価値のない話

「夢と違うじゃねえかよお!」

ノスタルジアと感動の話

 まとまってないけど、思ったことを書いておく。

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 某ドラえもんの映画がひどいという評判を聞いて、「ああやっぱり」という風にしか思えなかった。そのへんの話は後で詳しく書くとして、今は「感動の押しつけ」ということについて考えていきたい。

 

 いつごろからか「泣ける」と評判の話の需要がやたらと強調されるようになった。そして「感動した」「全米が泣いた」みたいなキャッチコピーに(笑)がついて微妙な捉え方をする人が増えていった。単に今は過剰供給の極みみたいなところがあると思うけれど、なんでこんなに増えたのかは最近思うところがないでもない。

 

 この「ここで感動してください!」というのはテレビのテロップで「ここで笑ってください!」とか「ここは面白いところです!」っていう指示とあまり変わらないがする。心霊番組でも悲鳴をわざと重ねて「ここが怖いところです」みたいな紹介をしないといけないみたいな編集をよく見る。そんなことしなくたって面白いものは面白いし、怖いものは怖いし、泣けるものは泣ける。あのテレビのワイプ画面で泣いてるタレントを出しているのもそういう演出の一環だと思う。

 

 なんでそんなことをするのかっていうと、やっぱり「視聴者が馬鹿になった」というのか「テレビ局側が舐めている」のかどちらかである。心情的には後者を推してテレビ局を悪者にしたいところだけど、多分前者のほうが正しい。最近はそう思う。

 

 特に感動というのは、自分の経験と物語を組み合わせて共感させる高度な感情表現だ。ところが、最近はメディアの発達で自分で経験しなくても感情の流れだけを追体験できるようになった。自分のものではないのに自分で体験した気分になって他人の感情になって勝手に泣いたり怒ったりする。自分に関係ないのに、当事者の立場になって勝手に怒り始める人も多い。単に自分と他人の区別が付いていないせいだと思う。だから親身に相手の立場になって一緒に怒るというよりも、自分だったら嫌だなあという自己完結した怒りであって、当時者は実は置き去りにしていることもある。

 

 人生の読解力がないから「感動してください」って言わないとストーリーの内容が理解できない。そして無意識に「ここで泣けばいいんだな」と周囲の視線を気にして一緒に涙している気がする。それか徹底的に「泣けない」と主張して自分と他人は違うアピールに熱心になっている。

 

 そういうご時世だから番組実況やニコニコ動画みたいなサービスが人気になるのかもしれない。みんな笑った、じゃあ自分も笑おうみたいな。まず自分の感性に自信がない。そして人と違う感性であることを恐れる。だからコピーが説明口調なんだと思う。これって誰のせいなんだろうね。誰のせいでもないのかな。