【動画】多くの日本人が抑留されたロシア極東の街=佐藤達弥撮影
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 従軍看護婦たちが多くの死と向き合った抑留の地。今月初め、日本から約2千キロ離れた旧ソ連のザビタヤ(現ロシア・アムール州のザビチンスク)を訪れた。

 69年前、満州国(現・中国東北部)の佳木斯(ジャムス)第一陸軍病院から逃れた井上ともゑ(87)と湯本照子(84)らが最初に抑留された極東の中心都市・ハバロフスクから車で約8時間。ザビチンスクは約1万1千人が住むシベリア鉄道沿線の街だった。

 郊外に行くと、雑草が生い茂った広大な土地が現れた。「このあたりに従軍看護婦がいた『第2017病院』がありました」。案内してくれた地元の教師、オリガ・ソロビヨワ(61)が言った。真夏だが、気温は25度ほど。冬は零下40度まで下がるという。

 「極寒のために外に埋葬できず、病院の屋根裏は旧日本兵の死体でいっぱいだった」。井上の言葉を思い出した。一方で、目の前に広がる草地からその痕跡を見つけることはできなかった。69年の歳月は、あまりに多くの「無念の死」をのみこんでいた。

 郷土史学習の一環で、約3年前から抑留について調べ始めたソロビヨワ。地元の高齢者の話や役場の記録をひもとくと、ザビチンスクの郊外に日本兵が重労働を課せられた収容所とソ連の第2017病院があり、従軍看護婦もいたことが分かった。1950年ごろまでに抑留者はいなくなり、建物もすべて壊されたが、死者は200人を超えていたという。

 ソロビヨワは言う。「戦争は政治家や軍部の上層部が始める。でも、苦しむのは前線の兵士や市民だ」