が変化する時季にそれを真剣に考えて結果としてやせ細った」というところに関心を持った。

自分も似た経験はあるので。自分の場合は親友たちから去られた疎外感ではなく単に軽いいじめにあったからだけど。


多崎つくるがそうであったように自分もあのとき変わった。


人との距離やつきあいかた、社会の見方。



そういった痛みの経験もなく生きていれば、凡庸だけど明るく人懐こい「ふつーのひと」だったのかもしれない。(いまも田舎的「人懐こさ」みたいなのはあるけど)





疎外と自殺とそこからの再生について



けっきょく多崎つくるはどうやって孤独→自殺の危機から逃れられたのか?


「自分を変化させた」ということでたぶんここで自分と似たような心理過程があったのだろう。オオカミになる、まではいかないんだけど、基本的な人との付き合いは職務上必要最低限に留め、親密な付き合いにはいる人を厳選し、その付き合いの中で裏切られることを最初から想定し「まあそんなもんだよな」的なドライな諦観に生きる。

自分の場合はその後の人との関わりを通じて標準モードでは人懐こさ回復したけど、多崎つくるの場合はずーっと氷男で、あるときひさびさに踏み込んで付き合おうとした女性から「あなたには最後のところで人と合わせられない距離がある。どんなに親密になっても。それはたぶんあなたの学生時代の別れが未解決のままトラウマとして残っているせいかもしれない」と指摘される。

「その部分が解決するまで、わたしはこれ以上あなたとは深い付き合いは出来ないわ」


そう言われて多崎つくるの巡礼の旅がはじまる。



結果的にその部分について彼が解決したかどうか、人との付き合いにもっと積極的になれたか、ということについてはぼんやりと保留したまま物語は終わる。

そうはいっても最後のほうで積極的なコミットは見られた。現実を考えてもこの部分はそんなに劇的に変わるものでもないので「こんなものだろうな」という感じではあったけど。



色彩のコミュニティから閉めだされた理由を求めて、何年かぶりに仲間を訪ね歩くことを通じその根本的な原因としてシロが「つくるがわたしをレイプした」といったから、までは突き止めたが「では、なぜ彼女はそんなことを言ったのか?」は謎のままに終わったけど。






疎外と自殺、あるいは他殺について直近でこんなのを見た。


「秋葉原事件」加藤智大被告が「黒子のバスケ」脅迫事件に見解表明!(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140814-00038250/


要約すると「われわれにはわれわれ特有の事情があったとはいえ疎外 → 孤独がありそれを埋めるべく犯罪に至ったのです」「それは逃げではなくわれわれなりに社会との接点をもとうとする方法だったのです」ということになるか。

しかしそれが他殺や他人(社会)に迷惑をかける形で発露しなくていいじゃんとふつー考えるので独特な論理展開であり詭弁的にも思えるけど。

「疎外 → 孤独 → 自殺か他殺か」の心理過程を素直に受け取ると(´・ω・`)する。



事件の当初も思ったけど、こういう犯罪を見ると永山則夫的な「貧困、社会構造が悪い」「罪人はその犠牲者的側面がある」というアファーマティブ・アクションみたいな見方をとってしまいがちになり、意識してその回路を反省 → 閉じるようにする。


件の二人も(供述をそのまま信じる場合)当該環境の犠牲者的なところがあり「われわれはもっとなにかしてやれなかったのか?」「加藤智大はどこのネットコミュニティもいる。第二第三の加藤があらわれないように、われわれが社会的に包摂しよう」みたいなのが見られた。


「環境のせいとはいってもそんなこといってたらずーっと育ちの不幸を言い訳にするようになりキリがない」みたいなところはあって、その議論にtuneしたくないのでここで留めるけれど。


「寂しくてカオナシ暴走したんだったらもうちょっと周りがなんとかしてあげられたらよかったのにね。あるいは金はすぐには無理にしてもちょっとした出会いがあったり。恋人とか、あるいはそこまでいかなくても人肌とかあったら違ったのかもしれない」みたいなことを思うんだけど、それとは別に「孤独を受け容れろ」という人達もいる。


それは「配られたカードで勝負するしかないのさ」と同じような意味で「クレクレ/足りない足りないと外部に求めてもキリがないところがあるから現状の足りなさ(miss)をとりあえず是しとしよう。寂しさはあるにしても」ということか、とは思う。


でも、孤独にもいろんなレベルがあって、ふつーの生活のなかで湧いてくる孤独(村上春樹的な孤独/人生の意味の希薄さ)であれば「孤独を受け入れろ」ともいえるだろうけど、いわゆる「ふつー」のレベルを超えて押し寄せてくる孤独-死にたみがある情況ではまた話が違ってくるように思う。


たとえば留置場-刑務所の中とか
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/403665731.html?1408056351

(※はてブあつまってきて「単にマウンティングして目立ちたいだけの連中がちゃんと読まずにガタガタいってるのうぜえ」 + 「それで目立って裁判に影響すると嫌」なので当該エントリは現在非公開中(特にやましいこと書いてないと思うけど『もしも』のこともあり、関係者もいて迷惑かかるといけないってのもあるし。ついでにいっとけば当該エントリをした理由は「刑務所の中」よろしく留置場の中や裁判までの過程、事情(逮捕されるとこんなに大変)について客観的事実を知識共有しとくのも良いかなと思ったから(特にTLで仲良い人たち宛で)。あとは最低最悪な情況でも学びがあるところを示せたかなと思ったけどはてブの読み飛ばし-自分のいいたいことだけ言う-マウンティング連中には通じなかった。。「何をしたか」とか書かなかったのも特定されると面倒そうだったから。釈放が早かったところからその辺は推察できるかと思ったんだけど、脳の容量足らない人たちはそこまで頭がまわらないのだった。書き方もあったかもだがクスリとかな事件ではないし、クスリだったらこんなにはやく釈放されてねーよ。あと、厨が魚拓とったーとか言ってきたけど阿呆なのか。。サービス側に頼んで消してもらうけど
https://twitter.com/m_um_u/status/500110442077749250
http://twitter.com/96neko/status/500107225147248640




なので「ふつー」の環境であれば「孤独や寂しさを受け入れろ」「それを散らすために安易にセックスして結果的に相手も自分も不幸にするな」とかも分かるんだけど、それも情況に依る、ということ。


環境型権力ってわけでもないんだけど実際にぢわぢわと生活に関わるところで幸福が実現されてないのって精神に来る。。


そのとき、人肌で死にたみを回避できるならそれでいいんじゃないかと自分としては思う。


まあ人肌以外にもいろいろあるだろうけど。留置場なんかだと甘味やおいしいものがなにより重要ってのは「刑務所の中」のとおりだったし。あと清潔・まともな睡眠ほかの基本的な環境。





つか、この辺りの話でこういった例外状態を例として持ってくることは飛び道具的ひきょーさ、というかイレギュラーみたいなところはあるか。


ふつーに生きていたら「孤独の受け容れ」の問題というのは生の意味、自分(人生)の了解的なものだろうから、自分も「孤独を受け入れろ(ワビサビとして」派だし。




このへんもそれぞれの作品同様、それぞれの人生-ストーリーを通じた了解のようなものがあるのだろう。論理や理屈以前に音や味、色やあたたかさで納得するようなそれが。ある場面で自分に「そういうことだったんだ」(これでいいのだ)と語りかけてくれるのかもしれない。



その聲を聞き逃さないように保っていたいと思う。

posted by m_um_u at 08:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク
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