「漫画力絶対主義」を掲げる『ゲッサン』誌上に『とある飛空士への追憶』で彗星の如く登場し、鮮烈なデビューを飾った。現在連載中の『ひとりぼっちの地球侵略』においてもその実力を遺憾なく発揮しながらも更なる成長を目指す小川麻衣子先生に、その「漫画力」のルーツについてお聞きした。

1章:漫画まみれになってしまうのは、なんだかちょっと
2章:連載って生き物だから
3章:人には言えない野望を持って


1章:漫画まみれになってしまうのは、なんだかちょっと

漫画はいつ頃から描いていましたか?

小川麻衣子先生(以下小川)物心ついた時から、幼稚園で配られる白紙の自由帳などに4コマを描いたりしていました。消しゴムの「もっくん」という主人公が「ぼく消しゴム!」みたいなことを言っているようなものでしたね。でもその頃は絵を描くよりも粘土で遊ぶほうが好きだったことを覚えています。お昼休みに黙々と粘土をこねていた記憶しかないんですが(笑)。

小学校に上がってからはどうでしたか?

小川漫画を描いていましたよ。私が三、四年生くらいの頃にポケモンブームが起こりまして、当時は『ポケットモンスタースペシャル』(以下『ポケスペ』)に大ハマリしました。描いていた漫画も『ポケスペ』に影響されていて、ポケモントレーナーが主人公のものでしたね。それから縛られたようにポケモンの漫画を描き続けていて、中学二年生くらいまで、ずっと繰り返し主人公の旅立ちの部分だけを描いていました。ポケモンの他にはオリジナルのバトル漫画を描いていました。100ページくらいあってまだ保管してあるんですが、ストーリーも考えずに思い付きで一枚一枚進めていました。いま思い返すと『ファイナルファンタジー』にものすごく影響を受けていましたね。剣を持って戦ったり、「ガーデン」に通っていたりとほとんど『FF8』でしたね。

漫画家になりたいと思ったきっかけは何でしょう?

小川最初から「漫画家になりたい!」という強い意志があったわけではなくて、漫画家の他にもいろいろな夢がありました。子供の頃は飛行機のパイロットになりたい、なんてことも言っていたのですが、飛行機を操縦する練習は子供にはできないじゃないですか。けれど絵は練習することができるので、ずっと描いていました。小学校の頃に絵を描く授業があったのですが、その授業の中で絵を見た先生に「小川さん、あなたは漫画家になりなさい」というようなことを言われたこともあります。そういったことだけではないのですが、漫画家を目指した理由という意味では、他にも沢山小さなきっかけを集めて大きくしたようなものが根底にあります。

初めて投稿や持ち込みをしたのはいつでしょうか?

小川中学三年の時に40ページ前後の作品を描いて、ジャンプに送ったんですが、どんな漫画を描いたのか記憶に無いんですよね……。それから高校二年生まで4回ほど、半年に1回くらいのペースでコンスタントに投稿をしました。3回集英社に送って、デビューをした小学館に送ったのは4回目だったんです。高校三年生になってからは受験生だったので描きませんでしたね。初めて受賞したのは大学一年生の夏、人生では5回目に投稿した作品ですね。その時は「やったー!」と思いました。

投稿をした際の担当さんからのアドバイスは、どのようなものでしたか?

小川私は地方に住んでいたために直接投稿するというのをしたことがなかったので、漫画賞の講評でもらえる数行のコメントだけがすべてでした。それも自分だけではなくその回で投稿した全ての漫画家志望者に送られた言葉だったので、それほど気にしたことはないですね。

大学ではどんな活動をしていたのですか?

小川高校の頃までは漫研や美術クラブに入ったことがなかったのですが、「これじゃあ寂しいかな」と思って美術サークルに入りました。なんとなく漫画まみれになることがはばかられたので漫研には入りませんでしたね。ちょっとかっこいい方に入ろうかな、と思って(笑)。絵は描いていましたけど技法や道具に関する知識があまりなかったので、絵画的な勉強をする場としてもいい選択をしたと思います。通っていた大学には美術科もあったので、サークルと学科の垣根を超えたデッサン会などにも参加していました。漫画以外にも大学生らしく飲み会に行ったりバイトをしたり、海外旅行にも行ったりしましたね。

大学を出てそのままプロ漫画家としてデビューしましたが、生活にはどのような変化がありましたか?

小川大学を出てからすぐプロとして漫画を描いていくということに不安はなかったんですけれど、アシスタントにも入ったことがなかったのにに漫画を何十ページも描かなくてはいけなくなりました。そのためのネームはきちんと用意していたんですが、毎回一ヶ月以内に描くということになって、まず困りましたね(笑)。大学の頃は読み切りを一本描くにしても三ヶ月くらい、バイトをしたり遊んだり好きなことをしながらでも大丈夫だったのですが。最初の頃は漫画を描く時とそうでない時というオンオフの切り替えが全くできなくて、漫画を描くスイッチが入るとアドレナリンが出るから寝ても食べなくても大丈夫だと思っていたんですが、そういう生活をしていたらものの一ヶ月や二ヶ月で結局ガタが来てしまいました。ある日目が覚めたら布団から起きられない、なんてことがあったのですが、その時に「これではいけない!」と思ってひとまず家にあるものを食べようとコンロに火をかけたんですが、気付いたら床に転がっていました。つまり生活がめちゃくちゃになっていたんですよ。今は寝る前とか、お腹が空いたらきちんと数時間おきに食べています。

現在編集さんとはどのような付き合いをしていますか?

小川だいたい月に一度、原稿が終わってから編集部に来て打ち合わせをして、あとは一ヶ月ずっと合わないで電話やメールなどでやり取りをしています。それほど頻繁に打ち合わせをするということはないですね。私の担当は編集長の市原さんなのですが、漫画家として赤ん坊状態だった私に向けて漫画とは何か、ということをロジカルに解体して教えてくれて、「なんて頭のいい人がいるんだ!」と思わされました。

新人にとってゲッサンはどういう場だと考えていますか?

小川最初は混沌としている雑誌だなあ、と思いました。ものすごい大御所の方がいる中で私みたいなアシスタントを経験したことがないような新人の漫画も載っていて、とても自由な、いつでもチャンスを与えてくれる雑誌だと思います。

先生は創刊メンバーとして『とある飛空士への追憶』(以下『飛空士』)を描かれましたが、原作付きの漫画を描くことをどう考えましたか?

小川「チャンスだ!」と思いましたね。小説をもともと読んでいたわけではなかったのですが、コミカライズの誘いを頂いてから、買って読みました。当然、空戦がよく出る話なので、これは絶対作画が大変なことになるから資料集めをしないといけないぞと思い、航空大学まで行って取材もしました。そこの学生の方は流石によく『飛空士』をご存知で、小説の内容もかなり把握していて、専門的かつ的確なレクチャーをして頂き、大変助かりました。