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■元兵士は憂う〈3〉 特攻隊

 特攻機のエンジンが止まった。操縦していた中尉が「もうだめだ」と叫んだ。「がんばりましょう」。そう声をかけて、必死に操縦桿(かん)を操った。しかし、手が離れた瞬間、機体ごと海に落ちた。中尉を見たのは、それが最後だった。

 副操縦士だった愛知県豊田市の福井深史(ふかし)さん(90)は特攻隊の生き残りだ。敗戦2カ月前の1945年6月、特攻任務で福岡から鹿児島経由で沖縄へ向かう途中、エンジントラブルにあった。一緒に飛び立ったほかの14人は全員死亡した。「なぜ俺だけが」。戦後もずっと悩み続けてきた。

 飛行訓練はわずか9カ月。ようやく操縦できるようになったところでの出撃命令だった。戦闘機が足りず、搭乗機は2人乗りの偵察機。計器の多くは取り除かれ、爆弾の代わりに焼夷(しょうい)弾3発とガソリンを入れた容器が取り付けられた。敵艦に体当たりし、火災を起こさせる。いま思えば無謀な作戦だ。しかし、当時は「国のため」。本気でそう思っていた。

 訓練期間中、32人の航空隊兵士が集められ、「特攻に行きたい者は手を挙げろ」。なぜか異様に興奮していた。「はい」。全員がいっせいに手を挙げた。

■冷たかった周囲の目

 出撃前日、福岡の基地。5円玉が数枚入った袋を整備兵が渡してきた。香典だった。夕食はいつもより豪勢だった。出撃が死を意味することを示していた。夜は眠れず、しきりに両親の顔が浮かんだ。早朝、搭乗する時に見た仲間の顔は、みんな血の気がなかった。