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Museさんは、議論の仕方をご存じないようです。

私とMuseさんの一連の議論の終息をするにあたっての理由を述べています。
こちらの記事は長文です。要点だけを知りたい方は別記事「流浪人Muse殿!竹みつで何を斬る!」をご覧ください。

議論には明確なルールがあります。
単純なルールです。議論のすり替えをしない。すなわち、議論の途中で新たな前提(論拠)を持ちださないということです。

たぶん、このことをMuseさんはご理解していないようなので、説明させていただきます。

この議論を始めた時のMuseさんのおっしゃっている内容を議論(論点)の背景(論拠)の流れから見ていきます。

>(議論を出発させた昨年8月の時点でのMuseさん)
>当方としては、主に創造原理(中略)をもって、“目下のところ”、キリスト教神学などより遥かに説得力のある有神論思想として位置付けている
>(創造原理は)目下のところ、普遍的妥当性を持ちうる宗教思想の1つ

その後、Museさんは普遍的妥当性ありと考える創造原理を前提に、Muse理論(自己中心の二律背反的側面」)を議論に登場させてきました。それに対して創造原理としての誤りを私は指摘し、反論しました。その時のMuseさんのコメント↓は以下の通りです。その後Museさんは以下のコメント↓を残したまま、8カ月間もだんまりを決め込んだのです。饒舌なMuseさんが返信、反論を8カ月間もよこさなかった理由はなんだったのでしょう。

>(昨年の11月の時点Museさんのコメントより)
>当方のコメントに対する複数の反論記事ですが、(中略)残りの記事については、いずれじっくりとコメントさせて頂きます。

今月、私は某ブログ(他のブログ)にコメントしているMuseさんを見つけ、ちょっとつついてみたのです。Museさんは自前のブログを持たないため、私は彼に直接メッセージを送る良い手が見つからなかったからです。

某ブログのコメント欄でMuseさんをつついた私の真意は以下のような感じでしょうか。
「Museさん、他人のブログにコメントする暇があったら、半年も前にあなたの誤りについて、私のブログで指摘した内容に反論をお願いしますよ。」

すると、私につつかれたMuseさんはかなり、腹を立てたようです。
>Museさん
>以前と違って、私はもはや創造原理“それ自体”を普遍的真理とは認めていません。
>ですので、今更「創造原理が真理である」ということを前提とした反論の必要性なしということで、そちらのブログともおさらばしたわけです。
>それでは、お元気で。

つれない返事ですね。自ら議論の前提をひっくり返してしまいました。
読者の皆様は、ドラマなどで見かけるシーンを思い出して下さい。将棋で、盤ごとひっくり返して、試合を放棄する人っていますよね。あんな感じを想像してください。こんなお茶目な人を演じてしまったんです、Museさんは。

Museさんのコメントから開き直った一面がみてとれます。
>Museさん
>(たとえ創造原理もどきであると揶揄されたとしても)創造原理や統一思想の個々の内容について、取捨選択して是々非々の観点から解釈する立場に立ったとしても何ら不合理ではないということです。

不合理かどうか、Museさんご自身が明言した発言をご覧ください。

「創造原理(中略)をもって、“目下のところ”、キリスト教神学などより遥かに説得力のある有神論思想として位置付けている」  
 ↓
 「以前と違って、私はもはや創造原理“それ自体”を普遍的真理とは認めていません。
    ↓
「「有神論を前提としてみた場合、創造原理の内容には、普遍的に正しいと思える部分があると認めているに過ぎません。」

議論の最中に、コロコロと前提が揺れ動いていることがおわかりでしょうか?これはMuseさんの心が動揺しているからでしょうか?
最近Museさんは、良心の呵責を感じたのか、腹の虫がおさまらないのか、「反論必要なし」と言っていた私のブログにやってきて、「当方の見解は唯物弁証法的であるという批判に対する反論」などと、書き散らかしていきましたよ。

論敵に対する礼儀(守るべきルール)としては、論拠のすり替えはおやめください。
Museさんご自身がぐらついた(動揺した)ことが、この議論の破たんを招いたのです。ご自覚ください。

「(私Museは、創造原理を普遍的真理として、この議論を出発させましたが)、以前と違って、私(Muse)はもはや創造原理“それ自体”を普遍的真理とは認めていません。さらに、(今は少し、心の動揺が治まったので創造原理を部分的に自分の都合に合わせて、採用することにしました。)」
このようにMuseさんの議論の前提が右や左に揺れ動いたり、ひっくり返ったりしている現状では、どう議論を続けることができるのでしょうか?

