Cafe Vita
編集委員・寺島英弥さん

2014年08月14日 13:17

震災4年目/余震の中で新聞を作る116~飯舘の春いまだ遠く / 福島・松川第1仮設から

 【この回は、河北新報の連載『飯舘の春 いまだ遠く~松川工業団地第1仮設から』(2月20~24日の5回)を基に加筆したブログ版です。遅くなりましたが、仮設の方々との約束でした。以後のことも書いていく予定です】

 「たたく場所で微妙に響きが違う。左手も、三味線の弦を押さえるように動かして」。ボランティア指導で訪れた福島市の会社員金田光一さん(56)が手本を見せました。響いたのは、本物の三味線ではありません。2014年1月下旬、同市松川町にある松川工業団地第1仮設住宅の集会場であった「スコップ三味線」教室。生徒は、福島県飯舘村から避難している入居者たちです。道具のスコップを1本ずつ抱え、取っ手の側の柄を左手で握り、膝に抱えた金属の歯の部分を、栓抜きで一斉にたたきます。流れるCDの演歌に乗って、チンチンカンカン、チンチンカンカンと合奏が盛り上がました。自治会長の木幡一郎さん(77)が満面の笑みで、こう締めました。「うまい! 大したもんだ。みんなで、『桜まつり』に出ような」
 桜まつりは、飯舘村の地区ごとにあった豊作祈願の春祭りを、入居者が共に楽しむ日。仮設住宅が開設された翌年の12年から4月末恒例で、自治会が広場で開いています。支援する地元有志が提供する大型トレーラーの荷台を舞台に、入居者たちが演歌や民謡を歌い、踊り、仮装の芸を披露します。避難生活の憂さを忘れ、みんなで腹の底から笑う日なのです。毎週土曜日、スコップ三味線の教室が開かれるようになったのは、自治会が前年の桜まつりに、演奏者として活動する白石市の城まさおさんを招いたのが機縁でした。07年、スコップ三味線の第1回世界大会(五所川原市)で個人の部優勝という城さんの名人芸に、「自分たちもやってみたい」という入居者のリクエストが相次いだそうです。「小さくても、楽しい目標をつくることが大事なんだ」と木幡さんは言います。

 松川工業団地第1仮設住宅の開所は、福島第1原発事故による全村避難開始から2カ月余り後の11年7月末(飯舘村の仮設住宅は4市町に8カ所)。入居者の平均年齢は70歳を超え、4割の世帯が独居でした。子どもは小中学生5人のみ。
 村の世帯数は、原発事故前の11年3月1日現在で1716戸ありました。しかし、復興庁が村の住民意向を調査した13年11月の時点では3024戸と、大きく変わりました。3世代同居が普通であった村の家族の形が、全村避難を機にばらばらになった結果でした。
 木幡さんも独居する一人です。妻を09年に亡くし、長男は南相馬市で建設業に就いています。村役場に近い同村伊丹沢地区で田んぼ1ヘクタールを耕し、和牛の繁殖を営んでいました。全村避難のため、手塩に掛けて育てた8頭を同県家畜市場(本宮市)で手放した後、仮設住宅の開所直前に自宅を離れました。「飯舘は、約3000頭がいた和牛の村だ。俺のような畜産農家が、処分のために最後まで残った。若夫婦や孫たちを先に避難させた家が多く、仮設に年配者が多いのはそのためなんだ」。若い家族の多くが移った福島市などの民間借り上げアパートが、3世代同居には狭すぎる事情もありました。

 11年8月に第1仮設住宅自治会の設立集会があり、木幡さんは村議会議員や地区老人会長などを務めた経験から、会長に選ばれました。「出身の地区もばらばらな入居者は皆、寄る辺ない境遇の不安にいら立っていた。どう守り、まとめていくか、覚悟が要ったよ」
 毎週火曜日にカラオケの会、木曜日には真新しい卓球台が広げられました。「いきいきサロン」と銘打たれたお楽しみ会も、毎月1回あり、いずれも入居者から人気の集いです。最近では、昔ながらのわら仕事の技をベテラン農家が伝える草履作りが好評でした。「引きこもる年寄りたちに外へ出てきてもらうため、苦心してきた。俺だって部屋に戻れば孤独。皆、『こんなところで死にたくない』と言う。仲間になって支え合い、笑って生きないと」

