大分・保戸島空襲:死亡児童らの面影浮かべ…記憶語る教諭
毎日新聞 2014年08月13日 21時27分(最終更新 08月13日 21時45分)
終戦間近の1945年7月25日、大分県津久見市の離島、保戸島(ほとじま)が米軍機により爆撃される保戸島空襲があった。4発の爆弾のうち1発は国民学校を直撃し、児童ら127人が死亡、75人が重軽傷を負った。「もう少し早く戦争が終わっていれば」。69回目の終戦記念日を前に、当時、同校教諭だった近藤綾さん(87)=同市在住=は亡き教え子らの面影を浮かべながら記憶を語り始めた。【浅川大樹】
真夏の強烈な日差しが印象的な朝だった。空襲警報が解除され、保戸島国民学校(全校児童・生徒960人)で授業が始まろうとしていた。ほとんどの男性教諭は出征で不在。18歳の新任教諭だった近藤さんは高等科の女子1年と2年(現在の中学1、2年)を複式で受け持っていた。
午前9時ごろ、校舎2階の教室で数学の問題を板書しようとした瞬間、米国の艦載機グラマンの投下した爆弾1発が同じ2階にある初等科5年の教室を直撃した。「ズズズ」という地鳴りのような震動と、大槌(おおつち)で頭を打たれたような衝撃、硫黄のきついにおいが同時に襲った。一瞬の出来事で生徒たちに「机の下!」と2度叫ぶのが限界だった。
近藤さんは教卓下に潜り込んだが、気が付くと床が崩れて1階にいた。木造2階建ての校舎は倒壊。爆撃直後の機銃掃射が終わると、辺りには手足がばらばらの遺体が散乱するすさまじい光景が広がっていた。
近藤さんは左脚と尻にけがをしていたが痛みも忘れ、倒壊した校舎の下になった瀕死(ひんし)の子供の救助に向かった。「子供を助けるために鬼になって必死に動いた」。しかし、数人を助け出すのが精いっぱいだった。亡くなった児童・生徒は124人。同僚の女性教諭2人、女性教諭の5歳の子供も亡くなった。爆風で約200メートル離れた海上まで飛ばされた子供もいた。近藤さんは生き残ったことに対する申し訳なさから、亡くなった子らの親と顔を合わせられなかった。
戦後も空襲のことを考えるたびに校庭で遊ぶ児童の姿、空襲の恐怖と児童らを失った悲しみがよみがえった。数年は自宅近くで鳴る正午の時報が空襲警報に思え、びくっと体が震えた。「もう少し早く戦争が終われば、子供らが亡くなることはなかったのに」。近藤さんは振り絞るようにして語った。