今回のMuseさんのコメント「当方の見解は唯物弁証法的であるという批判に対する反論」などというものに私がつき合う意味などなくなってしまっているのです。

Museさんは議論において、やってはいけないルール違反を犯したのです。
「私Museは、議論を破たんさせた張本人として責任を取って、ここで竹みつで、切腹します。」
というくらいの状況なんですが、そんな自覚はないようですね。のん気に、弁証法がどうだ、こうだと騒いでいるのではないでしょうか?

創造原理が普遍的真理かどうか議論するところから始めないと、私とのこれからの議論は出発できなくなってしまったのですよ。

言わば、Museさんは、「議論のすり替え(論拠ずらし)」をしたのです。そして自らの理論、論理も同時に破壊したのです。そのことによって、私との議論も破たんさせてしまったのです。
「創造原理“それ自体”を普遍的真理とは認めていません。」これを言うのであれば、議論する前に、「当方としては、主に創造原理(中略)をもって、“目下のところ”キリスト教神学などより遙かに説得力のある有神論思想として位置付けている」などど、余計な事を言うべきではなかったのではありませんか?

今は、さらに微妙に変えてきていますよね。
「有神論を前提としてみた場合、創造原理の内容には、普遍的に正しいと思える部分があると認めているに過ぎません。」

これは、Museさんの自説の「自己中心の二律背反的側面」の背景(論拠)に創造原理が必要だからでしょう。一方では、創造原理は必要なしと私との議論を反故にしながら、自説を説く時には部分的には必要なんで使っちゃいましたというMuse流のダブルスタンダードを設けたのではありませんか?

私が9か月前に反論した時点で、
「当方のコメントに対する複数の反論(中略)記事については、いずれじっくりとコメントさせて頂きます。」などと言わずに、素直に「拙者の都合で議論の前提を変えざるをえなくなりました。拙者の負けです。」と投降すべきだったのです。

議論においては、内容もさることながら、「創造原理“それ自体”を普遍的真理とは認めていません。」と言うことは、議論を出発させた後では、Museさんの自己都合による前提撤回となり、ルール違反となるのです。

要するに「創造原理“それ自体”を普遍的真理とは認めていません。」はMuseさんの負け惜しみとして相手には取られかねないのです。議論の途中で、自らの議論の前提をひっくり返す合理的理由は何も無いからです。前提をひっくり返すのであれば、議論において自ら投降して、議論を一旦収束させるべきなのです。檀マリ子さん(無視)はいけません。

私の主張(創造原理が前提)に9か月前に反論できなかったので、Museさんがだんまりを決め込んだのでしょう。饒舌なMuseさんがだんまりを決め込むのはおかしいと思っていました。しかし、私が議論の続行を催促(他のブログにコメントしている彼を刺激)したので、Museさんはしかたなく議論の論拠をすり替えたのでしょう。論拠をずらすことによって、議論を不毛にすることは可能ですから。

やむなく抜いた刀は、実は竹みつだったということです。
自ら吐いた言葉「創造原理“それ自体”を普遍的真理とは認めていません。」は、巡り巡って、原理(ルール)はあなた(Museさん)を認めない(議論の破たん)となってしまったのです。

Museさんの理論(自己中心の二律背反的側面)は、背骨(バックボーン)がないのです。
この理論で、新たに創造原理に代わって、Museさんが前提にしているもの(二律背反の妥当性たるもの)を提示しなければなりません。どこにも現在無いのです。提示されていません。創造原理を離れた以上、自己中心という言葉も厳密に定義してもらわなければ、原理用語との違いがわかりません。

また、「創造原理といえども堕落論すなわち「人間の堕落」を前提とした理論である」という新たなMuseさんの見解も何らMuseさんは説明なく、当たり前のように使用されています。これは、新たなMuse理論ですか?
創造原理とか、人間の堕落とか、Museさんが前提としない統一原理の内容に言及しては、一方で自らの理論の根拠(妥当性たるもの)を示せないのは議論の相手を惑わしたいためですか?