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 午前8時半、第1仮設住宅の集会所に、自治会役員らが集まります。平日朝のいつもの光景で、「俺の通勤だ」と会長の木幡一郎さん(77)。「毎朝、班長や仮設の管理人らと茶を飲み、入居者の安否、日々の出来事や予定、村との連絡事項などを話し合うんだ」
 管理人は村から委嘱される臨時職員で、入居者のお世話役です。初代は同村飯樋の農家の主婦佐野ハツノさん(64)。仮設住宅の開所直後から、予想もしない事態に忙殺されました。
 「山の飯舘村(標高400~600メートル)の涼しい夏と違って、盆地の福島は暑い。クーラーを使ったことがない、風呂のわかし方も分からない、と管理人用の携帯電話が鳴りっぱなしだった。麦わら帽をかぶって毎日出歩き、部屋を回って声掛けをし、くたくたになった」
 仮設住宅への無断訪問も、多い日で20件を超えました。さまざまな行商、宗教や保険の勧誘、メディアの取材。勝手に入り込んで撮影するテレビクルーに怒り、「年寄りを傷つけないで」と言って追い出すと、「映してやってるんだ」と悪態をつかれたといいます。
 ある夕方、入居者から「隣のじいちゃんの姿が見えない」と聞かされ、同市飯野町に出張所を置く村役場や警察署に連絡し、車で周囲を捜し回りました。朗報が入ったのは夜。なんと十数キロ離れた同市微温湯(ぬるゆ)温泉近くの山の道でパトカーに無事保護されたそうです。仮設住宅に入居した後、はいかい行動が出始めたといい、「飯舘の家に帰ろうとしたのでは」と入居者たちは口々に話しました。自分たちの思いでもあったからです。
 飯舘村は、全村避難から間もない11年6月、「2年後に全住民帰村を開始する」との目標を掲げる復興構想「までいな希望プラン」を打ち出しました。2年とは、「住民が待てるぎりぎりの時間。その間、国に除染を促す」と当時、菅野典雄村長は語りました。しかし、村を離れてわずかひと月で、仮設住宅の部屋にこもり、うつ状態が現れ、認知症が進む高齢者が相次ぎました。佐野さんは、離れて暮らす家族との連絡や、緊急に受け入れてくれる高齢者施設探しなどの支援に追われる日々が続きました。

 菅野ウメさん(82)の入居は同年9月初め。同村飯樋地区八和木にある佐野さんの近所の農家で、ハウスでイチゴを栽培する長男夫婦や孫と7月半ばに村を離れ、福島市内の借り上げアパートで一緒に暮らし始めました。若い家族は新しい働き先、転校先に通い、一人ぼっちになったウメさんは気力をなくし、部屋で寝込んだといいます。
「アパートの近所の農家が田畑で働く姿を見て、外出が嫌になった。同じ農家なのに、お金(原発事故の補償金)で楽をしていると見られるようで。村の自宅には帰れず、何もできない自分は足手まといになった。生活を奪った原発が憎い」。窓のカーテンで首をつったら楽だろう、とまで思ったそうです。一人きりになるのを心配した家族から、「知り合いが多く、気持ちも落ち着くよ」と第1仮設への入居を勧められました。
 「仮設に移ってはみたが、昔なじみが何日もひっきりなしにあいさつに訪れ、それで疲れてしまった」とウメさん。また寝込んで、隣人たちの呼び声に応えないまま約2週間が過ぎたまし。すると突然、部屋のガラス戸が外からたたかれ、驚いてカーテンを開けると、佐野さんが笑顔で立っていた。「ウメさんに相談があります」。守り手の思いも必死でした。

