「悲劇二度と…」京都・滋賀の遺族 戦没者追悼式
終戦から69年を迎えた15日、列島は鎮魂の祈りに包まれた。「戦争は残酷で、ばかばかしい」。追悼式に参加した女性は涙を浮かべ、亡き肉親に思いをはせた。集団的自衛権の行使容認に、平和国家の礎が揺らぐと危ぶむ声も。高齢化が進み、遠くなる戦争の記憶。「悲惨な体験を伝えたい」。せみ時雨の中、遺族らは後世への継承を誓った。
15日に東京であった全国戦没者追悼式には京都から124人、滋賀から46人の遺族代表が参列し、戦場で亡くなった親や兄弟を悼んだ。終戦から69年。遺族たちは平和への思いを新たにした。
京都府代表で献花した岡田和子さん(73)=木津川市=は海軍だった父一雄さんの写真を持参し、「小さい時、近所の方からお父さんに似て肌が白いと言われました」としのんだ。
一雄さんは1945年6月、当時「内南洋」と呼ばれた赤道付近の西太平洋の船上で戦死した。和子さんは幼かったのでほとんど一雄さんの記憶はなく、遺品も写真数点残っているだけという。
この日は十数年前に88歳で亡くなった母トミエさんの写真も持ってきた。トミエさんは父の死後に再婚した。「母は苦労話をあまり口にしなかったけれど、母のようなつらい思いを抱えて生きた女性は数多くいたでしょう。多くの悲劇や苦労を生む戦争は絶対にしてはいけない」と強く願った。
そして献花で「家族は元気に仲良く暮らしています。見守ってくれてありがとう」と娘3人、孫3人に恵まれたことを報告し、静かに手を合わせた。
滋賀県代表の猪田彦四郎さん(84)=東近江市=は兄2人を亡くした。幼いころに父が病死し、父親代わりだった14歳上の彦一さんは、1942年11月に南方の激戦地ガダルカナル島で戦死、26歳だった。彦一さんは尋常小学校を卒業してすぐに働き家族を支えた。彦四郎さんが中等学校に入学し、「頑張れよ」と激励してくれたのが最後の別れになったという。
9歳上の義三郎さんも竹馬やメンコでよく遊んでくれた。徴兵で中国戦線を経て沖縄へ。沖縄戦が終結したとされる前日の45年6月22日に戦死した。彦四郎さんは「兄は20代で亡くなったのに、私は長生きさせてもらった。戦争はあかん。このまま平和国家でいてほしい」と祈った。
【 2014年08月15日 14時59分 】