>Museさん
>当方の見解は、「後天的な人間の堕落」を前提としたものではなく、あくまでも「先天的な人間の利己主義」を前提とした理論(自己中心の二律背反的側面」)
とあります。後天、先天などの用語も定義を示さなくては使用できないはずです。なぜ、Museさんオリジナルな表現をなさらないのですか?それとも真のお父様のみ言が前提になっているのですか?

今後議論する時は、創造原理を離れたからには、ひとつひとつの言葉(自己中心とは?、ニ律とは?、先天とは?、後天とは?)の定義づけからはじまって、Museさんがおっしゃるその利己主義を前提とした理論をきちんと自前のブログで発表する作業が必要ではありませんか?二律背反の妥当性たる理論(根拠)を構築し、提示した上で、議論が初めて可能となるのです。創造原理を部分的に採用するのであれば、採用しない部分をきちんと説明しないといけないのではありませんか?ひとつひとつ、突かれる度に、コロコロ主張の根拠を変えるのであれば、Museさんの今の段階は、竹みつを振りかざしているような心理状態だと言えるでしょう。

議論の前提をコロコロ変えて、竹みつを振りかざしても、バックボーンを明確にしないと、相手には何をしたいのかが伝わりません。

Museさんは自説の背景(根拠)を説明する必要があるにも関わらず、他人のブログに長々とコメントを出すことはできても、未だに自らのブログで自説を発表、発信ができていないのではないですか?今までお互いに創造原理という背景があったから、議論ができたのです。それを無くして、何を?誰と?この統一村で議論するのですか?それとも単なる怨み、うさ晴らしをしているにすぎないのですか?

>Museさん
>創造神の存在自体を前提としない立場に立てば、当然のことながら、有神論も仮説に過ぎないということになります。

論拠(前提)をすり替えるのはおやめ下さい!こんなことは、今さら何を言うのかと思う次第です。ここまでくると、有神論か、無神論かというところから、議論を始めなければならないのでしょうか?

Museさんにとっては、俗に言う相手を煙に巻くという戦法なのでしょうが、このへんで、Museさんには煙ではなく、しっぽ巻いて退散していただかないといけませんね。(笑)
私は議論の素人を相手にしているようで、へこみますよ。

有神論前提、創造原理前提の議論であったはずです。今さらながら、後だしジャンケンで、次から次と論拠をずらそうとされているのは、見苦しい限りです。

そのうち、
『当方は断じて有神論は認めません。有神論も仮説に過ぎません。是々非々の観点から解釈する立場で、議論の途中で無神論に立ったとしても何ら不合理ではないということです。』と言いだすに違いないでしょうから。

仮説なのはあたり前の話です。問題は仮説かどうかなのではなく、仮説としての前提を議論の途中で絶対に動かすな!という単純なことなのです。

これは、議論のルール上の問題であって、ルールそれ自体に不合理か合理かとMuseさんのように難くせをつけられてもこちらは、しらけるだけでしょう。これは議論のイロハなんです。

Museさんは、ご飯の上にカレールーをかけるのか、カレールーの横にご飯を置くのかの議論している最中に、そもそもご飯が必要なのか、カレーじゃなくて、ミートソースのスパゲッティではダメなのかというような話を持ち出してきているのです。さらには、そのうち、腹にたまれば、何を食ってもいいじゃんとなって、カレーの話はなくなる(破たんする)のです。言っていることは一見正しいように見えても、ドン引きされるのですよ。

立論時に前提として提示した根拠やデータ資料は、捏造してはいけないことはもちろんですが、自ら提示したその根拠やデータを議論の途中で自ら認めませんと言って、放り投げて、議論をひっくり返すことは厳しく罰すべきことなのです。

Museさんは、サッカーで言えば、一発レッドカード退場なんですがね。ああ、情けない御仁だこと。涙

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