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 「相談があるの。ウメさんでなくてはできないことを、お願いしたくて。聴いてください」。ハツノさんはガラス戸越しに語り掛けました。原発事故で家族の暮らし、自分の居場所、生きるよりどころを奪われたというウメさんの思いは、痛いほど分かっていたといいます。「仮設の人たちは目標をなくし、病気になっていくばかり。飯舘らしい活動を、みんなでやりたい。ウメさん、師匠になってくれない?」
 ウメさんはかつて村の農業改良推進員としても長年活動し、ハツノさんは近所の若妻仲間たちと一緒に、こうじの床作りなどを教わったことがある。地元の大先輩は勤勉な人柄に加え、「着物を縫えば村一番」の腕前でも知られていた。相談とは、「村の主婦の伝統だった古い着物の再生を、仮設のお母さんの活動として始められないか」という提案だった。
 村の伝統の再生着は「までい着」と呼ばれる。「粗末にせず大事に、心を込めて」の方言が「までい」。冷害常襲地でどの家も貧しく、洋服が買えなかった戦後の昭和20年代まで、母親は古い着物を子どもらの普段着の服に直した。ウメさんの縫い物の腕は、までい着作りでも同様だった。ハツノさんはこの時のことを、「ウメさんに立ち上がってもらい、元気になって部屋の外に出てほしかった」と回想する。管理人として胃が痛むほど考えた末だ。

 手業復活へ、名人はついに腰を上げました。「タンスに眠る古い着物の寄贈を」。河北新報や日本農業新聞などを通じた支援の呼び掛けは反響を呼んだ。各地の女性たちから着物入りの箱が続々と届いた。自治会は入居者にお知らせを回し、までい着作りへの参加を誘った。活動は同年10月末に始まり、集会所には毎週水曜、十数人が集うようになった。話は広まり、福島市内の借り上げアパートや伊達、相馬両市内の仮設住宅にいる村の女性も加わった。までい着を「仮設発」の特産品にし、かあちゃんたちの希望に-。参加者たちの命名で、「カーネーションの会」が旗揚げされた。
 会員の武藤貞子さん(85)は、同村関沢の自宅を離れて第1仮設住宅で暮らす。同居する娘のとも子さん(62)は、避難後に体を壊して製造業の会社のパートをやめ、「働かなくては」と仕事を探している。
 縫い物は農家の冬仕事でした。武藤さんは昔、近所や呉服屋から頼まれて留め袖も縫いましたが、いまではそれを着る人も、技を伝える相手もいなくなりました。「仮設ではやることがなく、表に出ても、いつも同じおしゃべりばかり。何もすることがないけれど、手を動かさずにおれず、部屋で編み物をしていた」。までい着作りへの誘いに、気持ちが若返ったと言います。「ウメさんのおかげ。それから百着も縫ったよ」
 までい着は東京で評判を呼びました。支援者が首都圏に売り込み、12年3月から半年ごとに「飯舘村支援バザー」として千葉や埼玉のデパートで、までい着の販売会が催されています。武藤さんも、カーネーションの会の仲間と一緒にバスで2回、販売会に行きました。「デパートの会場はにぎやかで、東京や埼玉の息子たち、孫やひ孫が会いに来た。村から避難して以来初めて、幸せに出合えた思いだった」

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 13年9月23日、飯舘村前田地区の農業伊藤隆三さん(62)が急逝しました。子どものころ米沢市から移住して、家族と苦労の末に田畑を開拓し、「前田豊栄」と命名された地で養豚を手掛け、「HOEI工業」という小さな金型工場を興しました。原発事故による全村避難の後も、村の許可を得て工場の操業を守りながら、隣接する佐須地区の農家仲間・菅野宗夫さん(62)=同村農業委員会長=や、住民を支援する科学者ら有志のNPO「ふくしま再生の会」(田尾陽一理事長)と一緒に田畑の除染実験などに取り組みました。
 妻美智子さん(59)によると、前年7月ごろから左腕の痛みを訴え、夜も眠れないほどだったそうです。整形外科やマッサージに通いましたが、13年2月に突然、工場の床に倒れ、家でも倒れるようになり、声も出なくなりました。郡山市の病院で検査の結果、左肺の上部にがんが見つかり、福島医大で放射線治療を受けました。4月末の退院時、医師から「出血したら、助けられないかもしれないから、気をつけて」と言われたそうです。「咳き込むことが多く、腹痛も起きるようになり、肝臓にも転移していた。抗がん剤治療をやり、経過は順調と言われ、9月23日で治療が終わる予定だったのに」と美智子さん。喫煙家で、金型を削った煙も吸っていたろう、といいますが、原発事故以来の想像を絶する心労が時を早めた、と仲間たちは考えています。
 亡くなる当日、宗夫さんは、伊藤さんからメールをもらっていました。「(村の復興に向けて)これからが大事だ、という前向きなメールだった。症状についても、よく話してくれて、復帰するつもりだったと思う。その死が信じがたい」。遺言となったメールの文面には、こうありました。「村民のために捨て身の行動(中略)どんな歴史を遺せるのか、私たちも頑張りましょう」。放射線治療の痕跡で、伊藤さんの背中は黒くなっていたそうです。満身創痍でも前に進もうとした姿を、宗夫さんや再生の会のメンバーたちは、「志半ばの戦死」と語りました。

