8月最初の土曜日、東京・渋谷で行われたデモ。「戦争反対」のコールが炎天下に響く。
この69年間、日本において戦争といえば、多くは1945年8月15日に敗戦を迎えた過去の大戦のことであり、そうでなければ、世界のどこかで起きている悲惨な出来事だった。
だが7月1日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、戦争は過去のものでも、遠くのことでもなくなった。
■戦争と日本の現在地
国民的合意があったわけではない。合意を取り付けようと説得されたことも、意見を聞かれたこともない。ごく限られた人たちによる一方的な言葉の読み替えと言い換えと強弁により、戦争をしない国から、戦争ができる国への転換は果たされた。
安倍首相は8月6日の広島、9日の長崎という日本と人類にとって特別な日の、特別な場所でのあいさつを、昨年の「使い回し」で済ませた。そればかりか、集団的自衛権に納得していないと声をかけた被爆者を「見解の相違です」と突き放した。
見解の相違があるのなら、言葉による説得でそれを埋める努力をするのが、政治家としての作法である。ところが首相は、特定秘密保護法も集団的自衛権も、決着後に「説明して理解を得る努力をする」という説明を繰り返すだけ。主権者を侮り、それを隠そうともしない。
男性23・9歳。女性37・5歳。敗戦の年の平均寿命(参考値)だ。多大な犠牲を払ってようやく手にしたもろもろがいま、ないがしろにされている。
なぜ日本はこのような地点に漂着してしまったのだろうか。
哲学者の鶴見俊輔さんが、敗戦の翌年に発表した論文「言葉のお守り的使用法について」に、手がかりがある。
「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている」
■お守り言葉と政権
お守り言葉とは、社会の権力者が扇動的に用い、民衆が自分を守るために身につける言葉である。例えば戦中は「国体」「八紘一宇(はっこういちう)」「翼賛」であり、敗戦後は米国から輸入された「民主」「自由」「デモクラシー」に変わる。
それらを意味がよくわからないまま使う習慣が「お守り的使用法」だ。当初は単なる飾りに過ぎなかったはずの言葉が、頻繁に使われるうちに実力をつけ、最終的には、自分たちの利益に反することでも、「国体」と言われれば黙従する状況が生まれる。言葉のお守り的使用法はしらずしらず、人びとを不本意なところに連れ込む。
首相が、「積極的平和主義」を唱え始めた時。意味がよくわからず、きな臭さを感じた人もいただろう。だが「平和主義」を正面から批判するのはためらわれ、そうこうしているうちに、首相は外遊先で触れ回り、「各国の理解を得た」と既成事実が積み上がる。果たして「積極的平和主義」は、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」へと転換させる際の理屈となり、集団的自衛権行使容認の閣議決定文には3度出てくる。
美しい国へ。戦後レジームからの脱却。アベノミクス――。
さあ、主権者はこの「お守り言葉政権」と、どう組み合えばいいのだろうか。
■8・15を、新たに
「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」
9日、長崎での平和祈念式典。被爆者代表として登壇した城臺美彌子(じょうだいみやこ)さんがアドリブで発した、腹の底からの怒りがこもった言葉が、粛々と進行していた式典の空気を震わせた。
ぎょっとした人。ムッとした人。心の中で拍手した人。共感であれ反感であれ、他者の思考を揺さぶり、「使い回し」でやり過ごした首相を照らす。
まさに言葉の力である。
デモ隊が通り抜けた渋谷でも、揺さぶられている人たちがいた。隊列をにらみつけ、「こんなことやる意味がわかんない。ちゃんと選挙行けよ」と吐き捨てる女性を、隣を歩く友人が苦笑いで受け止める。「戦争反対」とデモのコールをまねて笑い転げるカップル。日常に、ささやかな裂け目が生じた。
お守り言葉に引きずられないためには、借り物ではなく、自分の頭で考えた言葉を声にし、響かせていくしかない。どんな社会に生きたいのか。何を幸せと思うのか。自分なりの平たい言葉で言えるはずだ。
8月15日は本来、しめやかに戦没者を悼む日だった。しかし近年は愛国主義的な言葉があふれ出す日に変わってしまった。静寂でも喧噪(けんそう)でもない8月15日を、私たちの言葉で、新たに。
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