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【政治】

終戦1年3カ月前「対中終結を」 重光外相、ソ連仲介構想 新史料で判明

第2次世界大戦中に外務大臣とモスクワ大使館間で交わされた外交秘密電報の冊子。この中に新発見公電が多数含まれている。それぞれの表紙の左側には、赤字で「非常焼却」と書かれている

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 第二次世界大戦中の一九四四(昭和十九)年五月、東条英機内閣の重光葵(しげみつまもる)外相が、日本と中立条約を結んでいた旧ソ連の仲介による中国との戦争終結を目指していたことが、東京新聞が入手した当時の外交秘密の公電で明らかになった。重光は早期終戦論者の一人とされてきたが、終戦の一年三カ月も前の動きが公的文書により裏付けられたのは初めて。入手した公電二百五通のうち百二十二通は新たに見つかった史料。同時期の公電は焼かれるなどして現存しないとされてきたが、当時モスクワの日本大使館などで勤務し、戦後に駐米大使を務めた故武内龍次氏がまとめて保管していた。

 公電は四三年十一月から四五年七月までに外務省とモスクワの日本大使館の間で交わされた。重光は四四年五月二十五日、佐藤尚武大使宛てに「帝国の対ソ対支方策に関する件」と題し、ソ連と中国の対策を記した。公電の扱いは三段階で最も秘密保持が求められる「外機密」に指定されている。

 重光は当時の日ソ関係を「衝突無きを得る素地を得たる」と説明。日ソ中立条約を生かし、ソ連の協力を得て日中戦争を終わらせようとした。佐藤には「終結に導くの方策」が可能かを尋ねた。

 当時の中国は、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が対立していたが、重光はソ連の影響力で中国内を一つにまとめてもらった上で、日ソに中国を加えた不戦の枠組みをつくれないか考えていたのだ。

1944年5月25日、重光葵外相が中国との戦争の終結構想を記した公電の記述

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 だが、佐藤はソ連が米英両国と連合国として連携していた情勢から、ソ連仲介の実現性は「疑問」と返電。戦況悪化を受けて四四年七月に東条が退陣し、小磯国昭内閣が発足した直後の八月に決定された戦争指導大綱には、ソ連仲介の日中戦争終結策が初めて正式に盛り込まれたが、その後の公電からはソ連との外交交渉が行き詰まり、四五年八月の降伏へ日本が追い込まれていく様子が分かる。

 戦時中の外交文書を公開する国立公文書館アジア歴史資料センター長で、筑波大の波多野澄雄名誉教授は「この重光の公電は初めて見た。戦時中の公電が見つかっていたのは六〇年代まで。それから半世紀後の今、大量の公電が出てきて驚いている。戦時外交を知る重要な史料だ」と話した。

 武内氏は戦時中にモスクワの日本大使館で一等書記官を務め、戦後は外務次官などを歴任。公電は自宅に保管していた。

 武内氏が九九年に死去した後は都内に住む親族が持っていた。

<重光葵(しげみつ・まもる)> 1887年生まれ。駐ソ、駐英、駐華大使を経て東条内閣と小磯内閣で外相。終戦直後の東久邇宮内閣でも外相を務めた。極東国際軍事裁判でA級戦犯として禁錮7年の有罪判決を受けた。鳩山一郎内閣では副総理兼外相として、ソ連との国交回復と国連加盟を実現。1957年に69歳で死去。

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<解説>

 新たに見つかった戦時中の外務省とモスクワの日本大使館との間で交わされた膨大な枚数の外交秘密公電は、日本が自ら始めた戦争から抜け出すことができず、国内外に多くの犠牲者を出した悲劇の歴史を解き明かす重要な史料になる。

 戦時中の外交秘密文書は、一九四五年五月の東京への空襲で外務省庁舎が火災に遭った際、多くが焼失。さらに、広島に原爆が投下された翌日の八月七日には、外務省記録文書処理方針が決裁され、重要書類は焼却された。連合国による戦争責任追及の証拠を消すためだった。公電の表紙には処分対象だったことを裏付ける「非常焼却」の文字が残っており、本来なら焼かれる運命にあった。

 公電は、元外交官の故武内龍次氏が保管していたことから、戦後六十九年にして奇跡的に世に出た。だが、個人が持っていなければ残っていなかったという事実は見過ごせない。

 外交文書は後世の評価に委ねるため、保存して公開するのが大前提。検証できなければ、どんな交渉や政治判断をしたのかが歴史の闇に埋もれてしまう。過ちを犯したなら、なおさら教訓を得るためにも詳しい経緯を知る必要がある。

 新たな公電は、時の権力が将来世代にまで責任を負っていることを自覚すべきであるとともに、今を生きる人たちが歴史に学ぶことの大切さを教えている。 (関口克己)

<日中戦争> 1931年9月の満州事変が発端。37年7月に中国・北京郊外での軍事衝突(盧溝橋=ろこうきょう=事件)を機に、日本が無条件降伏する45年8月まで続いた日中間の全面的な戦争。北京、上海、南京など中国主要都市に戦火が広がった。

 中国は国民党と共産党が徹底抗戦し、戦況は泥沼化。日本は局面の打開を図ろうと、東南アジアや太平洋に戦線を広げて米国や英国などとの戦争を招いた。

 

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