 ハツノさんも、伊藤さんの死去の10日前、福島市の病院で伊藤さんに偶然会っていました。やはり、「死ぬつもりなんてない笑顔だった」と言います。ハツノは02年、飯舘村の女性としては初めて村農業委員会の会長に選ばれ、3年間務めました。心細い思いを支えてくれた同僚委員が、宗夫さんと伊藤さんだったそうです。「あの日、一緒に快気祝いをしましょうと、伊藤さんと約束したのに」。ハツノさん自身も、がんを発症していました。
 最初の異変は、仮設住宅の開所からおよそ3カ月後の11年11月。風邪をこじらせて肺炎になったそうです。土日も夜もない管理人の仕事の疲れがたまっていました。初めて休みをまとめて取り、「狭い仮設の部屋では寝ておられず、相談事があれば、動かなきゃならないから」と、思い切って仮設を離れ、さいたま市のホテルを予約し1週間泊まって、ひたすら体を休めたといいます。
 ハツノさんは、農家で当時村議だった夫幸正さん(67)、義母と同居しています。同村宮内地区にある実家の91歳と89歳の両親も、原発事故後は同じ仮設に住まわせ、世話をしてきました。予定や来客がない週末などに、車で30分ほどの距離にある飯舘の自宅に行き、「山ほどある片付け事をする」。しかし、疲労は翌週に残り、仮設での習慣にしていた朝の散歩もできなくなりました。

 13年7月、村の自宅の番をしている老犬の太郎が、通行する車にはねられてけがをしました。病気もしており、知らせを受けたハツノさんは帰って介抱しましたが、その夜、便器を真っ赤にするほどの下血があったそうです。病院で直腸がんと診断され、やはり心労の蓄積による「ストレスが要因でしょう」「すぐに手術します」。医師からそう告げられたそうです。
 震災の疲れは家族にも表れました。幸正さんは原発事故の直後から、村議として地元の地区と役場の往復に追われ、仮設住宅に入ってすぐに心臓を悪くし、改選期の昨年9月に辞めました。
 ハツノさんの実父は、全村避難を嫌がったといいます。「裏山に隠れてでも、避難はしない。俺は放射能でなく、寿命で死ぬんだから」とまで言って。今は仮設の住人となった両親を、帰りたくてならない実家に定期的に連れだし、気持ちを安堵させることも、娘としてのハツノさんの役目でした。その父も体を弱らせ、14年の正月は病院で過ごしました。
 佐野さんは手術の後、体を休めたいと自治会に申し出、管理人を辞めました。後任になった花井カツ子さん(66)は「管理人の仕事は、こんなに多いのかと驚いた」と語りました。

 辞めても、悩みは尽きることがないといいます。心に巣くう悔しさ、痛みが癒えないから。いつも思うのは、全村避難の折、栃木県の牧場に職を求めて移った息子さんの家族と別れた朝のこと。孫の男の子を自宅の古い板蔵に連れていき、こう話したそうです。
 「ここにあるものはみんな、お前のものだよ。家も田んぼも、お前のものになる。だから、大人になったら戻ってきて、農業をやってな。それまで、じいちゃん、ばあちゃんが一生懸命に守っているからな」
 自宅に帰るたび、その日を思いだし、「行かないで」と悲しい目で見つめる太郎にも後ろ髪を引かれ、仮設住宅に戻らねばならない車の中で、いつも泣いている、といいます。

