あなたが自分の人生について知っていることは、あなたにとって現実であっても真実ではない。
あなたの現実は、あなたの世界観を作り上げる目的のごまかし、教化、そして嘘によって作り上げられたものである。
あなたは教えられたことだけしか知らず、あなたのもつ知識に相反するすべてのことは信じないように条件づけられている。
あなたは奴隷にされてきた。
あなたは、常に操作されている型にはめ込まれ、囚われている。その型とは、安心・安全が確保された人生を送れる約束であるが、自分の頭で考えて思考が広がらないようにする教育制度、国民を犠牲にして自分たちが得をする官僚、官僚と手を結ぶ大企業の経営者、そして彼らが操るメディアなどによってコントロールされている。 これらすべてが融合して、一見あなたの人生はノーマルに見えるのだ。
これは、全部嘘で、個人と社会をコントロールするために作られた神話だ。
社会的コントロールの神話はあなたにとっても都合の良いものだ。神話を信じて、あなたは抑圧的で、搾取的で、寄生的な現状維持を自分にとって良いものと勘違いして守るだろう。
プロパガンダの主たる目的は種々の社会的コントロールの神話を作り上げることである。中央政府はコントロールを固めるために強力な神話を利用してきた: 「我々は外部から脅かされているから、皆で一致団結しよう」というのは中でも最も有効で人気があるものだ。
もう一つの社会的コントロールの神話は、社会や経済を動かす巨大なシステムの中では個人には力がないというものだ。 これは、現状維持には非常に便利な神話である。 なぜならば、個人は強制されずとも個人の自主性と自由を手放すからだ。 抵抗、革命、解放:前向きな変化のためのモデル – チャールス・ヒュースミス著
殆どの人間は自由を好む。それは、我々の遺伝子に書き込まれているのだ。 他人や組織によってコントロールされるには、そこに物理的、心理的、感情的、あるいは社会的な力が働かなければならない。 日本では物理的力はあまり使われていない。しかしそれは、他の方法で十分コントロールができたからに過ぎない。
日本人は自分たちの人生をコントロールできないことに関して意義を唱えていない。大きな借金、高い失業率、教育制度の衰退、政府の腐敗、社会の緩やかな衰え、日本の若者の暗い将来、その他諸々の政府の誤った国政も人々の血を湧かせることもない。 さらに、彼らは奴隷の状態に満足していると見えて、現状に従わない人を社会的に排除し、自分たちが囚われている制度そのものを守備する側に回っている。 コントロールする側から見れば、国家の運営に失敗しても国民を奴隷にしたことは成功しているということになる。
制度を変えようとする、あるいは政府の害がこれ以上及ばないようにしようとする少数派の人々は全部と言っていいほど失敗している。 首相官邸の前に集まり新聞の見出しを飾った原発反対派を首相は「うるさい」で片づけた。 オスプレイ配備反対派は、単に黙るように言われ、政府は自衛隊のためにオスプレイを購入する動きになっている。 同じように、TPP、消費税増額、普天間基地移転、東北の廃棄物処理に反対する人々も、政府の政策実施を幾分遅くするにとどまった。 最終的には、政府の思う通りになっている。
公衆は声を上げるが、無視される。 政府はこれらの点についてディベートをする代わりに、いかにして民意に反しようともうまく案を通すかに時間を費やしている。この手法は長らく公衆が声を上げる意思さえも萎えさせる結果となる。 ということで、公衆は政府のすることや自分たちの人生に直接参加していない。 しかしこれらの同じ人々が、機能していない制度に嫌気がさして離れていく者たちを批判することで、不幸な状況が延々と続くことになるのだ。
このおかげで、一般市民は何が本当で、何が政治や企業のプロパガンダか社会的教化なのか見分けがつかない。 フィクションはこうして現実となり、改革は枠の外のままだ。 しかし、ソ連、共産国中国の資本主義的改革、そして過去の歴史に見られる中央政府が支配する社会主義国の崩壊のように真実を永久に隠すことはできない。いつかは暴露されて、神話は壊れるものだ。 長期的なときの流れを見れば、人類は自由を求め、それを手に入れるだろう。
日本の単一文化の教化・強制の成功にもかかわらず、自分の意思または社会からの要求度の高さのためそれに同調していないか順応していない日本人が何百万人といるはずだ。 社会の規範への抵抗を非難なしには表現できず、オタク、草食系男子、ニートとなる人もいるし、自殺をしたり、引きこもりになったり、社会から非生産的でアブノーマルとレッテルを貼られる人もいる。
「アブノーマル」という言葉を使うことさえも異常である。 なぜならば神話上の標準的状態を拒絶の裏にあるものが、衰弱した国家、一般社会を魅了した幻想を拒絶することに対する答えを求めることだからだ。 フィクションでできた社会から見ればアブノーマルでも、人間本来の真実の追求はアブノーマルではない。 架空のフィクションのような一般社会の中で彼らは人生の真実により近い理解を求めている。 インスピレーションを求めているが見つからないでいるのだ。
もう一つ重要なことは、これらの人々が増えているのは、政府主導の社会経済が機能していないことを示すことだ。 また、経済と社会の測定数値も慢性的に下がり続けている。 今日の若者は経済成長と健康な社会の経験がない(社会の衰退と共に日本では経験の学習法としての価値は下がっている)。 その代わりに、制度は機能しているという政府の嘘の中で彼らは衰退のみの経験を積んでいる。 彼らの経験は教えらたものとは相反する・・・これはコンピュータが筋の通らない表現を解明しろとプログラムされても同じ答えしか出ず混乱してシャットダウンしてしまうのに似ている。 そして、このようにして、これらの人々にとっては、制度が機能しているという嘘は暴露されてしまうのだ。
これらの社会的に見放された人々は日本の抱える問題の答えは持っていない。しかし、日本社会にとっての彼らの価値は、彼らが象徴的によい質問をすることである。誰も聞かれても答えに困るようなこれらの質問はしないし、たとえしたとしても無視されるような質問だ。 だから彼らは“通常の社会”からは見放されたのだ。 このような人々がいること自体、社会が病んでいる警告なのだ。
真実とは嘘の帝国では反逆罪である ― ジョージ・オーウェル
オーウェルが正しければ、真実を象徴する人々を - 社会に居心地の悪い質問をさせるような - 嘘を促進し、嘘つきの作った制度を支持し、これらの人々を鼓舞する代わりに社会から追放した人たちは負け犬、見捨てられた人、珍奇な人として扱うに違いない。 そして、事実、そのようになった。 社会は彼らにもっと注意を払うべきだろう。なぜならば、経済が更に停滞すると子の余蘊人の数は増え、無視したり隅に追いやったりすることがより難しくなるだろう。 その時は、進化的な変化ではなく革命的な変化が起こるだろう。