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 「4月から、村の大半の行政区で家周りの除染を行う。田畑もやると、さらに3、4年かかる。避難先では、年に100人以上の村民が亡くなっている。一刻も早く村に帰れる状況をつくる」
 14年1月25日に話はさかのぼります。第1仮設住宅の集会所では飯舘村主催の懇談会が開かれ、菅野典雄村長が、集った約70人の入居者にこんなニュースを伝えました。全村避難以来の同胞の苦境を聞き、会場から「はあー」と嘆息が漏れました。村長の話が続きます。
 「来年(15年)春から秋にかけて、(帰村の時期を)どうするかの判断を出したい」「約6000の人口が半分になる可能性もある。村はどう支援するか、復興計画作りを急いでいる」
 懇談会の後、自治会の木幡会長は菅野村長を呼び止め、入居者たちの要望を伝えました。「帰村の時が来たら、高齢者が一緒に暮らせる集合住宅を建ててほしい」
高齢者が多い第1仮設では、3年近い避難生活の間に10人が亡くなりました。「それでも帰りたいという人がほとんどなんだ」と、村長を見送った木幡さんは力を込めました。

 復興庁が13年11月に行った飯舘村の住民意向調査で、「戻らないと決めている」という回答が3割(20~30代では6割以上)を占め、「戻りたい」は2割でした。
「家々の放射線量量がどこまで下がるか未知数だ」「息子の世代はもう帰らないだろう」と、入居者たちは帰村を半ば諦めています。しかし、村内の除染作業が終わり、国の避難指示解除の日が来れば、仮設住宅は解散になります。入居者一人一人が、70~80代にして生き直しの選択を迫られるのです。
 ある男性が言います。「俺の家の鉄管が傷み、風呂もトイレも台所も駄目になった。だが、村外に避難して生活する息子から『修理のお金を掛けるな』と言われた。いずれ、世話になるからなあ」
 1人で暮らす木幡さんは「妻はもう亡くなり、牛も全村避難の折に売ってしまった。この年で、もう農業はやれない。除染してコメを作っても、風評で売れるかどうか」と言います。長男は南相馬市に避難し、建設会社で働いていますが、村に帰るつもりだといます。
 「飯舘の冬は厳しく、雪が多く道は凍って、車を運転するのも隣の家に行くのも大変だ。年寄りがぽつんと1人では生きられない」「だから、仮設で出会った者同士が、皆で育ててきたコミュニティーをそのまま生かして、一緒に住めたらいいと思うんだ」

 買い物の場所や通院先はあるのか? 年寄りの暮らしをどう支援してもらえるのか? 懇談会では、村の将来について住民から切実な質問が出ました。総合診療所の復活、移動販売や共同店舗、井戸新設による安全な水の確保、復興の拠点となる施設づくり…。菅野村長は、そうした未来図の一端を語りました。
 しかし、原発事故前と現実の村の姿の間で、入居者の心は揺れ動いています。元気なうちに帰れるのか、帰れないのか、かなうのなら事故前の村に帰りたい、と。「ハツノさんたちが仮設で育てる『までい着』のように、自分たちが担い手となり、村の復興に生かせる希望の種もある。支え合って冬に耐えよう」。いつか古里で迎える春を木幡さんは夢見ます。

第1仮設住宅集会所での「スコップ三味線」教室=14年1月25日

仮設住宅を訪れた菅野村長と入居者の懇談会=14年1月25日

 

開設から間もない仮設住宅を回る佐野さん=2011年8月24日

佐野さん(左から2人目)らカーネーションの会のまでい着作り講習会=14年1月29日

までい着の販売会での佐野さん=13年3月9日、所沢市の西武百貨店

自宅の田んぼで、ふくしま再生の会との試験作付けに取り組んだ伊藤さん(左から2人目)=12年10月14日

伊藤隆三さんの遺影に手を合わせる菅野宗夫さん=14年2月1日、飯舘村前田

大雪が降った飯舘村飯樋地区八和木の佐野さん宅近く=14年2月21日

佐野さん宅を訪れた、えさやりボランティアの男性と太郎=14年2月21日

除染廃土の仮々置き場づくりが各地区で進んだ、現在の飯舘村の風景=14年5月18日、飯樋地区

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